読んだ中でお薦めの本を紹介します!

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ある憲兵の記録

2016年06月27日 | 
ある憲兵の記録

「日本鬼子」昭和の泥沼化していた中国戦線で日本人が中国人から呼ばれていた名称だ。
盧溝橋事件を発端に中国との本格的な戦闘が始まったのは1937年。北京郊外の盧溝橋近くで演習していた日本軍に何者かが発砲したとして、翌朝から日本軍による本格的な戦闘が始まり中国全土で戦う事になった。7月7日の事だ。私は2008年中国に住んでいたがこの日は戦勝した最初の日という事で中国盧溝橋を中心として各地で反日デモが盛んに行われていたため、外出は控えた事が記憶に新しい。

当時日本は中国の他に満州に関東軍を置き、実効支配していた。元々住んでいた中国人たちは土地を奪われた。日本人が来なければ平和に暮らしていた人々のはずだった。

ある憲兵
この方は昭和6年に徴兵検査に合格し日本陸愚に入隊。
最初は大連独立守備隊に入営したが、出世を目指し憲兵隊を志願。試験に合格し見事憲兵になることができた。
 憲兵になって最初に教わるのは「拷問」の行い方だった。怪しい中国人を見つけては「反日組織のメンバーではないか」といった容疑で連行された中国人に対してあらゆる拷問を行った。最初はあまりにも酷いやり口にすぐ除隊を希望したが、徐々になれてしまう自分にとまどったようだ。こんなもんなのかと。相手は所詮反日分子、1人でも多くの反日分子を捕まえる事はお国のため。と躊躇する事もなくなった。
 配属先のチチハルでは中国の他にソ連にも注意しなければならなかったし、日本兵の軍紀違反なども監視していたため、日本兵からも恐れられ嫌われていた。確かに日本陸軍物の映画などでも憲兵に対してはいいイメージが無い人がほとんどではないだろうか。

敗戦
ご存知のように敗戦。中国満州やソ連との国境に近い地域の日本人集落は壊滅かソ連軍に連行された。憲兵といえどもやはり人間だ。憲兵として中国人などを捕える側から一変、囚われの身になった時に恐怖を感じ生に対して執着を感じた。やはり、「死にたくない」のである。今まで自分がしてきた拷問をされる側になった時の恐怖といったら想像がつかないだろう。
 また彼は妻子を中国大陸に読んでいたが敗戦のドタバタでバラバラに逃げるしかなかった。妻子が無事に日本の土を踏めるだろうか不安になる。同じようにチチハルから逃げる日本人の列から憲兵なら助けてくれるだろうとの声が殺到したが、敗戦下の日本兵ましてや憲兵など何の力もない。ましてこれからソ連の監視下の元捕虜生活に入る。
 なぜ日本人は中国大陸でここまで残忍な事ができたのだろうか。
同じように中国大陸で戦争体験をした方々は日本に復員してからどのような気持ちで生活していたのだろうか。戦後71年が経ち、その経験者は年々減っている。もっと早く、このような本に出会い、戦争経験者に話を聞きたかったと強く思ったしだいです。

歴史から何を学ぶべきか

2016年06月24日 | 
歴史から何を学ぶべきか

歴史が好きな人は多い。特に近年では戦国ブーム:幕末ブーム:歴女ブームなどいろいろな観点から歴史を読み解く人が多くなっていることには好感が持てる。
しかしながら、せっかくの知識を得たのに生活に生かさない、いかせないのはもったいないきがする。
そんな中歴史ifや先人たちがどのように考えどのように生きてきたのか、足跡を追ってみたり自分なりの仮設を考えて見る事も歴史を巡る楽しみの一つではないでしょうか。

if説で一番人気なのは、本能寺で信長が殺されていなかったら!や武田信玄が
病で倒れずに信長包囲網通り上洛に向かったらどうなっていたか。そもそも桶狭間の戦いで信長は勝利できず今川義元が勝利したら。など信長だけでもifを楽しめる。

