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会津の魂

2018年05月29日 | 
会津士魂は果てしなく
下北半島 斗南藩
下北半島と聞いてピンと来る人がどれだけいるだろうか。その場所は本州の北の果て。JE東日本でも最北端に位置する。しかしそれよりも奥に進むとマグロで有名な大間町にたどり着く。約150年前にこの地に降人として強制移住させられた人々がいた。それは旧会津藩藩士とその家族。その人数は1万8000人にもおよんだ。今回は会津藩がそのプライドを捨てずにこの最北端の地で生き延びた実話を元に検証していきたいと思います。
本州最北の地
昨年2015年は斗南藩立藩145周年祭であった。私は斗南会津会から招待されてこの立藩145周年祭に参加させて頂く事ができた。会津の先人たちが暮らしたこの地に、一度は行かなくてはならないと思っていたところだったので非常に有り難い招待でした。
新幹線など、現在の最新の交通網を使っても東京から新幹線や在来線乗り継ぎで6時間近くかかる。八戸駅から青い森鉄道に揺られて90分。この段階で歴史的なミステイク。会津藩が斗南に行く手段として1つは新潟柏崎港から船。あるいは徒歩を選択し向かう。その徒歩の人達は、青い森鉄道の車窓から見える山林を距て下北まで来たのだと思っていましたが、実際の陸路では野辺地まできてから陸奥湾に沿った海岸沿いを歩いていたらしい。
旧暦9月22日に降伏。新暦では10月下旬。その後1ヶ月近くかけてようやく下北の地へ。
12月にもなると豪雪地帯です。しかしながら会津の人々は薄い夏着のまま籠城しそのまま着た切り雀で下北半島へ移住させられます。積雪が5メートルを超える豪雪地帯に夏服で行けますか?彼らはそれを強いられます。まず、当時の下北半島は農業に向かない荒れ地でわずかな海産物を取って生活をしていたわずかな人口の村でした。そこに1万8000人が集団で来たのだから食べ物も住居すらありません。雨風をしのぐ掘っ立て小屋を建てる事で精一杯。隙間風も入り家の中でもマイナス10度になったと言われています。誇張だとしても家を雪で覆われ夏の服装でいたらそれくらいに感じるのではないでしょうか?私がこの地を訪れたのは6月でした。日中は暖かく初夏の陽気でしたがさすがに朝晩はすずしかったです。
斗南での生活
斗南藩はすべてが下北半島にあるのではなく、八戸藩や七戸藩領から外れる五戸、三戸、金田一など十和田湖周辺から岩手県にかけての不毛の地だけが与えられた。斗南藩として復興出来た事に喜んだ会津藩士は移住前にはこの地がさらなる生き地獄になることを知らず希望に満ちてやってきたのである。薩摩藩は穏便処理を臨んだが、長州の桂小五郎こと木戸孝允がそれを許さず極寒と飢え死にで会津人が滅びるように仕向けた事が原因だ。今でも会津市と萩市が歩み寄れない原因になっている。その斗南での生活は寒さと飢えとの戦いであった。食べる物といえば陸奥湾海岸沿いで拾ってくる海藻や地元の村人でも食べないような山菜を煮て食べた。近所で犬が死ぬと引き取って犬鍋を食することが贅沢な食事となった。地元僧旻からも「会津ゲダカ(毛虫の意味)」や「鳩侍」などといって軽蔑のまなざし手見られていたようだ。後の陸軍大将【柴五郎】もこのちで少年期を過ごし、犬鍋を食べた事を語っている。「これは戦である。犬を食らってでも生き延びて薩摩長州に会津の意地を見せるべし」と心に誓ったそうだ。とは言ってもさすがにこの寒さと栄養失調で1/3に当たる6000人以上が命を落とした。主に老人と幼子であったという。体力のないものから命を落としていく事になる。
斗南までの道中
斗南まで船で移動か徒歩での移動によって僻地斗南藩領に行くことになる会津人だが、もちろん移動にかかる費用はでない。着の身着のままお金も持ち合わせているお金のみ。尤も家は薩長軍に占領され先祖代々からなる宝物や家具や現金は持ちされているもしくは焼かれてしまっていて家もない人がほとんどであったから食うに困った状態で徒歩にて移住させられていた。
斗南藩立藩145周年祭で90歳くらいの老婆と式典中に話をさせて頂いた。「大変な移動だったようでしたね」との問いかけに「簡単に大変とは言っちゃなんねぇ。私の祖父祖母は当時3歳と1歳の子供を連れての移住で路銀に困り、なけなしのお金で団子を買って河原で食べさせている最中、後ろから切り殺し口減らしをして移住した話を聞かされた」と涙ながら話されていた。口減らしのために我が子を手にかけないとは。絶句でした。もう言葉もでません。話を聞いた当時、私にも3歳の娘がいるので同じ事が出来るかと言われたら出来ません。しかも冬将軍の到来時に夏服で。長州の木戸が考えは会津人に対して【生きている方が辛い】と思わせる仕打ちでした。そのため反発も強く、贋金騒動や政府転覆計画など物騒な話には必ず会津藩士が関わってきます。しかしながら、本当に政府に不満を持っていたのは長州や薩摩の上級武士であった。下級武士や足軽が新政府の重職を独占した事に不満を持ち萩の乱や佐賀の乱を起こす事になります。
廃藩置県
廃藩置県により斗南藩はわずか数年で消滅しますが会津藩士のせいかつは増々困窮していきます。下北と弘前を合併させて今の青森県にしますが、元会津藩士は斗南に留まり新たに生活を切り開くか、東京や会津に戻るかの選択を求められます。多くの人はこの地を去り東京や故郷の会津や郡山(元々会津藩領)に戻ります。東京にでても会津藩士という事を理由に仕事がありません。会津に戻った人々もかつての自宅は焼け跡か新しい居住者がいましたし、会津藩士のせいで街が焼かれたので残っていた商人や農民から歓迎されませんでした。斗南に留まった人々も心が強く、数々の困難を乗り越えて平成の現在も多くの方が下北から大間にかけていらっしゃいます。本の中に登場しますが「斗南会津会」会長などは自宅を改造して資料館を併設しています。この会長と年に数回お話させて頂く機会がありますがやはり下北に留まって会津の人々の思いや歴史を後世に伝える必要があるという事を強くおっしゃっておりました。
そろそろ薩長の都合がいい様に書かれた近代日本史を見直す時期がきているのではないだろうかと考えさせれらた一冊です。

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