読んだ中でお薦めの本を紹介します!

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いつの日か還る

2016年09月18日 | 
いつの日か還る

新撰組で一番大きい男
島田魁ときいてなんとなく新撰組にいたな。と思う人くらいはいるだろう。それもそのはず。新撰組内では至って地味。身長182センチ体重170キロの巨漢。現在でいえば力士のような体格をした地味な監察方。しかしながらこの男、意外なエピソードが多く味のある人生を送った。そんな中でも私が好きなシーンを掻い摘んで紹介します。



免許皆伝
力自慢の島田魁。新撰組内での渾名は「力さん」そのまんまですね。今も昔も渾名なんてそんなものかと。この力士のような男は実はかなりの剣術使いでして故郷大垣藩から江戸に出てから「心形刀流 伊庭道場」に通っていた。この道場の師範代幕臣の坪内主馬の従事として仕え剣術を磨いていた。圧倒的なパワーで相手を寄せ付けずなんと数年で免許皆伝。その他にも鎗術も通っており、後に新撰組で合流する「谷万作、谷三十郎」の種田流鎗術でも免許皆伝になったほどの腕前だった。新撰組の華々しい池田屋や蛤御門での戦闘に剣士と参加して実績を残していた。常に冷静だったため池田屋では騒動の後すぐに池田屋内に隠してあった武器や弾薬も押収したのもこの力さんだった。近藤勇に報告したが近藤は「平隊士を使って運び出せ」と。しかし平隊士たちはこの戦闘直後の事で疲れ切っていてその場に座り込んでいる者ばかり。近藤達幹部は激高したまま酒を飲んでいた。人のよい力さんは平隊士に声をかけるのはかわいそうだと思い自分だけで運ぼうとするが、永倉新八が「自分たちだけ酒を飲んで平隊士にまだ仕事させると人望が落ちるぞ」とキツイ忠告をしたため一息ついたらみんなで押収した武器を運ぶ事になった。このことからか以後、近藤からあまり好かれていないんですよ。
江戸の道場通いで時代に出会ったのが「永倉新八」であり以後、新撰組として行動を共にするのである。永倉の紹介で新撰組に入隊したのだった。地味すぎて知らない人多いと思いますが、島田魁は新撰組が京都で結成された時には近藤派として参加しているんですよ。しかも、この巨漢からか意外にも芹沢鴨にも親切にされていたらしいのです。

不器用な大男
この人の本を読んでいて心がほっこりするのは愛する妻の「おさと」との出会いややり取り。
監察方として街になじむために潜入した先の丹波屋の納屋を仮住居としていた。「おさと」はこの丹波屋の養女だった。身長130センチに満たない体でしたが力さんの部屋の掃除や食事の用意などしてくれていた事がキッカケ。30歳を超えてから一般の女性と接する事になりどのような接し方をした方がいいか悩んだりしている大男の姿は想像するだけでかわいらしいだろう。そんな彼も新撰組の激務の合間を縫って「おさと」との結婚にこぎつけたのだが、意外な男が祝福をしてくれた。力さんには親戚などがほとんどいなかったため、結婚式には親しいメンバーだけ出席してもらった。永倉新八や原田佐之助など。ただ、結婚式当日を非番にしてもらうために『土方歳三』に非番許可の申し入れをしたところ、快く承諾してくれて、「何かと入用だろう」と祝儀を渡してくれた。そんな粋な行動に力さんも冷酷だと思っていた土方歳三への見かたが変わった。結婚式に呼べば良かったなと後悔すらした。以後、土方歳三との距離も近くなり、常に土方歳三の傍らにいて函館戦争まで戦い抜いた。