あなたにとって歴史ifは何を学ばせてくれるか。
そんなことを考えながら読むと面白い一冊です。

あずさ弓の如く 長州編

2016年06月23日 | 
会津戊辰戦争

薩長軍が持つ最新重火器の前では勇猛果敢な会津藩士たちも苦戦続き。
一番困ったのは「アームストロング砲」だ。会津藩や旧幕府軍の持つ丸砲弾と違い、椎実型破裂砲は飛距離も威力も各段に違う。さらに籠城戦を不利にしたのは鶴ヶ城から約2キロにある小田山を薩長軍に占領されたことだ。
小田山は鶴ヶ城より高く、山頂から城を覗く事ができる。鶴ヶ城は台地に立つ城で、山頂から見下ろしながら砲撃が可能。周りに高い建物もないので格好の目印だった。私もこの小田山西軍陣地を訪れた事があるが、これは見事に鶴ヶ城を見下ろせた。
 それに対して会津藩の砲撃は飛距離に短く上に向かって放つため西軍陣地まで届かない。なぜこの要所を取られないように押さえていなかった事は疑問でならない。とは言え、籠城戦の約1ヶ月間、1日2000発もの砲弾を受けても落城しなかった鶴ヶ城もまた天下の名城であったと思う。

生き残った少年
白虎隊の自刃については前回の「ならぬものはならぬものです(会津編)」で書かせてもらった。
ここからはその続きになる。飯盛山で自刃をした白虎隊の近くをたまたま近くの村の者が通り書かりその者が飯沼家に出入りしていた藩士の妻であったことから偶然にも助けられた。同じく飯盛山で自刃した19名はすでに絶命していたそうだ。飯沼少年は小太刀を喉に突き刺したがわずかに急所を外してしまい絶命しなかった。通りかかった地元農民に助けるふりをされ太刀を奪われ自分で止めを刺す事が出来なかった。会津の地元民にこのような行為にさらされた事が前年でならない。
 夜陰に紛れて城下町近くの宿で匿われ飯沼少年は命を長らえた。ただ回復に時間がかかってしまい歩けるようになった時には会津藩は降伏していた。
 飯沼少年は政府軍局に出頭したが脱走兵扱いを受け東京に護送。そこで長州藩士「楢崎頼三」と面会。その楢崎から敵国長州で謹慎する事と言い渡され楢崎とともに長州へ。かなり屈辱的な仕打ちと感じただろう。

長州での生活
飯盛山で自刃した白虎隊士の内、唯一生き残った飯沼貞吉。ひとり生き残った事を恥じ死を願う少年に再び生きる光を見出したのは敵である長州藩士楢崎頼三であった。山口県美弥市の小杉集落、その庄屋であった高見家には100年以上にわたり語り継がれてきた興味深い話がある。その内容は書き記されておらず一族が集まった時にだけ長老たちから内々に語られて今日に至る。村人も知らない長州人でもない謎の少年が現れたのは明治元年十二月初旬の事であった。
 飯沼少年はこの美弥村での生活で勉学に励んだ。時折楢崎から当時の最新事情の本などが送られてきては食い入るように読み込んだ。その中にあった西洋事情の「機会に向かってしゃべると紐を通じて離れた人と会話が出来る」といった文章にひかれた。いわゆる電話だ。
 当時の世界情勢ではイギリスとアメリカの間では海底ケーブルによって国を越えて会話する事が出来ていたのだ。この新しい西洋技術を知ることによって生きる光を見出す事ができた。

旅立ち 
長州に来てから2年半が経ち飯沼少年も18歳になった。この時、会津藩も謹慎が解かれて自由の身になるが、楢崎から長州にいた2年半の事は絶対に他言しない事を約束させられた。謹慎が解けたと言っても長州藩に恨みを持つ会津藩士も多いだろうからこの先の人生に影響する事を懸念された。もちろん美弥村の村人にも箝口令が引かれたため口外されなかった。飯沼少年を匿っていた庄屋の高見家だけが口伝で子孫に伝えていた。今でもその風習は変わらないという。

