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松江豊寿と会津武士道

2018年06月16日 | 
会津人の魂
松江豊寿 坂東俘虜収容所所長
松江豊寿。映画にもなったバルトの楽園のドイツ人捕虜収容所の所長である。捕虜であったドイツ人たちにおよそ捕虜生活では考えられないような自由を与え薩長閥の上司たちから疎まれた。そんな気骨ある人物もまた会津人であった。
戊辰戦争
松江豊寿は戊辰戦争には参加していない。というよりまだ生まれていなかった。父が朱雀隊として会津戊辰戦争に参加した。ところが、そもそも松江豊寿の父久平は仙台藩士であった。仙台藩からの応援客分であったが会津藩士の人生の接し方に感銘しそのまま会津に残り、朱雀隊として会津戦争に参加したが敗北。仙台には戻らず斗南に行く。もう心は会津藩士そのものです。会津武士として斗南で苦渋の生活を経験し、廃藩置県により会津に戻り家族を持つようになり豊寿が生まれた。斗南から続く貧しい生活は変わらなかったが西南戦争が勃発し警視庁が募集した抜刀隊に入隊。西南戦争に参加した。豊寿も貧しさから軍人の道と歩む。陸軍幼年学校に受かれば学費などかからず給付金がもらえる。貧しい会津人にとって警察と軍人の仕事はまさに選ばざるを得ない職業だったのだろう。
第一次世界大戦
第一次世界大戦が起こり、日本は日英同盟の要請に応え青島にいたドイツ軍と戦争を行う。同津軍5000人に対して6倍の3万人で攻撃。青島にいたドイツ兵4600人を捕虜として日本に連行した。明治三十三年に捕虜取り扱いのハーグ条約に調印し国際法を守ってきた日本であるが、脱走事件を機に捕虜を厳しい規則で縛るようになる。時には暴力も。しかし、⒓箇所あった収容所の中でドイツ人捕虜が日本人との交流を大切にし、そのドイツ文化を日本に定着させるキカッケを作った所長こそ松江豊寿である。彼の口癖は「捕虜も祖国のために戦ったのだから」とドイツ人捕虜に寛容的だった。

ドイツ文化
当時の日本にはまだドイツ文化はなじみがなく物珍しかった。今でこそよく食べられているソーセージ、ハム、チーズ、ベーコン、ピクルス、トマトケチャップなどこのドイツ人捕虜が日本人との交流した時に広く伝わったものとも言われている。と、いうのも、ドイツ兵は元々の軍人の他に青島で軍隊に入った職人たちが多く、家具職人、皮職人、金細工師、土木技師などいろいろな職業の人達がいた。松江豊寿はこのドイツ文化を日本に広めようとし街の人々との交流などを自由に許した。そして音楽祭を開き日本初ベートーベン第九楽章を演奏したのだった。中には、捕虜生活から解放されても祖国に戻らず、日本で洋菓子屋を作った人物がいる。バームクーヘンで有名な「ユーハイム」これはパン職人だったカール・ユーハイムである。その他にも高級ソーセージで有名なヘルマンもこの坂東俘虜収容所出身との事。
会津人は会津人
こんな自由な収容所が許されるわけなく、何度も上司から叱責を受けるが松江豊寿が屈するわけもなく「わずかな人数で数万人の連合軍と祖国のために戦った彼らに無礼な扱いは出来ない」と突っぱねる。その後は閑職に追いやられてしまう。特に軍隊では会津出身という事で長い間蔑まされてきた。軍人を退役すると若松市長となり会津戊辰戦争で亡くなった英霊たちを慰霊することに尽力した。会津人としての誇りを片時も離さず生き抜いた明治の武士の物語。彼の人生を読んだあとに映画「バルトの楽園」を見直しては如何でしょうか。

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