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春風伝

2018年07月12日 | 
長州藩の若きリーダー
春風伝
若くして病に散った『高杉晋作』の物語。家柄はいいが破天荒な生き方だったが人望もあり、いつしか吉田松陰の松下村塾のリーダー的な存在になっていった。その高杉晋作が吉田松陰や松下村塾の塾生たちとどのように交わりながら尊王攘夷活動を繰り広げられたのかが描かれています。
親友
高杉晋作の親友といえば久坂玄瑞が有名でしょう。晋作は玄瑞に誘われて松下村塾に入るわけですが、当時藩内では吉田松陰の評判は非常に悪かったのです。と、いうのも二度目の黒船来航の時にアメリカの軍艦に乗り込み密航を依頼しますが当然のように断られてしまいます。それどころか幕府に通報され捕えられました。しかしアメリカ人士官たちはこの礼儀正しい青年に好意を抱き、あのペリーですら幕府に寛大な処分をして欲しいと申し入れたほどだ。そのため故郷の萩で1年間の獄中生活だけで済んだ経緯があり、藩内の人であれば誰でも知っている事。奇人扱いですよ。藩の上級武士の親からしてみたら、そんな奇人とも不良とも思える人が開いた塾など近づいて欲しくないに決まっている。何故玄瑞はここに晋作を誘うのか。実は玄瑞の家は藩医の家でしたが、長男が病死したのを始めとして両親も14歳の時になくなり、幼くして藩医の跡取り息子となった。医者になる勉強などしてこなかった玄瑞だったが18歳の時に松下村塾へ入塾し、松陰の人柄やその塾の授業内容などすべての事に薫陶し松陰の教えを、水を得たスポンジのように吸収しその高い学習能力から松陰からも「一流の人物」と評されるまでに成長した。充実していた塾生生活だったのでしょう、近所に住む親友?悪友の高杉晋作を誘い足しげく松下村塾に通った。
 ところが、高杉晋作の父親は許すはずもなく気軽には通えなかったため、夜遊びに見せかけて家を出ていたとの事である。というのも、高杉家は毛利元就の時代からの譜代の家臣で長州藩内では上級武士にあたる。藩校明倫館に入学後、悪友玄瑞の紹介で松下村塾に入るが、松陰の死後、藩命により幕府使節随行員として上海に渡る。そこで見た光景がその後の晋作の行動に現れる。
上海
上海で見た光景は上海市内であるにも関わらず、イギリス人に通行料を払わなければ中国人は通る事が許されない場所などがあり、上海市内を占領している西洋人の植民地化政策を目の当たりにしたことだった。今でも上海市内にはその跡地が残っています。外灘、フランス疎開地など。都市部の中心地に当時の建築物が残っていますので興味がある方は上海も訪れてみてはどうでしょうか。そんな晋作は上海で武器の購入をしています。そうS&Wのリボルバー。1丁は自分の護身用に。もう1丁は…、そうです、坂本龍馬にプレゼントしたんですよ。実際に寺田屋で幕府の役人に踏み込まれた時に使用。1人を殺害したと記録されている。しかし多勢に無勢、6発全て撃ち終わったところを斬り込まれ親指を負傷、やっとのことで薩摩藩邸に逃げた話は有名すぎますが、そのピストルは?といったら、弾も打ち尽くしたし役人に投げつけて逃走したので押収されたとの事。龍馬といえばピストルですが使用したのはこの1回くらい。高杉に至っては護身用のピストルと使ったという話はのこっていない。
奇兵隊
高杉晋作といえば奇兵隊が連想されますよね。実際、奇兵隊を作り初代総督として指揮していましたが、彼は長州の上級武士。足軽や町人などの集団の部隊の部隊長の座は赤根武人に譲り、藩政治の深いところまで進出し、幕府恭順だった藩重臣たちのいけんを覆し第二次長州征伐に臨む。高杉晋作の輝かしい動きと藩をまとめる力で見事に勝利しますが、この事が武士の情けを知らない者たちが薩長軍として東北諸藩に攻め上がるのだから戊辰戦争の戦い以外の悲惨な出来事ばかりが起こってしまうのですが、これはまた別のお話。高須に至っては、この第二次長州征伐後に持病の結核が進行し慶応三年に病死する。享年27。
若き指導者の早すぎる死がその後の長州の暴走に拍車をかける事になってしまった。とても熱い男であった事はこの本から読み取れます。

