読んだ中でお薦めの本を紹介します!

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信長は本当に天才だったのか

2016年07月25日 | 
信長を知らない人はいない

例え歴史に疎くても、織田信長ほど有名な日本人はいないのでないだろうか。
どんな事をしたのかといった詳細までしらなくても、桶狭間で奇襲作戦により今川義元を打ち取ったり、長篠の合戦で三千もの鉄砲隊を使い武田騎馬隊を跳ね返したり、足利幕府を終焉に追い込んだり。そして最大のミステリーの本能寺の変が起こり死亡する。
簡単に説明するとこんなもんだろう。
しかしながら歴史を知っている人からしたらもっと功績や行った事がたくさんあるぞ!とのご意見も頂く事でしょう。


そもそも信長とは?
現在の愛知県の一部を支配していたに過ぎない織田家の分家であり本来であればそこまで歴史に名を残す家ではなかった。彼が最も優れていたのはやはり、多方面に関しての情報網ではなかろうか。このことは現在の経済界にも通ずるものがあると思う。
桶狭間にしても今川義元が休息していた場所を的確に握り奇襲。
普通の大名であればこのような事は起こらなかっただろう。そもそも戦国時代とは言え、戦国大名が戦場にて打ち取られた例はごくわずかしかない。言わば珍しいケースである。恩賞もこの情報を齎せた者が第一功労。第二は打ち取った者と明確である。偉いのは、二度と不利な状況での戦闘を行わなかった事。信長の戦は絶対的に有利な状況になるまで戦闘を避ける事。数なのか状況なのか。必ず対峙する時には友梨な状況になっている。但し、信長が出陣する時に限る。
 部下や息子たちに経験値を積ませる時はそんなこともなく、失敗するケースも屡々。事前に不利な事が分かっていて敗北した場合はお咎め無し。勝手に動いて失敗した場合はそれなりの懲罰付き。信雄が伊賀攻めでやってしまっている。


やっぱりカリスマ?
成功しても失敗しても絵になる男であることは間違えない。
今回はいろいろあるエピソードに関しては割愛するが失敗しても心が折れない所に共感が持てる。
おそらく本人は失敗も回り道なだけでいずれ成功する!と本気で思っていたのではなかろうか。
現代のカリスマ経営者に共通する資質を持ち合わせていたのだと思う。
むしろ失敗した事にさえ気が付かなかった事もあるのではないだろうか。
それにしても信長という男が現在もいたらどのようにこの日本を舵取るのか。歴史にifはいけないがこの手の想像はいろいろな事を考えられる楽しい時間になるだろう。
信長だけではなくこの時代を生きたいろいろな武将もそれに当てはまる。


やはり歴史は奥が深く、いろいろな本を読んだり実際にその場を訪れたりする事で自分の想像の範囲を広げるといったことでさらに楽しめるのではないだろうか。

指揮官たちの太平洋戦争

2016年07月19日 | 
指揮官たちの太平洋戦争

同期の桜
同窓会に出席すると何歳になっても当時の気持ちに戻ってしまうものです。先日、出身校の○○部の同窓会に出席した時にふとそう思った。20年ぶりに会った旧友も顔を合わせた瞬間に誰なのかわかった。あまり変わらない人、少し老けた人など様々だったが懐かしい気持ちはすぐこみあげてくるものだ。
さて、私がこの本を手に取って冒頭を読んだときに同じような事が書いてあった。70歳を過ぎた人たちだが同期会に参加するとたちまち中尉・少尉・生徒の頃に戻ってしまうという。年齢は関係ない様だ。

太平洋戦争を通して指揮官たちの戦死率は高い。特に少尉から大尉の現場指揮官クラスになると多くがその尊い命を失っている。陸海軍問わず指揮官が陣頭指揮に当たっているからだ。また経験の浅い若い学徒将校も多くの命を散らしてしまった。
彼らは何を思い戦場へ臨んだのであろうか。
 零戦隊長・艦長・陸戦隊長など多士済々。個性豊かなサムライたちが空に海に陸にくり広げる物語。中堅指揮官として最前線を駆け巡った青年指揮官はどう決断したか。いかに行動したか。31人の指揮官たちが体得した敵弾下の指揮を伝える物語です。

新島八重の維新新島

2016年07月18日 | 
新島八重
「ハンサムウーマン」と言われた新島八重をご存知だろうか。
1845年、会津藩砲術指南役山本権八の三女として八重は生まれた。
八重は父権八に怒られながらもこっそりと砲術の練習を重ねた。さすが砲術指南の家柄、かなりの腕前になった。兄の山本覚馬もその腕前を認めた。

山本覚馬は文武に秀で松平容保に付き添って京都へ入った。そこで起こった禁門の変では会津藩砲術隊を率いて活躍。覚馬は宝蔵院流鎗術も極めていたがこれからの時代は刀や槍ではなく砲術が勝敗を決める事を肌で感じていた。会津藩ではまだまだ古い長沼流軍術が主流だった。会津藩ではもともと教育が熱心だったが古い慣習から脱却が出来ず、幕末期の西洋の最新兵器に対して拒否感があったため、近代装備化が薩長軍と比較すると遅れていた。
 山本家は代々砲術師範を勤めていたためその最新兵器の必要性を感じていたが、会津の老家老たちは理解しなどころか覚馬を疎外した。この事が結果的に会津藩を敗戦へ導く事になる。