その後電信技術学校に進んだ飯沼少年は明治五年に工部省に任官。各地の電信設備を手掛けた。その技術の高さかを買われ日清戦争時は大本営付き技術院として朝鮮半島に渡った。朝鮮半島では過酷な環境下であったが架設を成功させた。時折馬賊に襲われることもあり電信検査の時は拳銃を携帯するのだが、飯沼氏は「白虎隊士として一度死んだから命は惜しくない」といって携帯を拒んだ。
 また日露戦争時は海底ケーブルを状況に応じて移動させる離れ業で世界戦争の勝利に貢献した。
電信技術でその功績が認められ青色銅葉章を賜った。
昭和6年 その波乱に満ちた人生に幕をおろした。会津には一度も戻らなかったという。
この物語は平成になってから見つかった記手による。
2011年 飯沼貞吉子孫と高見家子孫と楢崎家子孫が一堂に会う機会があり話題になったのも新しい。
昨年、飯沼氏と直接お会いしてお話を伺う事ができた。内容が濃すぎて書ききれないので是非飯沼氏が手掛けた「白虎隊士飯沼貞吉の回生」を読んで頂きたい。

:book:440363:白虎隊士飯沼貞吉の回生 第二版:



時代に翻弄された男の物語であった

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2016年06月22日 | 
会津戊辰戦争

薩長軍が持つ最新重火器の前では勇猛果敢な会津藩士たちも苦戦続き。
一番困ったのは「アームストロング砲」だ。会津藩や旧幕府軍の持つ丸砲弾と違い、椎実型破裂砲は飛距離も威力も各段に違う。さらに籠城戦を不利にしたのは鶴ヶ城から約2キロにある小田山を薩長軍に占領されたことだ。
小田山は鶴ヶ城より高く、山頂から城を覗く事ができる。鶴ヶ城は台地に立つ城で、山頂から見下ろしながら砲撃が可能。周りに高い建物もないので格好の目印だった。私もこの小田山西軍陣地を訪れた事があるが、これは見事に鶴ヶ城を見下ろせた。
 それに対して会津藩の砲撃は飛距離に短く上に向かって放つため西軍陣地まで届かない。なぜこの要所を取られないように押さえていなかった事は疑問でならない。とは言え、籠城戦の約1ヶ月間、1日2000発もの砲弾を受けても落城しなかった鶴ヶ城もまた天下の名城であったと思う。

生き残った少年

白虎隊の自刃については前回の「ならぬものはならぬものです(会津編)」で書かせてもらった。
ここからはその続きになる。飯盛山で自刃をした白虎隊の近くをたまたま近くの村の者が通り書かりその者が飯沼家に出入りしていた藩士の妻であったことから偶然にも助けられた。同じく飯盛山で自刃した19名はすでに絶命していたそうだ。飯沼少年は小太刀を喉に突き刺したがわずかに急所を外してしまい絶命しなかった。通りかかった地元農民に助けるふりをされ太刀を奪われ自分で止めを刺す事が出来なかった。会津の地元民にこのような行為にさらされた事が前年でならない。
 夜陰に紛れて城下町近くの宿で匿われ飯沼少年は命を長らえた。ただ回復に時間がかかってしまい歩けるようになった時には会津藩は降伏していた。
 飯沼少年は政府軍局に出頭したが脱走兵扱いを受け東京に護送。そこで長州藩士「楢崎頼三」と面会。その楢崎から敵国長州で謹慎する事と言い渡され楢崎とともに長州へ。かなり屈辱的な仕打ちと感じただろう。

