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世良修蔵という悪魔

2018年07月12日 | 
世良修蔵という悪魔
戊辰戦争と世良修蔵
薩長の謀略を正当化するためだけに起こした内戦。すなわち戊辰戦争の引き金を引いたのは誰?この男の暴挙が死ななくてもいい人たちを多く巻き込んだ戊辰戦争へと突き進んでいくことになってしまった。今回はその男とその男を斬り捨てた仙台藩について紹介します。
東北諸藩を恐怖に陥れた悪魔の男
その男の名は世良修蔵。世良は山口県大島郡椋野で生まれた。瀬戸内海の島だ。元々は島の庄屋が本家であり下級武士でもあったが、早くから萩城下に出て高杉晋作に心酔し、奇兵隊に入隊。奇兵隊では書記官を務めたと記録されている。世良修蔵は奥羽鎮撫総督府の参謀として仙台に赴くが、本来はこの参謀は品川弥二郎だった。品川は、仙台藩は大藩で交渉に苦戦する事を予測し参謀職を降りて世良に譲った。品川弥二郎といえば明治政府内で重要なポストである宮中顧問官や内務大臣を務めた人物です。世渡り上手な男だったのでしょうね。
世良修蔵が仙台に到着したのは1868年三月。突如、奥羽鎮撫総督一行を乗せた軍艦が仙台湾に現れ東名浜に上陸。総勢600名からなる部隊で、奥羽鎮撫総督「九条道孝」副総督「沢為量」参謀少将「醍醐忠敬」下参謀薩摩藩士大山格之助(のちの大山綱良)下参謀、世良修蔵である。当然ながら突然の事に仙台藩は完全に準備と情報不足であった、そこに木戸や西郷から「仙台藩を会津藩征討に向かわせろ」という命令に従い、仙台藩藩主や重臣たちに対して無礼な態度や言動ばかりを行った。もちろん略奪婦女暴行なども平然と行い、奥羽鎮撫総督に従わなければもっと仙台で暴れる事を示唆し仙台藩重臣たちを会津藩征討に心が動くように仕向けた。しかしながら仙台藩から見た会津藩は京都守護職として京都で御所の警備を行い孝明帝からの信頼も厚かった会津藩を何故仙台藩が討伐に向かわなければならないのかと藩の意見はまとまり、なかなか会津藩征討に動かなかった。世良修蔵は仙台で花見の宴を開き、酒の勢いも入れて総督府代表として仙台藩を軟弱だと暴言を吐き続けた。そして、そのことを総督府下参謀の大山格之助宛の手紙に「奥羽皆敵。人数も増員し軍艦を酒田に派遣し日本海側と仙台を挟み撃ちにするしかない。越後口にも人数を増員し警戒する方がいいとする。また会津は恭順謹慎など開城すらする気もなく首級を差し出させる方が良いでしょう」と認めた手紙を出したが仙台藩の手に渡ってしまい、福島の旅籠で仙台藩士、福島藩士らに寝込みを襲われ捕えられた。世良修蔵は中背肥満、容姿は角顔に総髪を一束に結んでいたといわれている。酒好きだったことから福島の旅籠金沢屋ではかなり飲んだようで、傍らに遊女もいたと記録されている。
世良修蔵の最期
捕えられた世良修蔵は阿武隈川の船場で一刀で首を刎ねられた。その首を巡って仲間割れがあったようだ。只木土佐は「罪人の首は川へ捨ててしまえ」と言えば、玉虫佐太夫は「厠に捨ててしまえ」と。ところが1人異論を唱えた者がいる。丁重に埋葬すべしと武士の作法に則る事を説いた。その者の名を真田喜平太といい、真田幸村の直系子孫である。世良修蔵が仙台に来て将来の日本について説いた時に賛同し、且つ幕府解体の後は帝の政治になるが本当にそのような事をするのであれば藩を排しし郡県制にしなければならないだろう。そして300諸侯を束ねるならばまず薩摩、長州がその見本となって庶民から支持されなければならない。と説いたことに感銘した世良修蔵は以後、真田喜平太を先生と呼び交流を深めた。世良修蔵も必ずしも仙台、会津憎しとの想いだけではなく、尊王攘夷の思いが強かったという事もこの事から読み取れる。
その後
世良修蔵には妻がいたが夫は遠く奥州の地で果て帰らなくなった。修蔵には子供がいなかったので彼の直系子孫は途絶えている。
只木土佐は仙台藩の戦争責任者として捕えられ麻布仙台屋敷で処刑された。また玉虫佐太夫も捕えられ斬首された。
結局、仙台藩は戊辰戦争の責任を、人材を失うという形で取った事になる。
戊辰戦争は会津だけではなく色々な所で悲惨な結果を残している。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
都合の悪い部分は無視していませんか? (通りすがり)
2023-02-04 14:57:53
世良が東北に派遣される前に会津藩は新政府軍からの「謝罪をすれば寛大な処置をとるよ」という通達を拒否しているのですが。拒否の内容があまりにも挑戦的な内容だからそりゃあ世良も切れて強行しようとするでしょう。世良の態度には少々問題はあったかもしれないけど、一番の問題は謝罪を拒否する会津藩の態度ですよ。世良が生前の時に会津の周りの藩は会津藩のために懇願運動をしている中で会津藩は庄内藩と軍事同盟を結んでいた事を知っていますか?つまり会津藩は最初から戦う気だったってことです。戊辰戦争研究者の方も会津藩の懇願書には一切謝罪や降伏の字がなかったそうです。
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Unknown (通りすがり)
2023-02-04 15:11:30
会津戦争を決定的にしたのは、世良が斬られた後に、会津藩と旧幕府軍が新政府軍の領地である白河を攻めて占領した事が原因です。

つまり・・・
会津藩が自ら新政府軍の領地に攻めてきてるんですよね。

あと世良の密書については仙台藩が会津藩によって捏造された事を認めているので、奥羽皆敵などといった世良の密書は書き換えられた可能性が高いです。
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