敗戦後
函館戦争で降伏。その後は元新選組隊士として処罰を待つ身となり名古屋で収監されたが明治3年釈放される。明治4年になって京都に戻り「おさと」や子供たちとの平穏な生活が待っていたはずだが、この大男には商売の才がなかったらしく、『レモネード』屋を始めたが全くうまくいかなかったため店をたたんだ。想像してみて下さい。平均身長160センチに満たない時代に、『レモネード』本人曰く酸っぱくてまずかった!との事。これを売るお店の店番が力士なみの大男。もちろん顔に愛想はない。今でも売れないだろうと容易に思い浮かぶだろう。最終的には「島田剣術道場」を開くのだが最初こそ門下生が多く入ったものの、時代の流れで剣術がすたれ出し門下生も減りその収入だけでは家族を養えなかったので西本願寺の夜警の仕事を掛け持ちしていた。明治17年、56歳の力さんこの年に末っ子が生まれ5男1女の大家族に。そしてこの西本願寺こそ新撰組時代に屯所としていた場所だ。まさかこのような形でここに還って来る事になるとは。しかしそこで思いがけない再開も。なんと明治19年になってから「永倉新八」が西本願寺の力さんの元を訪ねてくるのであった。その理由とは…。

と、数あるエピソードの中で私が好きなシーンを少し紹介させてもらいました。新撰組のファンの方は非常に興味を持ってくれたのではないでしょうか。不愛想な大男「島田魁」の物語を読み込んでみては如何でしょうか。

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2016年09月16日 | 
龍馬という男

土佐の坂本龍馬を知らない歴史人はいないぜよ!
日本の歴史に登場する人物の中でも一際人気のある坂本龍馬。人気があったのは現代だけではなく彼が生きていた血なまぐさい幕末動乱期も変わらなかった。

特にここ近年では大河ドラマ「龍馬伝」で今まで以上に人気が出た幕末志士ではないでしょうか。そこに福山雅治が主役となり追い打ちをかけましたね。

上士と郷士
そんな龍馬は土佐郷士の出身。土佐は身分制度に厳しい藩でした。
元々土佐は長曾我部氏が収めていた土地でした。最近ではゲームの影響もあり知っている人も多い長曾我部元親など。しかしながら関ヶ原で長曾我部氏は西軍に組みしてしまう。その後家督を継いだ長曾我部盛親は捕えられ斬首。代わって掛川城の大名、山内一豊が土佐一国をもらい幕末に至る。山内一豊は本人より奥方の方が有名で内助の功と言われていますね。土佐は大河ドラマ「功名が辻」に続いて2回目の大河ドラマの主舞台です。
藩祖は地味すぎますが、幕末の藩主山内容堂はそれなりに有名で大政奉還後の政ごとには参議として名を連ねます。
この土佐での上士というのは山内家が掛川から移った時に一緒に移動した元々山内配下の武士。郷士とは長曾我部時代から土佐にいた武士。もちろん上士の方が身分は上で、道端ですれ違う時は道を譲り頭を下げねばなりませんでした。そして何かと身分にこだわる上士と虐げられてきた郷士が意気投合する事などありえない時代でした。

仁王様
坂本の仁王様といえばご存じ龍馬の姉である乙女姉さんを指します。
当時女性の平均身長が147センチと言われていた時代に175センチ!どんだけデカいんだ!幕末の男性平均ですら157センチと言われています。龍馬と慎重が変わらなかったというエピソード。龍馬が間違えて乙女姉さんの着物を着てしまったが寸法が同じで違和感が無かったという記録が残っているほど。今でいう190センチ以上あるバレー選手なみでしょうか。目立ったでしょうね。もちろんこの姉さん。体格だけではなく性格も男勝りで幼い時気弱な龍馬少年をかなりしごいたという。

そんな龍馬少年も青年になり脱藩。
江戸で千葉道場にて千葉周作の妹「さな」と出会ってしまう。いろいろなエピソードがあったようでしたが結局「さな」とは結ばれず。

龍馬の場合、女性に限らず男性からも好かれるタイプだったようで、幕臣勝海舟や長州藩士「高杉晋作」や薩摩藩「西郷隆盛」。他藩の逸材と交流していたのはこの時代では龍馬くらいではないでしょうか。この龍馬ネットワークからいろいろな人物が繋がります。相関図がないと分からなくなってしまうくらい。しまいには山内容堂や敵視していた「後藤象二郎」や「福岡孝弟」とも交流し建白書を出したりしています。藩内の敵だった人物まで魅了してしまうこの魅力ってなんだったのでしょう。

