With the I Ching

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生命の樹と易の照応 Part2

2014-11-03 04:35:25 | エニアグラム/カバラー

先日の記事に引き続き、今回はPart2です。 → 途中、右側のページについての<補記>を入れました。

「現状報告」として前回掲載したノートの一部を整理したので、再掲載します。また手書きです。
お絵かきソフトで一々作るのは手間が掛かるため、そういうのはもっと確証が得られてからすることにします。

クリックで拡大します。

左ページは、西洋カバラ(KabbalahとかQabalahなどと表記される)におけるタロット配置と八卦を記したもので、もう一つは、易卦展開して小径(Path)に並べ、十牛図と十二縁起の各段階を加えたものです。他にも様々な付加情報を入れることはできますが、前回よりも簡素にすることを目的としていたので、あまり書き込み過ぎないようにしました。

ところで、一枚目ですが、易の四象の概念をどこに入れようかと模索した結果、通常の「生命の樹」の形とは変わってしまいました。ちょっと戸惑うかもしれませんね。図的には「flower of life」の形です。ただ、カードの配置そのものは一般的に知られている並びです。

易の配当に関しては「絶対にこれで合ってる」というほどの確信はありません。10のセフィロートの解説を読んでいると、ケセドとホド、ゲブラーとネツァクが逆でも良いのかも知れない(または意味的に互換や補完するものがあるかもしれない)と思わされるからです。主に僕が悩んでいるのは、これら4つのセフィラーに対してで、中央の柱に位置するダート、ティファレト、イエソド、マルクトと八卦の照応は妥当だろうと考えています。

以下、便宜的に片方ずつに分けたものを掲載しながら書き進めます。 

画像右下に書いているように、アレイスター・クロウリー著の「トートの書」の中にある易卦配置は、単純にダートを乾1として、そこからカバラでの流出の順番(「いなずまの閃き」)と八卦の生成順に沿って、乾1→兌2→離3→震4→巽5→坎6→艮7→坤8を意識したものになっています。ただし、中央の柱に離と坎を置くようにするため、そのところだけ順番が異なっています。

また、2~3日前に海外サイトを調べてみたところ(なんでもっと前にやらなかったのだろう)、他にも似たようなことを考えている人が少数ながらいました。僕が見たものの幾つかは先天八卦の序数に従うものでしたが、クロウリーが紹介したものとは違って中央の柱に離や坎を置かず、そのままダートやケテルから「いなずまの閃き」の順に配置してありました。

http://www.smphillips.8m.com/article-46.html
http://m1thr0s.deviantart.com/art/Twin-Trees-Imperial-Edition-324595129
http://abrahadabra.com/images/alchemy/temporals01.jpg(http://abrahadabra.com/)
 

それ以外にも、前回やその前の記事に示したような配置に近いものもありました。残念ながらブックマークしてなかったためサイトが分からなくなってしまいましたが、確かダートに乾を置いて、八卦の長男・長女に当たる震と巽がそれに続き、ティファレトが離、イエソドが坎、下層が兌と艮というものだったと思います。あと、日本のサイトでも探せば、誰か同じようなことを考えているかもしれませんね。

四象に関してですが、これは実験的なものなので妥当かどうかは定かではないです。今後の検討課題の一つ。(・・・あ、今見たら左下の欄、少陽が二つになってますね。一つは老陰(==)と思ってください。)
頂点のケテルが点を意味し、コクマーが線、ビナーが三角形。これは古来の易の陰陽表記に近いかもしれません。というのは、陽の表記は今も昔も横棒一本ですが、かつての陰は二本の棒を交差させたものか、一本を真ん中で折り曲げて三角(∧)にしたもので表していたらしいからです。

そう考えると、単純にはコクマーが純陽(―)でビナーが純陰(--)ということになりますが(あるいは流出順では「純陽」と「少陰」)、上の図ではケテルを太極として陰陽を元々含んでいると見て、コクマーとビナーには元型的な父と母の意味で「老陽」と「老陰」を割り当てました。そして、「少陰」と「少陽」を各ノードに一応割り当てましたが、これは直観的なもので再考の余地ありです。

それと惑星対応ですが、ここでは公転周期の長短に従ったものを配当させました。伝統的にはビナーに土星が来ること以外は示されておらず、天王星や海王星は出てきません。あえて言えば、黄道十二宮がコクマーに、太陽系の渦全体がケテルという感じです。

