With the I Ching

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カバラーとエニアグラムと八卦と9つの意識レベル

2014-09-12 08:29:16 | エニアグラム/カバラー

「易の初歩」シリーズと関連があると言えばあるんでしょうけど、まだ自分としても思考実験の最中なので、今回は超番外編ということにします。

9月5~6日のツイッターでも書いたのですが、一ヶ月ほど前から、カバラーの生命の木/エニアグラム/バシャールによる意識の9つのレベルなど(※)と、易(八卦・九宮)との関係について考えています。それで、間違っているかもしれませんが、現状案としての資料を作ってみました。興味のある人の参考になれば幸いです。

(※)他、ユング心理学での8つの性格タイプ、十牛図との関連についても、いずれ記事にしたいと思っています。

 

◎生命の木と諸々(太陽系惑星・十干・八卦・五大元素など)の照応関係


カバラーのセフィロートの名称は、「神秘のカバラー」(ダイアン・フォーチュン=著、国書刊行会)に準拠しています。
その書の中では、惑星対応はビナーの土星とコクマーの黄道十二宮までしか記されていませんが、そのままの流れでいくと土星以遠の外惑星として天王星・海王星・冥王星と続くはずです。現代では幾つかの考え方があるようですが、ダートに土星や冥王星を当てはめるかで配当が変わっているようです。

それと、Ω およびその逆さまの記号は、占星術のノード(ドラゴン・ヘッドとドラゴン・テイル)のマークの代わりです。
月の遠地点という見方をするなら、ダートにはリリス(Φ)も関係しているかもしれません。
この他、木星~天王星の軌道にある公転周期が50年程のキロン(カイローン)も、ケセドからコクマーの流れの中にあるんだと思います。
そうなると、このダートというのは、色々な惑星や仮想天体の影響を受けたり、別の視点に繋がっているところだと考えることもできるのではないでしょうか。

で、これらに易を当てはめていくと、最上部のケテルを太極(太一)として、そこから両側に陰陽が分かれ、五行や八卦が形成されていく感じになると思います。

十干や八卦については仮案なのですが、今のところ主に二つ考えられるので両方入れておきました。
一つは先天八卦と納甲の関係から順次並べたもので、もう一つの「or ~ 」とした部分はセフィラーの内容と八卦の意味合いから推測したものです。

下記の二つの図では「or ~ 」としたほうを採用して対応付けていますが、どちらにしても思考実験中のものであることに注意して下さい。 

 

◎カバラーの生命の木と9つの意識レベルとエニアグラムの照応

これを作るに当たり、以下のページを参照しました。

バシャール:九段階の意識構成

バシール – 9つの意識レベルに深く潜る ハイライト

最初が「物理次元の顕在意識」ということなので、順番通りマルクトから当てはめたらいいのかなと思いましたが、最初の三つ以外はどうもしっくり来なかったので、各セフィロートの意味を考えてイエソドからコクマーに配当するのが妥当じゃないかと判断しました。また、All That Is については「神」と端的に説明されている動画もあるので、おそらくケテルか、その上部に当たるものと思われます。

ただし、これらの対応関係も正しくない可能性がありますので、あくまで一つの参考としてみるようにお願いします。

それと一番上にType9を当てていますが、だからといってType9が最も人間的に優れているとか、そういうことを意味するわけではありません。どのタイプも等価値で、どれ一つとして欠けてはならないものです。これらの照応は単に相互関連性を表しているだけであり、優劣や尊卑のようなこととは無関係です。これを理解していただくために、エニアグラムの円形図も作りました。どこを基点にとっても、そこから法則に沿って循環するようになっています。

 

◎エニアグラムにカバラーの十のセフィロートと八卦(九宮)を割り当てたもの

 

ところで、エニアグラムへの八卦・九宮の割り当てに関しては、もう10年以上前に一度行ったことがあります。
その時の対応のさせ方は次のようなものでした。

乾:Type2、兌:Type7、離:Type3、震:Type6、巽:Type4、坎:Type5、艮:Type1、坤:Type9、中:Type8

これらは後に「八卦の千変万化」という記事を書いた時にも反映されていますが、現在は上図のように見直しを行いました。
しかし、長らく固定観念化していたものにメスを入れての再考だったため、果たしてこれで合っているのか不安要素がないとも言い切れません。

それでも、いざ考え直して図にしてみると、カバラーでの三本の柱がそれぞれに分かれた上に、上手い具合に五行相生の流れができているのと、四象にグループ分けされていることに気がつきました。ひょっとしたらこれはいい線行っているのかも・・・?