長州での生活

飯盛山で自刃した白虎隊士の内、唯一生き残った飯沼貞吉。ひとり生き残った事を恥じ死を願う少年に再び生きる光を見出したのは敵である長州藩士楢崎頼三であった。山口県美弥市の小杉集落、その庄屋であった高見家には100年以上にわたり語り継がれてきた興味深い話がある。その内容は書き記されておらず一族が集まった時にだけ長老たちから内々に語られて今日に至る。村人も知らない長州人でもない謎の少年が現れたのは明治元年十二月初旬の事であった。
 飯沼少年はこの美弥村での生活で勉学に励んだ。時折楢崎から当時の最新事情の本などが送られてきては食い入るように読み込んだ。その中にあった西洋事情の「機会に向かってしゃべると紐を通じて離れた人と会話が出来る」といった文章にひかれた。いわゆる電話だ。
 当時の世界情勢ではイギリスとアメリカの間では海底ケーブルによって国を越えて会話する事が出来ていたのだ。この新しい西洋技術を知ることによって生きる光を見出す事ができた。

旅立ち

長州に来てから2年半が経ち飯沼少年も18歳になった。この時、会津藩も謹慎が解かれて自由の身になるが、楢崎から長州にいた2年半の事は絶対に他言しない事を約束させられた。謹慎が解けたと言っても長州藩に恨みを持つ会津藩士も多いだろうからこの先の人生に影響する事を懸念された。もちろん美弥村の村人にも箝口令が引かれたため口外されなかった。飯沼少年を匿っていた庄屋の高見家だけが口伝で子孫に伝えていた。今でもその風習は変わらないという。

その後電信技術学校に進んだ飯沼少年は明治五年に工部省に任官。各地の電信設備を手掛けた。その技術の高さかを買われ日清戦争時は大本営付き技術院として朝鮮半島に渡った。朝鮮半島では過酷な環境下であったが架設を成功させた。時折馬賊に襲われることもあり電信検査の時は拳銃を携帯するのだが、飯沼氏は「白虎隊士として一度死んだから命は惜しくない」といって携帯を拒んだ。
 また日露戦争時は海底ケーブルを状況に応じて移動させる離れ業で世界戦争の勝利に貢献した。
電信技術でその功績が認められ青色銅葉章を賜った。
昭和6年 その波乱に満ちた人生に幕をおろした。会津には一度も戻らなかったという。
この物語は平成になってから見つかった記手による。
2011年 飯沼貞吉子孫と高見家子孫と楢崎家子孫が一堂に会う機会があり話題になったのも新しい。
昨年、飯沼氏と直接お会いしてお話を伺う事ができた。内容が濃すぎて書ききれないので是非飯沼氏が手掛けた「白虎隊士飯沼貞吉の回生」を読んで頂きたい。