そんな龍馬もこのお龍にはかないません。
京都で見回り組に追われていた頃であったとされております。楢崎龍子 写真が現存されておりますがかなり美人です。名前の漢字が同じだったり男勝りな性格などに惚れ込んだようです。二人は結婚し初めて一緒に度に出掛けます。これが日本の最初の新婚旅行だったといわれています。九州を巡ったとされています。

そんな龍馬夫妻にも不幸が。
ご存知のように龍馬は暗殺されてしまいます。その後お龍は龍馬が懇意としていた明治新政府の要人たち(西郷や木戸)たちを頼りますが門前払い。かつての盟友だった海援隊の仲間に会いに行きますがここでも門前払い。どうやらこの男勝りな性格が災いして龍馬の仲間たちからは嫌われていたようです。
結局、横須賀にたどり着くのですが…事の顛末はこの本で確かめて下さいね!

新撰組顛末記

2016年09月15日 | 
新撰組顛末

新撰組結成時から参加、副長助勤となり後に二番隊組長を兼任した長倉新八。時には近藤勇と共に池田屋に飛び込み数人で長州派の志士たちと斬り合い、新撰組随一の剣の使いてとして幾多の戦闘で名を馳せた大幹部の中で数少ない生き残りの1人である。
 北海道小樽に移り住んだ永倉新八は、孫たちを相手に新撰組の懐旧談を語り記録に綴る晩年を送る事までは広く知られているだろう。近藤勇や土方歳三らとの交友、池田屋の乱闘、仲間の粛清、鳥羽伏見での騒乱。修羅場を潜り抜けてきた男の生々しい証言が語られている。新撰組ファンなら一度は読んだことのある本だとは思いますが、この中でドラマや映画にあまり描かれていない場面を掻い摘んで紹介。詳細は改めてこの本を読んで会得して欲しいと思う重要歴史証言の本である。


近藤と別れてから。
新撰組を語る上で近藤が幕臣に取り建てられてから新撰組のメンバーに対して家臣のような扱いをする事からなど永倉新八や原田佐之助などの初期メンバーが去って行ってしまう。
ここで新撰組のドラマや映画では、残った近藤や土方の終焉までを描く。当たり前のことかもしれないが。ところが、去った永倉新八がどのような行動を取ったのか詳細が証言されているのはこの本だけだろう。そりゃ本人の証言談をまとめた本だし。
ここで描かれているのは近藤と別れた後に靖兵隊を作って薩長率いる新政府軍に反抗していた。近藤と別れた後、深川冬木にある弁天社内に居住していたかつての仲間である芳賀宣道を訪ね一緒に蜂起する事で話がまとまり靖兵隊を結成した。これには元新選組隊士たちも呼応し林信太郎、前野五郎、中条常八郎、松本喜三郎なども集まった。また諸藩を脱藩した者や幕臣たちも集まり総勢五十人ほどになった。五十人にもなり剣士の部隊となれば新撰組に匹敵するだろう。ここまでに膨れ上がったので当時和田倉門にあった会津藩跡地に駐屯し幕府歩兵隊の米田圭三郎と合流。深川を引き払って毎日フランス式の訓練を行っていたのである。

江戸城無血開城
事実上徳川幕府が消滅してしまうので靖兵隊は江戸明け渡しの前日に水戸街道から会津を目指したが、原田佐之助は江戸に残した妻子に別れを告げに行くがすでに江戸は新政府軍に囲まれていたので叶わず、彰義隊に加わり上野戦争で戦死した。
靖兵隊は岩井宿を経て小山の新政府軍と衝突したが勝利し鹿沼宿へ到達。そこで幕府伝習隊を率いる大鳥圭介や土方歳三率いる新撰組、会津藩などと合流し宇都宮城攻めに参加。押し寄せる壬生藩を退ける活躍を見せた。この時宇都宮城で奪った三千両のうち二千両を大鳥圭介に渡し千両は靖兵隊の軍用金とした。
ところが、兵の他武器弾薬の補充が豊富の新政府軍は鳥羽伏見経験者の土佐藩兵を中心とした主力部隊を宇都宮に差し向け旧幕府軍は敗走。一路会津を目指した。

