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会津が生んだもう一人の八重の物語

2018年06月13日 | 
もう一人の八重の物語
日本のマザーテレサ
会津で八重といえば有名なのは「山本八重」であろう。しかしながら看護界ではもう一人の会津の八重も有名である。会津は日本の看護界ではその発祥ともいえる貢献者が多いと思います。籠城戦が日本看護婦の始まりとも言われている事が所以。今回はそのもう一人の八重のお話。
井深八重と聞いてピンと来る人は少ないだろう。しかしこの井深という変わった苗字を何かを感じた人もいるだろう。そう、会津井深家は実は有名なのである。その一族の中でもっとも有名なのは世界のソニーの創始者である井深大氏だろう。そして明治学院大学創立者である井深梶之助であろう。白虎隊士の井深茂太郎、井深家から養子に行った石山虎之助も同じ井深一族である。
誤診
現在でも医療における誤診やミスにかんしてはシビアな見方が多い。この井深八重も誤診により人生が大きく変わった女性の一人だろう。井深八重は明治三十年、会津藩士だった井深家に生まれた。父が台湾総督府に勤めていたため台湾で生まれたようだ。両親が離婚した後祖母の八代に育てられたという。この八代は西郷頼母の妹でとても教育熱心で且つ厳しかったと八重は回想している。そんな八重は教育熱心な祖母のお陰で英語教師の道に進む。ここで人生最大の悲劇。体調を崩し診療したが赤い斑点を見た医者が「ハンセン病」と診断。御殿場の診療所に隔離されてしまうこのハンセン病が感染病ではないと国が判決したのはつい最近の事なので記憶にある人も多い事でしょう。当時は不治の病と言われていた。八重はまだ教師になって赴任したばかりの二十一歳であった。その隔離された診療所で同じくハンセン病として隔離されていた人々と出会う。ところが、3年後にこのハンセン病であった事が誤診とわかり、晴れて退院することになった。ここで人生の転機が訪れる。
ハンセン病と診断された自分を献身的に見てくれた医院長の姿に自分も手助けを。という気持ちが強くなり、看護婦資格を取って4年後この隔離された診療所に戻ってきた。その後の一生をこのハンセン病患者の治療に捧げ、明治から亡くなる平成元年まで続けたという。九十一歳で天寿を全うした。数々の功績が国や厚生省などから贈られた。日本の医療に貢献したもう一人の八重の物語。手に取ってしっかりと読み込んで欲しい人物です。

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