世良修蔵という悪魔

2018年07月12日 | 
世良修蔵という悪魔
戊辰戦争と世良修蔵
薩長の謀略を正当化するためだけに起こした内戦。すなわち戊辰戦争の引き金を引いたのは誰?この男の暴挙が死ななくてもいい人たちを多く巻き込んだ戊辰戦争へと突き進んでいくことになってしまった。今回はその男とその男を斬り捨てた仙台藩について紹介します。
東北諸藩を恐怖に陥れた悪魔の男
その男の名は世良修蔵。世良は山口県大島郡椋野で生まれた。瀬戸内海の島だ。元々は島の庄屋が本家であり下級武士でもあったが、早くから萩城下に出て高杉晋作に心酔し、奇兵隊に入隊。奇兵隊では書記官を務めたと記録されている。世良修蔵は奥羽鎮撫総督府の参謀として仙台に赴くが、本来はこの参謀は品川弥二郎だった。品川は、仙台藩は大藩で交渉に苦戦する事を予測し参謀職を降りて世良に譲った。品川弥二郎といえば明治政府内で重要なポストである宮中顧問官や内務大臣を務めた人物です。世渡り上手な男だったのでしょうね。
世良修蔵が仙台に到着したのは1868年三月。突如、奥羽鎮撫総督一行を乗せた軍艦が仙台湾に現れ東名浜に上陸。総勢600名からなる部隊で、奥羽鎮撫総督「九条道孝」副総督「沢為量」参謀少将「醍醐忠敬」下参謀薩摩藩士大山格之助(のちの大山綱良)下参謀、世良修蔵である。当然ながら突然の事に仙台藩は完全に準備と情報不足であった、そこに木戸や西郷から「仙台藩を会津藩征討に向かわせろ」という命令に従い、仙台藩藩主や重臣たちに対して無礼な態度や言動ばかりを行った。もちろん略奪婦女暴行なども平然と行い、奥羽鎮撫総督に従わなければもっと仙台で暴れる事を示唆し仙台藩重臣たちを会津藩征討に心が動くように仕向けた。しかしながら仙台藩から見た会津藩は京都守護職として京都で御所の警備を行い孝明帝からの信頼も厚かった会津藩を何故仙台藩が討伐に向かわなければならないのかと藩の意見はまとまり、なかなか会津藩征討に動かなかった。世良修蔵は仙台で花見の宴を開き、酒の勢いも入れて総督府代表として仙台藩を軟弱だと暴言を吐き続けた。そして、そのことを総督府下参謀の大山格之助宛の手紙に「奥羽皆敵。人数も増員し軍艦を酒田に派遣し日本海側と仙台を挟み撃ちにするしかない。越後口にも人数を増員し警戒する方がいいとする。また会津は恭順謹慎など開城すらする気もなく首級を差し出させる方が良いでしょう」と認めた手紙を出したが仙台藩の手に渡ってしまい、福島の旅籠で仙台藩士、福島藩士らに寝込みを襲われ捕えられた。世良修蔵は中背肥満、容姿は角顔に総髪を一束に結んでいたといわれている。酒好きだったことから福島の旅籠金沢屋ではかなり飲んだようで、傍らに遊女もいたと記録されている。
世良修蔵の最期
捕えられた世良修蔵は阿武隈川の船場で一刀で首を刎ねられた。その首を巡って仲間割れがあったようだ。只木土佐は「罪人の首は川へ捨ててしまえ」と言えば、玉虫佐太夫は「厠に捨ててしまえ」と。ところが1人異論を唱えた者がいる。丁重に埋葬すべしと武士の作法に則る事を説いた。その者の名を真田喜平太といい、真田幸村の直系子孫である。世良修蔵が仙台に来て将来の日本について説いた時に賛同し、且つ幕府解体の後は帝の政治になるが本当にそのような事をするのであれば藩を排しし郡県制にしなければならないだろう。そして300諸侯を束ねるならばまず薩摩、長州がその見本となって庶民から支持されなければならない。と説いたことに感銘した世良修蔵は以後、真田喜平太を先生と呼び交流を深めた。世良修蔵も必ずしも仙台、会津憎しとの想いだけではなく、尊王攘夷の思いが強かったという事もこの事から読み取れる。
その後
世良修蔵には妻がいたが夫は遠く奥州の地で果て帰らなくなった。修蔵には子供がいなかったので彼の直系子孫は途絶えている。
只木土佐は仙台藩の戦争責任者として捕えられ麻布仙台屋敷で処刑された。また玉虫佐太夫も捕えられ斬首された。
結局、仙台藩は戊辰戦争の責任を、人材を失うという形で取った事になる。
戊辰戦争は会津だけではなく色々な所で悲惨な結果を残している。