時は籠城戦。
山本八重は新型のスペンサー銃を持って籠城戦で薩長軍を狙撃した。夜襲にも加わり男性兵士と互角以上の働きをした。また、鶴ヶ城へ飛んできた不発弾を分解し藩主松平容保に砲弾の解説も行ったという。さすが砲術指南家の娘だと称賛されたそうだ。しかしながら会津戊辰戦争は周知の通り会津藩の敗北。斗南藩として藩再興を果たすも本州最北の地。まったく作物も育たない不毛の地だった。この地に移住した藩士家族は18000人あまり。しかし作物の育たない場所で厳しい冬を越せる人は少なく6000人以上が餓死・凍死したという。

山本八重一家も斗南藩、下北の地へ移住した。明治も3年が経つころ、鳥羽伏見で戦死したと思われていた兄覚馬が生きていた事を知り、兄のいる京都へ移住した。

その京都で新島襄と出会い結婚。
キリスト教普及に取組んでいくのである。

この本では会津戊辰戦争での女性に関しての章が少ないのでまた別な物語で紹介します。

幕末を生きた女 101人

2016年07月10日 | 
幕末を生きた女 101人

第1章 勤王志士、佐幕志士を支えた女性
個人的に佐幕派なので佐幕の人物を紹介します。
小栗上野介、実はこの人は江戸幕府内でもエリートでその先祖は徳川家康にまで繋がり本姓は松平姓である。三代の時から母の小栗姓を名乗っている。家禄2500石 上州権田村はその知行の一部である。小栗が政治に関わるようになったのは1860年の事である。父が早く病没したため彼を支えたのは母邦子であった。また小栗は23歳の時に結婚。相手は播州林田藩1万石の建部内匠頭の娘で道子15歳。大名家の娘としては珍しくはっきりと物を言うタイプだったという。聡明な小栗にはちょうど良かったのかもしれない。
しかしながら時は幕末。江戸城無血開城し江戸を占拠した薩長狙われる事になる。ついにとらわれて斬首。小栗は母と妻道子を会津へ逃がしていたため無事であった。そして無事に女子を生んだ。が、その後会津も薩長軍に侵攻されるが小栗一家は逃れる事ができた。無事に東京へ逃れ、小栗家を再興した。

西郷頼母、会津戊辰戦争を語る上で、西郷家の女性は会津誉として語り継がれている。
そう籠城戦を前に足手まといにならないようにと女性一族で自決。その潔さ等会津武士の教育に薩長軍は驚愕しまた称えた。西郷家は会津松平家がまだ高遠にいたときの家臣で藩祖保科正之が高遠から会津へ国替えの時に一緒に来た「高遠以来」のエリート家臣団であった。西郷頼母はそのことを鼻にかけ藩内でも鼻つまみ者とされてきたが、その妻千恵子は頼母を支えた。会津の女性らしく子供たちへの教育にも力を入れた。特に躾については厳しかったようだ。そんな会津戊辰戦争で思っていたより早く薩長軍が会津城下へ攻めてきた。城下では籠城戦に備えて早く城内へ入る者も多かったが、女子は兵糧を減らすだけ。また薩長軍に捕らえられて凌辱される前に潔く自刃し、夫に余計な心配をかけず戦に専念し欲しいとの行動を取った。会津城下では同じように自決する女性も多く230人以上もの女性が自ら命を絶った。現在も会津武家屋敷としてその事実を後世に語っている。会津へ行くことがありましたら武家屋敷に立ち寄ってみて下さい。

佐川官兵衛、会津藩別撰隊隊長、後に朱雀隊隊長。会津藩の歴戦の勇士である。彼は無骨者で武芸以外に興味がなく、一度目の結婚は失敗。二度目の結婚後に起きた会津戊辰戦争で新妻に苦労をかけた。が、敗戦後数年で病死。西南戦争へ警視庁抜刀隊隊長に任官する前に3度目の結婚し初の子宝に恵まれた。佐川官兵衛は南阿蘇村で薩軍との戦闘で戦死。西南戦争前に結婚した「カン」が一人息子の直諒を女手で育て陸軍幼年学校へ進学させた。若くして陸軍大尉となった直諒は日露戦争で戦死。官兵衛を支えた女性は戦争に翻弄された人生を送る事となった。

第2章
盛岡藩南部家の女性、新政府軍と事を構えたことから賊軍とされ戊辰戦争終結後は領地を大幅に削られた。最後の藩主南部利剛に嫁いだのは水戸藩主徳川斉昭の6女の明子だった。明子は徳川慶喜の姉にあたる。南部藩が朝敵とされ敗戦した事により、夫である南部利剛は処分され、また実家である水戸徳川家と弟徳川慶喜最後の将軍として処分され大名家である南部家と実家である徳川家を失う事となった。しかしながら明子は気丈に振る舞い明治36年66歳で亡くなる。息子利克が八戸子爵を継ぐ。

