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薩長が恐怖したシリーズ3

2018年06月11日 | 
薩長が恐怖したシリーズ3
「1に幕府衝鋒隊、2に桑名の雷神隊、3会津の佐川某」
今回は戦場で対峙した新政府軍の兵士たちに鬼官兵衛と恐れられた真っ直ぐな男の話をします。
鬼官兵衛と呼ばれた男。
佐川官兵衛は会津藩が京都守護職拝命し藩主松平容保が京都に行くがその選抜隊に選ばれ京都へ。彼だけではなく官兵衛の二人の弟も一緒に京都選抜隊に選ばれている。
京都では長州藩を中心とした浪士が何やら怪しい行動を取っていたため、会津藩としてはこれを取り締まる必要がある。池田屋事件で活躍した新撰組を配下に持つが会津藩も剣の腕に覚えがある藩士を集め独自に市内見回り組を作り京都の治安維持に当たらせた。これが会津精鋭部隊別撰隊の誕生である。
時代は彼の登場を待っていたのかも知れない。鳥羽伏見の戦いでは会津軍精鋭部隊の別撰隊を率いて常に先陣におり、銃弾が飛び交う中で官兵衛は目の上に被弾し顔面は血だらけ、刀にも銃弾が当たり刀も折れてしまっていたが、怯むことなく最前線で戦い続け壮絶な抜刀斬り込みを敢行し薩長率いる新政府軍を震え上がらせた。まさに戦の鬼。それこそ
薩長軍が「鬼官兵衛」と渾名した由来である。
 鳥羽伏見の戦い後、越後長岡で河合継之助と合流し北越戦争に参加。ここでも会津別撰隊の戦闘力は高かったが補給に乏しい会津、長岡藩は次第に圧されて行く。ここでも鬼官兵衛は健在。主な攻め手は長州藩でしたが鬼官兵衛率いる別撰隊と立見鑑三郎率いる桑名雷神隊にガトリング砲を所持している河合継之助に正面から戦いを挑んだのだからその被害は甚大なものだったという。補給路さえしっかり確保しておけば。残念ながら近くの新発田藩が裏切り新潟港を制圧されてしまったため、会津に引き返す事になる。もちろん、会津城下での戦いでも鬼官兵衛は薩長を蹴散らしてくれる。誰もがそう思っていたが、総攻撃の前日の酒宴会でちょっと飲みすぎてしまい、集合時間に遅刻。総攻撃をする前に薩長からの攻撃を受けてしまい市街地は占領されてしまった。これにより鶴ヶ城は完全に新政府軍井包囲され、1ヶ月に渡る籠城戦に突入する。さすがに鬼官兵衛もこれは生涯の汚名と受け止めて、籠城戦では城に入らず、朱雀四番隊を率いて市街地や近くの農村に潜んで来援した新政府軍にゲリラ戦を敢行していた。時折新政府軍の輜重隊を襲い、食糧や武器弾薬を城内に運び入れた。彼なりに猛反省していたのだろう。しかしながら、会津藩は降伏。鬼官兵衛はそれでもゲリラ戦を止めず近隣の農村に陣営を張る新政府軍を悩ませた。最終的には、松平容保から停戦命令を受け静かに刀を収めた。
その後は素直に収監され斗南へ移住した。が、藩庁のある田名部から一番離れているに五戸村に入居し、藩政から遠ざかっていた。彼なりに戦の責任を感じていたらしく、再三の藩庁への出仕も断っていた。しばらく大人しく斗南にいたが廃藩置県により生活が成り立たず会津へ移住する。多くの藩士が会津や東京に移住する者が多かったが、これといった仕事もなく生活は困窮を極めていた。そんな中、萩の乱、佐賀の乱、神風連の乱など各地で不平士族が反乱を起こしていたが、その鎮圧に首都圏の陸軍を投入したためその不足を補うために警察官を増やす方向になった。不平士族には会津藩の武士たちも呼応する可能性があった。西と東で反乱が起こったら明治政府が転覆する可能性もあった。そんな中、その元会津士族を警察官として採用して不平と取り除く計画が立てられた。その白羽の矢が鬼官兵衛に向けられた。彼を警察隊に入隊される事が出来たなら元会津士族も従うと読んでいた。
しかし、鬼官兵衛は会津藩を追い込んだ明治政府に仕官する気はなかったが、彼を慕う元会津藩士たちが仕官を求めてきたため政府の依頼に帰順し警察官になった。元会津藩士という事もあり警察庁内では賊軍上がりと蔑まされる事もあったが、階級が一等大警視だったため表だって彼を直接批判する者はいなかった。一等大警部は現在の警視に当たり、順位は12番目という異例の好待遇だった。戊辰戦争時で名を馳せた鬼官兵衛が警察にいる事は明治政府もかなり心強かったようだ。
警視庁抜刀隊
西南戦争で政府陸軍を悩ませた薩軍抜刀攻撃に対抗するために警視庁から剣の腕に覚えがある者を集め九州へ送り込んだ。さすがの薩軍も警視庁抜刀隊の攻撃より退却戦を余儀なくされた。特に南阿蘇の戦いと田原坂の戦いで薩軍を破った事は有名な話です。鬼官兵衛はこの南阿蘇の戦闘で命を落とす事になるが、今でもその戦没地には会津の酩酒『栄川』が備えられている。
南阿蘇 佐川官兵衛顕彰会
4月に起こった熊本地震で甚大な被害を受けた南阿蘇村こそ佐川官兵衛が奮戦し命を落とした場所です。数年前、私はこの地を訪れ佐川官兵衛の墓前に赴きました。お酒の量にビックリしました。一升瓶で10本以上はありました。あの世でも飲みすぎてしまうのではと心配になります!その近くに佐川官兵衛顕彰会があり資料館にも足を運びました。資料館は館長さんの自宅を改良して作られていました。お宅の庭に大きな池があるのですが、佐川官兵衛は出陣日の朝、この池で顔を洗ってから戦場へ向かったそうです。近くの民家で作戦会議を行ったようで、今でもその当時のまま残されています。作家の中村彰彦さんもふらっと遊びにくるそうです。今回の地震の影響がどの規模か確認できていませんが、春になったら南阿蘇に行ってみたいと思いながらこの本を読み直しました。
会津藩家老、佐川官兵衛。幕末の武将として名を馳せた男の物語。きっとあなたも幕末武将の虜になることでしょう

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