敗戦後の足取り
宇都宮敗走し会津に行くがここでも敗走。米沢を得て江戸に戻った永倉にまっていた運命は如何に。なぜこのあと北海道に渡る事になったのか。また盟友近藤勇の墓を板橋に建立した経緯などはしっかりとこの本を読んでスッキリとして欲しいです。今回は永倉新八のあまり描かれなかった部分だけ紹介させてもらいました。

彰義隊

2016年09月14日 | 
彰義隊
悲運の皇族

皇族でありながら戊辰戦争で朝敵とされその生命を脅かされた人物がいた。運命の分かれ目は上野寛永寺山主・輪王寺宮久親親王は鳥羽伏見での敗戦後、上野寛永寺で謹慎する十五代将軍、徳川慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走する。しかし、彰義隊に守られた輪王寺宮は朝敵とされ、会津、米沢、仙台と諸国を落ち延びる。そんな中ついに江戸時代が終焉。明治期になってからも数奇な運命に翻弄されながら人生を全うする皇族の物語である。


上野山の戦い彰義隊というと何を思い浮かべますか。そもそも上野山の戦いって?と思う人も多いのではないでしょうか。現在の上野公園。御徒町の方から上野に向かうと上り坂ですよね。そうここは昔、上野山と呼ばれており、寛永寺が建立されていた。
 彰義隊はなぜ立ち上がったのか。それは鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北。江戸は薩長軍に対して無血開城を迫られていた。本来であれば鳥羽伏見の戦い後、江戸にいる幕臣八万騎は平和ボケしていたのか何だかんだ理由を付けて武力対決に踏み込まなかった。一部の武装勢力は勝海舟によって、甲州鎮部隊や伝習隊などは地方へ追いやられ江戸は武装していない「武士」の集まりだった。彼らは260年の間、先祖から受け継いだ録を子孫に残すことだけで『武』に生きてきたわけではない。完全な平和主義になってしまった。また大きな戦争も体験した事が無いため戦い方も分からず、体を動かすことも少なかった時代だったので、農民より体力がなく戦闘では一番の使えない存在にしかなっていなかったようだが、さすがに薩長が江戸城に入り、江戸の町を我物顔で闊歩する姿に最後の意地を見せた。それが上野山で蜂起した幕臣集団【彰義隊】である。
 上野山は行ったことありますか?国立博物館、上野動物園、西郷隆盛像など今でも訪れる人が多いですよね。そう、ここが彰義隊の籠る上野山での激戦地だった場所なんです。有名な「黒門」は現在、台東区南千住の『円通寺』に当時の弾痕を残したまま残っています。興味があるかたは一度あしを運んでみてはいかがでしょうか。

アームストロング砲この上野山の戦い。あっけなく彰義隊が負けてしまうんですよ。彰義隊は2000人とも言われていました。戦闘が始まった午前中こそ持ちこたえていましたが、午後になってから轟音と共に見た事の内容な破壊力の砲弾が飛んできます。これがアームストロング砲です。ここで使用されたのは佐賀藩が作ったもので、不忍池の加賀藩邸から砲撃を行ったと言われています。
 この時、この本の主人公である輪王寺宮はこの寛永寺の主として滞在していた。ここで将軍徳川慶喜の恭順を唱えていたのだ。しかし砲撃も近くなり、近くで薩長軍と彰義隊の白兵戦も始まった事により輪王寺宮も日暮里方面に脱出した。その後残党狩りから逃れながら北千住を経て宇都宮、会津へと逃れる。なぜ逃げる必要があったのか。それは、皇族でありながら徳川幕府の味方となり将軍恭順の意思を朝廷に伝えている間に、輪王寺宮も処罰の対象になってしまったのだ。