石山合戦

2016年06月21日 | 
石山合戦

10年にも及ぶ本願寺顕如の〈対信長戦略〉はなぜ徹底抗戦を決意させたのだろうか。そもそも浄土真宗は親鸞を開祖とし親鸞の血脈を引く本願寺宗主は、8代蓮如の時に起こった、応仁の乱などの戦乱によって平和を乱された民衆の心のよりどころとして圧倒的な信仰を得る事になり全国に拡大した。彼らは一向宗とか門徒とk呼ばれ各地に信仰集団を結束してた。彼らの中には武士階層も多く含まれており領主の介入を許さない地域なども潜在し強力な武力集団となった。その地域を寺町といい大阪の石山本願寺がその中心となった。畿内:東海:北陸には門徒が多かったようだ。徳川家康も家臣に多くの門徒を抱え一時は仲たがいしたが後に帰参を許すなど寛大な処置をした事で有名であろう。
織田信長が足利義昭を奉じて京都に入ってから畿内は信長に制圧された。信長は将軍家再興という名目で経済発展していた堺に2万貫、本願寺には5000貫を課した。堺は抵抗したが本願寺は衝突を避けるために応じた。と、いうのも信長が畿内を制圧した頃から小競り合いが続き寺社などが破壊されて来たからだったと伝わる。事実、信長はあまり神仏を信じておらず、比叡山の焼き討ちなど行う時も躊躇なく実行したほどだ。
この信長の圧力に従ったのは11代目顕如だ。
この後も信長は本願寺に対して諸大名との交際を禁じたり門徒の動きの報告を要求したが顕如は無視。これまで本願寺としてもこれまで支えてくれていた諸大名との交際を断つわけにもいかなかったし、むしろ交際は活発化していた。いわゆる信長包囲網の準備段階だったらしい。しかも武田信玄や朝倉義景などは縁戚を結んでいたので関係はさらに強固なものに。実は顕如の奥方と武田信玄の奥方は姉妹なんです。
従わない本願寺に対して、信長は増々要求をエスカレートしていった。その中には武装解除して門徒の追放など。
さらには石山から本願寺を退去せよ。拒否すれば破却すると通告。これにより顕如は親鸞以来の法灯を守るためには信長と戦うしかないと決断しただろう。勝算は別として売られた喧嘩は買います的な対立が深まっていったのでしょう。
敵意むき出し
顕如は決起する前から準備していたはずだ。武装した門徒を事前に大量に集めていたし紀州の雑賀衆も自軍に引き込んでいた。しかしそれだけでは信長に勝利する事は難しい。信長を引かせるには圧倒的な勝利で信長を下すしかなかろうと各地の戦国大名も巧妙に自軍に引き込んだ。武田信玄:朝倉義景:浅井長政:上杉謙信:三好三人衆:毛利輝元などそうそうたるメンバーが顕如の案に乗った。信長包囲網ですね。というより戦国オールスターのようなメンツですね。
同盟する領国の門徒を動員する事により強力な軍事力を得た本願寺軍は信長軍と正面から対峙した!
緒戦は一向門徒の勝利が多い。中でも尾張小木江城の攻防では信長の弟信興を自刃に追い込んでいる。
門徒の女子供も後方支援にまわっているのでまさに総力戦だった。
十年にも渡る石山戦争の始まり…。
軍事の専門集団には勝てなかった
本願寺と朝倉:浅井が蜂起。さすがの信長も金ヶ崎での敗退に這う這うの体で京都に戻った。この後伊勢長島の一向一揆に手を焼く。そんな中信玄が三方ヶ原で徳川家康を破り、信長との直接対決目前に迫ったところで信玄が病のため死去。歴史ファンなら誰もが知っている展開。
木津川から兵糧を運んでいた毛利水軍にも敗退していた信長はご存じ鉄甲船6隻と搭載していた大筒で毛利水軍を粉砕。これによって本願寺軍は海上からの輸送路を絶たれてしまった。顕如は門徒から武力増強を求めたが思うように進まず次第に攻撃力低下が著しく表面化してきた。
ここにきてかねてから信長から動きかけていた正親町天皇からの和睦勧告。戦力で優位に立った信長は石山本願寺の寺町をそのまま要塞化または経済の中心地として使いたかったのではないだろうか。あまり強引に攻めなくなってきた。
信長からの和睦条件は石山からの退去。これに顕如は応じる決断をしたが、この和睦反対する者が現れた。
顕如嫡男の教如だった。教如は23歳。少年期からの10年、信長と戦い続けていたのでまだまだ戦闘意欲があったに違いない。これにより本願寺の中で内紛が起こり親子分裂によって西本願寺と東本願寺にわかれる原因となった。
世界各地で起こっているテロ事件は宗教絡みの物が多い。日本にとっては宗教戦争は他国の話と思うかもしれませんが500年前、日本でも起こっていたんです。
信長からしてみたら新しい世の中を作ろうとしている中、自分に従わない異端者である一向宗。
一向宗からしたら神仏を信じない異端者で独裁者に映ったのであろう。
両者はなぜお互いを攻める決断に至ったのだろうか。
まだまだ深く読み解く必要があるだろう・・・。