仙台藩伊達家の女性、維新後朝敵賊軍の汚名を着せられる。そんな中、亘理藩伊達家に嫁いだ保子は領主邦実に17歳で嫁ぐ。伊達一門は戊辰戦争で62万石から28万石に減らされ亘理領は没収。さらに旧領は南部領となったため先祖代々の土地を離れるか帰農するしか生きる道がなかったが、聡明な保子は残った武士団をまとめ上げ蝦夷地へ開拓使として乗り込む。ここでの生活は想像以上に苦しいものだったが、亘理を離れた者たちの団結で乗り切り、蝦夷地に新しい都市を作った。それが今の伊達市である。


幕末の志士の中でも討幕派である薩長閥の人物を支えた女性も多いがここでは省略させてもらいます。

写真の女性は陸奥宗光の奥方です。

散るぞ悲しき

2016年07月09日 | 
散るぞ悲しき

硫黄島総指揮官、栗林忠道の人生

「硫黄島からの手紙」という映画はご存知の方が多いと思います。渡辺謙さん演じる栗林忠道中将のノンフィクション物語。

出征

1944年栗林中将は硫黄島に出征することになった。栗林を硫黄島の総指揮官に任命したのは当時の首相東条英機である。彼は栗林に「どうかアッツ島のようにやってくれ」といったという。アッツ島は1943年アメリが軍の上陸を阻止するため死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン諸島の小島である。
 大本営は硫黄島を死守せよと命じたが、太平洋の狐島を守り赴くという事はもはや勝って敵を撃退するのではなかった。というよりも、日本にそのような力は残っていなかった。
ミッドウェー海戦での敗戦以来日本の配色は日に日に濃くなり戦力の差は開く一方だった。問題は、島をいつまで持ちこたえられるかその一点だ。しかし、当時の軍令は敗戦が決定的になっても撤退を許さない。「アッツ島」のように粘れるだけ粘って全員が死ぬまで戦わなければならなかったのだ。
 勝利がありえないとすれば、どんな目的のためのためならば部下たちは甲斐のある死を敢行出来るだろうか。アメリカ国力を知る栗林中将ゆえにアメリか開戦に最後まで反対していた彼の苦悩は続いていたはずだ。

硫黄島
硫黄島とは小笠原諸島にある。これらの島々は活火山が多く飛行場には適さない。戦前から要塞化計画のため父島には飛行場があったが、隆起している箇所が多い地形のため拡張や新たな建設が難しかったが、硫黄島には飛行場が2つあった。また新たに建設中の飛行場もある。硫黄島を不沈空母にするための計画であり、航空戦が勝敗を決める太平洋戦争にあっては日米双方にとって重要な拠点であった。とは言え、この島は水が乏しく雨水をためて使用している保と水源がない。活火山もあり耕作も不可能な灼熱の島である。
 しかし栗林はアメリカ軍が必ずこの島を奪いに来ると確信していた。そして「指揮官は常に最前線に立つべし」という信念に基づき司令部を硫黄島に置き玉砕までの九か月間兵士たちと共に過ごし島を出なかった。


アメリカ軍が硫黄島を狙う理由
東京から1250キロメートル。サイパン島から1400キロメートル。東京・サイパンを直線で結んだらちょうど真ん中に硫黄島があった。サイパン・グアム・テニアンといったマリアナ諸島を攻略し北上しているアメリカ軍の次の戦略に硫黄島が当てはまるのは明確だった。アメリカ軍は「超空の要塞」B29重爆撃機をサイパンに配備。しかしこのB29で日本本土を空襲する場合、いくつかの問題点をクリアしなければならなかった。 
 問題点1、サイパン島を飛び立ったB29は東京までの2600キロメートルを護衛の戦闘機なして飛ばなくてはならなかった。
 問題点2、長距離飛行するたえには燃料を多く積まなくてはならず、搭載する爆薬の量を減らさなければならなかった。
問題点3、故障や被弾の際に不時着する場所がない。
問題点4、硫黄島のレーダーがアメリカ軍機を感知した場合、日本本土に向かうB29が硫黄島から発進した日本軍機に攻撃を受ける可能性がある。

しかし、この問題は硫黄島を手に入れれば解決する。一方、日本側から見れば硫黄島を失うと本土防衛の拠点を失う事になる。
 もっと重要な事として硫黄島は東京の一部である。つまりこの硫黄島を失うという事は日本の歴史上初の国土の一部を外国に侵される事になる。

この事を承知しながら栗林中将はこの硫黄島で戦った。

・国の為、重きつとめを果たし得て、矢弾尽き果て散るぞ悲しき

栗林中将の辞世の句である。



この背景などを知ったうえでもう一度「硫黄島からの手紙」を見て欲しい。