維新の肖像

2018年07月05日 | 
明治維新は太平洋戦争にまで影響した
維新の肖像
二本松藩士として戊辰戦争を戦った父・朝河正澄。その父の生き方を否定しながらも、太平洋戦争へ突き進む日本に対してアメリカから侵略戦争批判をし続けた子・朝河貫一の物語。
父との葛藤
やたらと厳しい父の事が嫌いな息子は昔から多かったのだろ。そんな貫一も父正澄が苦手で離れるのが正当な理由の如くイェール大学で歴史学を教えるためアメリカに渡ったが、そこで待ち受けていたのは日本が対朝鮮半島や中国に向け侵攻をしていた在米日本人には暗黒の1930年代であった。
この頃は上海事変、満州事変と中国侵略著しく、日本の軍国主義は世界中の国から批判の嵐であった。そのことを感じていた貫一は日露戦争後の日本に危惧し、このままではアメリカと戦争になってしまう事を日本の政治家などに奏上したがその想いは届いていなかった。
反日運動も厳しく貫一への嫌がらせも日々エスカレートしていく。そんな中、父から託された「幕末日誌」を見つけた。父正澄が二本松藩士としてどのように戊辰戦争を戦ったのかが記されていた。そこで父の半生を小説として書き残そうとするのだが…。

日本軍部の暴走
父が経験した戊辰戦争を綴ってみると、日本軍部が行っている事は幕末期の薩摩藩や長州藩と変わらす、自作自演の暴挙で相手を陥れようとする手段が正攻法のように行われている事に気が付く。薩摩藩が江戸で放火、強盗、強姦を重ね幕府軍が立ち上がるのを待ってから蜂起。先に武力抗生に出た方が負け。悪者になってしまう。これは上海事変や盧溝橋事件などでも同じ。日本軍の演習場へ中国軍が先に発砲したとし武力衝突を開始する。また帝を抱え込み偽物の勅許であたかも正しい物として物事を正当化する。これも清国最後の皇帝愛新覚羅溥儀を皇帝に祭り上げて満州国という日本の傀儡国を設立した。昭和初期の日本軍の動きはまさにこの薩長の謀略と同じだ。その後、西南の役でその薩摩の指導者であった西郷隆盛が反逆者として倒れ、木戸孝允は病で、大久保利通は防寒に襲われて命を絶った。
昭和恐慌の中、また日本は同じ過ちを犯すのではないだろうかと思っていたが、その後の日本のたどる道は皆さんがご存じのように無残な敗戦を迎え、新しい日本へ生まれ変わるのだが、当時の日本人で暴挙の侵略を批判していた人は少ない。貫一ももっと早く父の残した戊辰戦争のあり方を学んでおけばよかったと後悔するのですが…。

父・朝河正澄
朝河正澄は二本松藩藩士の次男として生まれ、江戸藩邸に派遣されていた時に薩摩藩邸焼き討ち事件に関わる。江戸市中見回りを庄内藩と二本松藩が担っていたからである。そこで彼は初めて人を斬る実践を体験する。この事が後に薩長軍と向き合う戊辰戦争で経験値を生かして重要な任務を任命される。そして二本松城がどのように落城し、どのように生き延び、どんな思いで薩長の政府の元で生きてきたのか。初めて苦手だった父の背中を見た気がした…。
そんな戦争を起こす側の本質が読み取れる一冊だと思います。

