幕末の後始末
田原坂
田原坂。西郷隆盛率いる薩魔士族と新政府軍が衝突した激戦地として今もなお当時の銃弾が畑の中などから発見される事がある。2018年度の大河ドラマ「西郷ドン」が決定したので今後観光で賑わう事になるでしょう。興味がある人は鹿児島や熊本に行ってみると良いでしょう。
今回の小説『田原坂』は西郷隆盛の生い立ちや家族構成、そして島流しになった事などで前半の話が進む。最後は鹿児島の城山で果てる事で終了するが、そこに至るまでの人間模様が描かれている。今回はその人間模様に注目しながら紹介させて頂く事にします。
西郷家は代々薩摩藩の小姓組に属し、勘定方小頭四十石の家柄であったが四十石といっても有名無実で米の支給は無いのと同じだから吉之助の父の時代に城下士の株を売ってしまった。それでも士族の身分はそのままだから滅に困らなかったが、食い扶持は自給自足、家族で畑を耕さなければならなかった。薩摩では城下に住む士族を城下士、城下の外に住む郷士を外城士、更に村々に在村郷士があり三者は厳しい身分制度によって差別されていた。この辺りの身分制度は譜代、外様関係なく大藩では当然のように整備されていた身分制度です。そんな西郷家は身分こそ城下士であったが島津家中下から二番目の軽輩で暮らしは在村郷士にも及ばぬ赤貧ぶりだったと言われている。西郷隆盛、当時吉之助は西郷家の長男に生まれている。早いうちに両親が亡くなり兄弟の面倒は長兄である吉之助が見ていた。吉之助の下には家老座書役の市来六左衛門に嫁いでいる琴子をはじめ、三人の弟と二人の妹がいた。その妹の一人は早くに亡くなっている。吉之助が江戸詰めで藩主島津斉彬と国事に奔走していた頃は六歳年下の吉二郎が家長代わりに留守宅を守っていた。三男の竜助、後に信吾、従道と名を変える陸軍大臣西郷従道はまだ城に上がったばかりの茶坊主。四男の小兵衛はまだ十代になったばかりの少年だった。隆盛と従道は16才、小兵衛はとは22歳も年が離れていた。弟たちからみたら兄というより父に見えたであろう。
島流し
西郷は二度、島流しに合っている。一度目は奄美大島。二度目は徳之島。どちらも薩摩と琉球を結ぶ大事な島々で薩摩藩は島々に代官をおいてサトウキビの栽培を行い摂取していた。ここで得る経済力は莫大で薩摩藩は潤ったが、島民は奴隷同様の暮らしを強いられていた。吉之助はその人柄から島民からも慕われ、島で結婚した。ここで生まれたのが西郷菊次郎、後に京都市長を務める。また六大学野球で西郷準という剛速球当主がいた。太平洋戦争時、南方戦線で命を落としたが彼は菊次郎の息子である。
田原坂での攻防
明治維新は割愛し、ついに蜂起した西郷率いる薩摩士族ですが、まずは熊本城を落として九州にいる政府への不平士族を吸収して東京に迫ろうと作戦をとったが、熊本城は簡単に落城しなかった。まず薩摩軍の砲弾が熊本城に届かなかった事や、徴兵された兵とはいえ訓練を受けたものたちがライフル銃を持って撃ってくるため抜刀隊が中心の薩摩士族は簡単には熊本城に近づけない。出来る事は城を囲って兵糧攻めにする事。しかし政府も物量にものを言わせて各地から援軍を熊本城に差し向ける。福岡方面から熊本城に繋がる大きな道が田原坂だったのである。何故ここを政府軍は通りたかったのか。それは大砲や荷台車が通れる道幅の広い道がほかになかったのでこの1.5キロの緩い坂道が西南戦争最大の激戦地になるのであった。広いといっても、車がすれ違うのもやっとの道幅。しかも山岳地を堀進めた道なので坂の上に陣取った薩軍が有利であった。結局17日間もここでの攻防戦が起こった。1日で消費した弾丸は3万5千発とも言われている。また毎日戦闘しているわけではなく、死者の埋葬や負傷者の搬送など、休戦日が設けられていて、当時の武士道を物語る話がいくつも残っています。深くこの事を知りたい人は是非田原坂に行って資料館などで生の情報を得る事をお勧めします。ちなみに私は2回ほど田原坂を訪れました。
美少年
田原坂といえば美少年。
『右手に血刀左手に手綱馬上豊かな美少年』民謡田原坂に歌われた美少年は薩軍の村田新八の長男岩熊がモデルで伝令として戦場を疾駆している姿ではないかと言われている。その村田岩熊は四月一日の戦闘で戦死、西郷菊次郎は砲弾で右足を失っている。
永山弥一郎率いる三番大隊と元会津藩家老山川浩率いる政府別働軍が衝突、永山弥一郎は農家一軒を買い取って火を放ちその中で自刃したと武士の最後を物語るエピソードを残している。
幕末の後始末
最終的には故郷の鹿児島へ追い込まれた薩摩士族は鹿児島市内の城山の洞穴に立て籠るが政府軍の総攻撃の前にほとんどが討ち死に。西郷以下主な幹部も戦死しここに西南戦争は終結する。これが国内最後の内戦であり改めて武士の時代が終わりを告げた事になった。実に幕末といってもその時代は30年近く擁する。
田原坂