東北の神輿

輪王寺宮は仙台に赴き、奥羽越列藩同盟の盟主に担がれ、もう一つの朝廷を作ろうとした動きに巻き込まれたため、ますます処罰の対象になってしまう。輪王寺宮も利用されている事も感じながらも東北諸藩のために身を投げ打って協力していく。しかし…東北諸藩は少しずつ敗北。会津に続き、米沢藩、仙台藩も新政府軍に降伏恭順。ここに輪王寺宮の戦いも終焉。明治期の輪王寺宮の運命はいかに。その真相は本の中で。

ある幕臣の戊辰戦争 伊庭八郎の生涯

2016年09月13日 | 
ある幕臣の戊辰戦争  麒麟児伊庭八郎の生涯

江戸の名門道場「心形刀流」の嫡男はめちゃくちゃやんちゃな男だった。
伊庭八郎は天保十四年(1843)江戸の幕臣の家に生まれた。伊庭家の歴代はただの幕臣ではなく下谷御徒町にある心形刀流伊庭道場であった。
神田お玉が池の「北辰一刀流玄武館」九段坂上三番町(現靖国神社)の「神道無念流練兵館」南八丁堀浅蜊河岸の「鏡新明智流士学館」とともに『江戸の四大道場』の一つにかぞえられていた。八郎は八代目軍兵衛の嫡男であった。軍兵衛は1858年のコレラ大流行で急死してしまい幼年だった八郎は家を継げず、軍兵衛の一番弟子だった垪和想太郎が伊庭秀俊と改名し九代目を相続。八郎はその養子という形をとった。
八郎は養父を助け道場経営に力をいれ、門下生からは若先生と慕われていた。
身長は五尺二寸(158センチ)と小柄ながら『眉目秀麗、俳優の如き美男子』と言われ町娘たちの憧れの的であったという。 
 伊庭道場の門下生は1千人以上。門人たちは脛が出る短い袴を常用。高下駄をはき太刀を腰間に柄先下がりに横たえていつでも抜刀出来る姿勢で街中を闊歩したため、誰が見ても伊庭道場の門下生だと一目で知られる存在であった。

悪い遊び仲間は土方歳三
江戸の道場で土方と出会った八郎は8歳年上の歳三を兄のように慕い、しばしば二人で遊びにでかけたそうだ。しかし遊ぶにはお金が必要だ。いつもお小遣いをせびりに行く老人を近藤周斎といい近藤勇の養父だった。周斎は若い二人にそばを食べさせてから遊びに行くお金を渡していたそうだ。「勇には内緒だぞ。しかし悪い女に引っかかると病気をうつされて剣術どころではなくなる」と叱りながら財布ごと渡していたとの話が残っている。病気というのは当時流行った梅毒の事で彼らが遊びに行く所はいつも吉原だったようだ。
いつの時代も若い男性があぶく銭を持つと酒か女に使ってしまうようだ。もっとも土方歳三は京都でもそんな節があったのだが。

短い生涯
伊庭八郎はその卓越した剣の腕を買われ将軍徳川家茂の親衛隊に加わる。
その後新設された幕府遊撃隊に属し、鳥羽伏見の戦いを始めとする討幕軍と各地を転戦。江戸に迫る討幕軍を迎え撃った【箱根の戦闘】で左手首を失う重症を負う。しかし手首から下を切断する手術(麻酔もなしで切断したが痛いなどと言わず平静を保っていたそうだ)を行い隻腕剣士に。しかし彼は隻腕になっても戦闘をあきらめず、片腕で鉄砲を撃つ練習をしていたそうだ。そんな八郎、美男子な上に隻腕でも剣士として戦い続ける姿が江戸庶民に受け錦絵にもなったほどだ。少し療養してから蝦夷地箱館に渡り旧幕府軍に再合流。木古内など各地を転戦した。その死にはいくつかの説がある。戦闘中に被弾し戦死。またはモルヒネを飲む服毒死。事実はどちらであったのだろうか。
 そのことよりも彼の考えた事やその短い生涯の生きざまに興味があった。江戸の粋な旗本男子の一生がこの本の中に詰まっていますので手に取って読んでもらいたいです。