小説 田原坂

2018年07月02日 | 
幕末の後始末

田原坂

田原坂。西郷隆盛率いる薩魔士族と新政府軍が衝突した激戦地として今もなお当時の銃弾が畑の中などから発見される事がある。2018年度の大河ドラマ「西郷ドン」が決定したので今後観光で賑わう事になるでしょう。興味がある人は鹿児島や熊本に行ってみると良いでしょう。
今回の小説『田原坂』は西郷隆盛の生い立ちや家族構成、そして島流しになった事などで前半の話が進む。最後は鹿児島の城山で果てる事で終了するが、そこに至るまでの人間模様が描かれている。今回はその人間模様に注目しながら紹介させて頂く事にします。
西郷家は代々薩摩藩の小姓組に属し、勘定方小頭四十石の家柄であったが四十石といっても有名無実で米の支給は無いのと同じだから吉之助の父の時代に城下士の株を売ってしまった。それでも士族の身分はそのままだから滅に困らなかったが、食い扶持は自給自足、家族で畑を耕さなければならなかった。薩摩では城下に住む士族を城下士、城下の外に住む郷士を外城士、更に村々に在村郷士があり三者は厳しい身分制度によって差別されていた。この辺りの身分制度は譜代、外様関係なく大藩では当然のように整備されていた身分制度です。そんな西郷家は身分こそ城下士であったが島津家中下から二番目の軽輩で暮らしは在村郷士にも及ばぬ赤貧ぶりだったと言われている。西郷隆盛、当時吉之助は西郷家の長男に生まれている。早いうちに両親が亡くなり兄弟の面倒は長兄である吉之助が見ていた。吉之助の下には家老座書役の市来六左衛門に嫁いでいる琴子をはじめ、三人の弟と二人の妹がいた。その妹の一人は早くに亡くなっている。吉之助が江戸詰めで藩主島津斉彬と国事に奔走していた頃は六歳年下の吉二郎が家長代わりに留守宅を守っていた。三男の竜助、後に信吾、従道と名を変える陸軍大臣西郷従道はまだ城に上がったばかりの茶坊主。四男の小兵衛はまだ十代になったばかりの少年だった。隆盛と従道は16才、小兵衛はとは22歳も年が離れていた。弟たちからみたら兄というより父に見えたであろう。

島流し
西郷は二度、島流しに合っている。一度目は奄美大島。二度目は徳之島。どちらも薩摩と琉球を結ぶ大事な島々で薩摩藩は島々に代官をおいてサトウキビの栽培を行い摂取していた。ここで得る経済力は莫大で薩摩藩は潤ったが、島民は奴隷同様の暮らしを強いられていた。吉之助はその人柄から島民からも慕われ、島で結婚した。ここで生まれたのが西郷菊次郎、後に京都市長を務める。また六大学野球で西郷準という剛速球当主がいた。太平洋戦争時、南方戦線で命を落としたが彼は菊次郎の息子である。
田原坂での攻防
明治維新は割愛し、ついに蜂起した西郷率いる薩摩士族ですが、まずは熊本城を落として九州にいる政府への不平士族を吸収して東京に迫ろうと作戦をとったが、熊本城は簡単に落城しなかった。まず薩摩軍の砲弾が熊本城に届かなかった事や、徴兵された兵とはいえ訓練を受けたものたちがライフル銃を持って撃ってくるため抜刀隊が中心の薩摩士族は簡単には熊本城に近づけない。出来る事は城を囲って兵糧攻めにする事。しかし政府も物量にものを言わせて各地から援軍を熊本城に差し向ける。福岡方面から熊本城に繋がる大きな道が田原坂だったのである。何故ここを政府軍は通りたかったのか。それは大砲や荷台車が通れる道幅の広い道がほかになかったのでこの1.5キロの緩い坂道が西南戦争最大の激戦地になるのであった。広いといっても、車がすれ違うのもやっとの道幅。しかも山岳地を堀進めた道なので坂の上に陣取った薩軍が有利であった。結局17日間もここでの攻防戦が起こった。1日で消費した弾丸は3万5千発とも言われている。また毎日戦闘しているわけではなく、死者の埋葬や負傷者の搬送など、休戦日が設けられていて、当時の武士道を物語る話がいくつも残っています。深くこの事を知りたい人は是非田原坂に行って資料館などで生の情報を得る事をお勧めします。ちなみに私は2回ほど田原坂を訪れました。

美少年
田原坂といえば美少年。
『右手に血刀左手に手綱馬上豊かな美少年』民謡田原坂に歌われた美少年は薩軍の村田新八の長男岩熊がモデルで伝令として戦場を疾駆している姿ではないかと言われている。その村田岩熊は四月一日の戦闘で戦死、西郷菊次郎は砲弾で右足を失っている。
永山弥一郎率いる三番大隊と元会津藩家老山川浩率いる政府別働軍が衝突、永山弥一郎は農家一軒を買い取って火を放ちその中で自刃したと武士の最後を物語るエピソードを残している。

幕末の後始末
最終的には故郷の鹿児島へ追い込まれた薩摩士族は鹿児島市内の城山の洞穴に立て籠るが政府軍の総攻撃の前にほとんどが討ち死に。西郷以下主な幹部も戦死しここに西南戦争は終結する。これが国内最後の内戦であり改めて武士の時代が終わりを告げた事になった。実に幕末といってもその時代は30年近く擁する。