欲を言えば、Type1の艮とType2の坤とが逆であれば綺麗に左右対称になるのですが、エニアグラム・タイプの意味との整合性、爻の増減の仕方や陰陽反転(左右に移動する時、極性が変わっている)の流れを追ってみると、艮と坤は入れ替えられそうにありません。それで一つ思い当たるのは、魔方陣である後天八卦も同じように艮(8)と坤(2)とが互換する形になっていることです。何かそのことと関係があるのかもしれません。

これ以外の対応のさせ方としては、ごく単純に数字の順に当てはめていくという方法があります。これは、占星術研究家の松村潔さんの著書、「神秘のサビアン占星術」に出ていますが、実にシンプルで分かりやすい配当です。

ただ、八卦と各エニアグラムタイプとの意味を照らし合わせていくと、単純な割り当てには少し違和感を感じたので、僕は僕で独自案を作ることにしたわけです。まあ、僕のはこじつけっぽさもあるので、実際には松村さんの考え方でいいのかもしれません。

なんにしても、今後の研究で再度考え直すということもあるでしょうから、その時はその時でまた記事にするだろうと思います。

 

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(追記。同月9/19)

次回の記事を書くまでに間が開くかもしれないので、これも仮定ですが、
参考までに、8つの性格タイプと八卦との関係で今考えている配当を記しておきます。

乾・・・外向的思考型
兌・・・外向的感覚型
離・・・外向的感情型
震・・・外向的直観型
巽・・・内向的感覚型
坎・・・内向的思考型
艮・・・内向的直観型
坤・・・内向的感情型

(再追記。同月24日)

ドン・リチャード・リソ氏のエニアグラムの本を読んでいたら、
エニアグラムとユングの提唱した8タイプとの相関関係が述べられていました。
一覧にすると次のようになります。

外向的思考・・・タイプ1
内向的思考・・・タイプ5
外向的感情・・・タイプ2
内向的感情・・・タイプ6(外向・内向の両向性とも)
外向的直観・・・タイプ8
内向的直観・・・タイプ4
外向的感覚・・・タイプ7
内向的感覚・・・タイプ9
記述なし  ・・・タイプ3 

もしそういうことなら、追記で書いた八卦とユングの8タイプとの対応は間違っているかも。
もうしばらく考えてみます。思い込みを払拭するのは難しいなー。 

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5 コメント

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真善美の探究 (智慧)
2014-09-24 13:19:07
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」


神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空と質(不可分の質、側面・性質)、然の性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し、その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり、自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性)、対生命(人間性)、従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立、対には干渉のし難さから来る閉塞、従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し、尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく、状況によっては退き適した人間に任せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め、これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく、認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。


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Unknown (山田)
2014-10-19 00:04:50
はじめまして。先ほど保管庫から、四柱推命のソフトをダウンロードさせて頂きました。
昼はVBAと格闘し、夜は占い師の生活をしているので
ただただ凄い、って思いました。
相性版もすごく楽しみにしています。

勉強になりますし、また遊びに来ますね。
どうぞよろしくお願い致します。
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ご意見、ありがとうございます。 (CI)
2014-10-19 12:14:25
>智慧さん

そうする理由は分かりませんが、他の方々のブログにもこれと全く同じ文章を貼り付けているのを見ました。

しかし、僕としては自分自身を省みる機会となりましたので、なにはともあれお礼を申し上げます。
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山田様 (CI)
2014-10-19 12:23:09
はじめまして、コメントありがとうございます。

勉強にお仕事にお忙しそうですね。四柱推命で占いをされているのでしょうか? 僕の作ったVBAソフトが少しでも役立ってくれたら嬉しく思います。

四柱推命もVBAも、この半年ほど全く手を付けてないのですが、そろそろ更新を考えないといけないなー、と思ってます。相性版はどうなることやら・・・気長にお待ちください(^^;

お暇な時には、またコメントなりメールなり気軽にしてくださいね。ではでは~
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Unknown (sachiko)
2014-11-18 11:28:26
我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
=>賛同致します。
洞窟の比喩の通り、大衆はある一貫した思考パターン(自己の価値観)で行動するので客観的に観ると時間軸や事象は違っても結局の所同じ所(次元?)をぐるぐると再生して生きているように思います。
まぁ、気づかないで人生が終われば気づかないのですからそれも良いのかとも思慮いたします。
でも、自分と関わる人は何らかのご縁(過去での接点)によるものというか、・・・。
ある意味、時空も同時進行なのでは?とも考えたりします。(笑)
だって、全て自分が作り出した世界だから・・・。(笑)
本当に心理学・西洋哲学・東洋哲学・脳の仕組み・宗教哲学・宇宙論・相対性理論・確率論・物理・精神界・易学・人相学・手相学・氣学etcの全てのポイントを吸い上げて線で結ぶと・・・(笑)本当に面白~い世界♪

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