田原坂。西郷隆盛率いる薩魔士族と新政府軍が衝突した激戦地として今もなお当時の銃弾が畑の中などから発見される事がある。2018年度の大河ドラマ「西郷ドン」が決定したので今後観光で賑わう事になるでしょう。興味がある人は鹿児島や熊本に行ってみると良いでしょう。
今回の小説『田原坂』は西郷隆盛の生い立ちや家族構成、そして島流しになった事などで前半の話が進む。最後は鹿児島の城山で果てる事で終了するが、そこに至るまでの人間模様が描かれている。今回はその人間模様に注目しながら紹介させて頂く事にします。
西郷家は代々薩摩藩の小姓組に属し、勘定方小頭四十石の家柄であったが四十石といっても有名無実で米の支給は無いのと同じだから吉之助の父の時代に城下士の株を売ってしまった。それでも士族の身分はそのままだから滅に困らなかったが、食い扶持は自給自足、家族で畑を耕さなければならなかった。薩摩では城下に住む士族を城下士、城下の外に住む郷士を外城士、更に村々に在村郷士があり三者は厳しい身分制度によって差別されていた。この辺りの身分制度は譜代、外様関係なく大藩では当然のように整備されていた身分制度です。そんな西郷家は身分こそ城下士であったが島津家中下から二番目の軽輩で暮らしは在村郷士にも及ばぬ赤貧ぶりだったと言われている。西郷隆盛、当時吉之助は西郷家の長男に生まれている。早いうちに両親が亡くなり兄弟の面倒は長兄である吉之助が見ていた。吉之助の下には家老座書役の市来六左衛門に嫁いでいる琴子をはじめ、三人の弟と二人の妹がいた。その妹の一人は早くに亡くなっている。吉之助が江戸詰めで藩主島津斉彬と国事に奔走していた頃は六歳年下の吉二郎が家長代わりに留守宅を守っていた。三男の竜助、後に信吾、従道と名を変える陸軍大臣西郷従道はまだ城に上がったばかりの茶坊主。四男の小兵衛はまだ十代になったばかりの少年だった。隆盛と従道は16才、小兵衛はとは22歳も年が離れていた。弟たちからみたら兄というより父に見えたであろう。
島流し
西郷は二度、島流しに合っている。一度目は奄美大島。二度目は徳之島。どちらも薩摩と琉球を結ぶ大事な島々で薩摩藩は島々に代官をおいてサトウキビの栽培を行い摂取していた。ここで得る経済力は莫大で薩摩藩は潤ったが、島民は奴隷同様の暮らしを強いられていた。吉之助はその人柄から島民からも慕われ、島で結婚した。ここで生まれたのが西郷菊次郎、後に京都市長を務める。また六大学野球で西郷準という剛速球当主がいた。太平洋戦争時、南方戦線で命を落としたが彼は菊次郎の息子である。
田原坂での攻防
明治維新は割愛し、ついに蜂起した西郷率いる薩摩士族ですが、まずは熊本城を落として九州にいる政府への不平士族を吸収して東京に迫ろうと作戦をとったが、熊本城は簡単に落城しなかった。まず薩摩軍の砲弾が熊本城に届かなかった事や、徴兵された兵とはいえ訓練を受けたものたちがライフル銃を持って撃ってくるため抜刀隊が中心の薩摩士族は簡単には熊本城に近づけない。出来る事は城を囲って兵糧攻めにする事。しかし政府も物量にものを言わせて各地から援軍を熊本城に差し向ける。福岡方面から熊本城に繋がる大きな道が田原坂だったのである。何故ここを政府軍は通りたかったのか。それは大砲や荷台車が通れる道幅の広い道がほかになかったのでこの1.5キロの緩い坂道が西南戦争最大の激戦地になるのであった。広いといっても、車がすれ違うのもやっとの道幅。しかも山岳地を堀進めた道なので坂の上に陣取った薩軍が有利であった。結局17日間もここでの攻防戦が起こった。1日で消費した弾丸は3万5千発とも言われている。また毎日戦闘しているわけではなく、死者の埋葬や負傷者の搬送など、休戦日が設けられていて、当時の武士道を物語る話がいくつも残っています。深くこの事を知りたい人は是非田原坂に行って資料館などで生の情報を得る事をお勧めします。ちなみに私は2回ほど田原坂を訪れました。
美少年
田原坂といえば美少年。
『右手に血刀左手に手綱馬上豊かな美少年』民謡田原坂に歌われた美少年は薩軍の村田新八の長男岩熊がモデルで伝令として戦場を疾駆している姿ではないかと言われている。その村田岩熊は四月一日の戦闘で戦死、西郷菊次郎は砲弾で右足を失っている。
永山弥一郎率いる三番大隊と元会津藩家老山川浩率いる政府別働軍が衝突、永山弥一郎は農家一軒を買い取って火を放ちその中で自刃したと武士の最後を物語るエピソードを残している。
幕末の後始末
最終的には故郷の鹿児島へ追い込まれた薩摩士族は鹿児島市内の城山の洞穴に立て籠るが政府軍の総攻撃の前にほとんどが討ち死に。西郷以下主な幹部も戦死しここに西南戦争は終結する。これが国内最後の内戦であり改めて武士の時代が終わりを告げた事になった。実に幕末といってもその時代は30年近く擁する。
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