気象台の父

2018年06月29日 | 
気象台の父
## 日本気象台の父
荒井郁之助というと榎本脱走艦隊に乗って薩長率いる新政府軍に抵抗し五稜郭にて降伏した幕臣ということまでは歴史ファンはしっていると思いますが、実は幕臣としてよりも戊辰戦争後の明治政府の下、近代科学技術と自然科学の基礎を築いた優れた科学者である。
幕臣の家に生まれて。
幕府海軍の副総裁というと榎本武揚は知っている人が多いが、総裁は?となると実は勝海舟ではなく、矢田堀塾の創始者矢田堀景蔵が相殺であった。そしてこの矢田堀景蔵は郁之助の父の兄弟で叔父にあたる。生まれ持って海軍に近い家庭ではあったが、最初に勤務したのは陸軍歩兵組。そう、後に一緒に戊辰戦争を戦い、明治政府に組みしてからも日本の近代化に大きく影響を与えた大鳥圭介と共に陸軍の道を進んでいたのである!父は知行地先である奥州(福島県)桑折(こおり)に赴任していたので叔父である矢田堀景蔵ともう一人の叔父成瀬善四郎に育てられる。要するに生まれ持ってエリート幕臣だったのである。
測量
幕末期、安政や文久になるとアメリカの黒船を始めとする外国船が日本近郊に現れては海抜の測量を始めた。諸外国は小笠原諸島や伊豆諸島など日本近郊の島々を占拠して港を創ろうと計画していたのであった。まだ、小笠原諸島は日本領有と認められていなかったのです。この事を知った幕府は海軍操練所に外国船の測量を止めさせる交渉に当たらせたが荒井郁之助も矢田堀に頼んで同行することになったが、この事がのちの彼の進む道に影響した。
榎本艦隊の敗北
榎本脱走艦隊に乗って箱舘を目指した時に毎回自然災害に遭遇した。品川沖を出てすぐ台風に直撃。開陽丸はマストと舵を損傷するし一緒に箱舘を目指した咸臨丸は駿府清水港まで流されて乗組員たちは新政府軍に捕まり惨殺されてしまう。箱舘の先の鷲ノ木海岸から上陸した脱走艦隊は猛吹雪にあいまたまた船が損傷。松前藩を攻めるときは松前沖から威嚇していた開陽丸が暴風雨に流され座礁して沈没。宮古湾海戦に臨み、新政府軍甲鉄にアボルダージ作戦を敢行した時にも嵐に会い幡竜丸と高尾とはぐれ回天が一隻にてアボルダージ作戦を行うことに!もちろん戦力不足にて敗退。榎本艦隊は全て気象によって不利な方向に進んでしまった。気象台を作って天気というものを分析し生活に生かす事に真剣に向き合った要因となった。
箱舘で降伏
降伏後は捕えられて獄中生活をしていたが、荒井家から度々差し入れがあり生活には困っていなかったようである。どんなものが差し入れられていたかというと、肉、着物、フランス兵法書など。荒井家は裕福だったのですね。大鳥圭介の場合はそこまで裕福ではなかったので差し入れは少なかったが、持ち前の大声と迫力ある話し方と薩長相手に暴れた事が有名で牢獄のボスになっていたという…。
新政府樹立で人材を多く必要としていた事から恩赦になり新政府に出仕する事になった。まず最初に手掛けたのは黒田清隆が責任者をしていた北海道開拓使の業務。そこで農業にとっても気候が大切かを説く。特に積雪の多い冬に関しての情報を大切にしていた。
また学校設立など近代日本に必要な教育に目をむけた。特に女子教育に力を入れ多くの女学校を設立するキッカケなる。
本格的に気象に力を入れる
明治十四年、アメリカ海軍が横浜からグリニッジまで電信で経度を図る。それにより、日本の標準時刻が制定される。この時の測量などに協力し日本の科学技術を革新したのも荒井郁之助だった。その他にも日食観測や日本地理局にてメートル法の導入など、今では当たり前のように使っている単位など、荒井郁之助が行った事なんですよ。特に、事前に気象を予想しておくことの重要性を説いて気象台を設立。初代気象台長になる。今の気象庁です。天気予報の基を作り上げた人は幕臣の立場から薩長新政府と、戦い天候という未知なる敵に膝を組みした男が挑戦した科学事業での賜物でした。