ただ、近年は色々な説が飛び交っていて、今回の図のようにダートに土星を割り当て、そのまま天王星・海王星・冥王星とする人達もいれば、伝統に倣ってビナーに土星を置く以外は、ダート・コクマー・ケテルに天・海・冥などを様々に配当する人も結構います。

僕自身も強い確証があるわけではないのですが、もしダートに乾が来るのであれば、父性としての土星の意味は乾とも通じるものがあります。これは天王星や冥王星というよりは、やはり土星っぽいです。まあ単純な考えでは、天・海・冥のトランス・パーソナル惑星は「至高の三角形」に相応するだろうと思います。また、深層レベルではその前後の意識とは異なる極性を持つためか、ここでの父性はタロットでの「女教皇」に転化しています。

ダートの位置は物質世界とエネルギー世界との境界領域で、いわば半物質的な状態です。僕は「知のライブラリ」とか「多次元へのアクセス回廊」という印象を持っているのですが、ティファレト~ケセドに連なるハート・チャクラとケテルのクラウン・チャクラの周波数を調律した時に、このダートを通ったり映し出すことになってるんじゃないかと考えています。

詳しくは後日書く予定ですが、ここは仏教的には名色(みょうしき)に相当すると思われる箇所で、名とは精神的なエネルギー(認識や意志や想いや意識といったことで、ここで初めてビナーで識別されたものに対して名づけようとする。それまでは名無しのタオってわけです)、色とはそのエネルギーに形を与えるための大本(種)になる四元素もしくは五大元素(地水火風空)です。

スピリチュアルな世界では時々「ライトボディ」とか「アストラルボディ」とか聞くことがありますが、それはこの名色において光やイメージ主体の半物質的な身体を意図することで作られるものでしょう。そして、その身体は周波数(振動数・波動:バイブレーション)の高さゆえに高エネルギーで、乾に象徴されるように光に満ち溢れています。そして、この名色でライトボディを作ると、それを乗り物として「至高の三角形」の領域や異次元とかにジャンプする、という具合です。

物質的な五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)というのは、今話した名色と次の六処(ろくしょ:六入や六根とも言われる。五感+第六感(空間把握)という6つの識別器官を形成する意識が働く場所)で作られ、それが具体的な(または精神的な領域では、顕現しつつある)対象に「触れる」(ゲブラー)ことによって初めて身体的な「感覚」(ティファレト:個としての自分がいる、という自己認識)となります。しかし、ライトボディのような身体の場合、今僕らが身につけている三次元での活動体、つまり肉体とはそもそもの性質が違っている、ということです。

なので、ビナー以降の感覚は肉体的なそれとは異なり、何らかの対象や相手の印象が「感じられる」という超感覚的な認識・識別(ビナー)だったり、対象や周囲との一体化といった状態に入っていくことになります。そして、スピ系の本やサイトで「新生地球(ニュー・アース)」とか「真の地球」、「5次元以上の地球」といった感じで表現される地球はケテルであるとされています。しかも、このケテルは、より高次の銀河的「生命の樹」の最下層に位置します。これは、今私達が暮らしている領域であるマルクトの上位バージョンということになります。

つまり、5次元であれ何次元であれ、どこか遠くの場所に異なる地球があるわけではなくて、今僕らが住んでいるこの地球にダブった形で存在していると知る必要があります(「地球それ自体も一人ひとりの内的世界の一部」という意味で)。ただ、日常意識の僕も含めて、現状の多くの人はその周波数に呼応できていないため、高次の地球を認識できていないのです。既にあるにもかかわらず!

 

二つ目の画像は、八卦(各セフィラー)相互の関係を重ねて六十四卦にしたものです。
もっとも、易卦の全てが小径内に出てくるわけではありませんが。

この中には、易だけでなく、仏教の十二支縁起や禅の十牛図の思想も入っています。その二つはどちらも修行者の段階的な進歩を表したもので、カバラの生命の樹とも馬が合います。世界には色々な方法論が生み出されているので、これ以外にも登るためのコースは色々とあるはずです。今は単にその一例を示しているに過ぎません。

十牛図には幾つかの種類があるのですが、ここでは廓庵版の「十牛図」の名称と、普明版の「牧牛図」の名称を入れています。
その二つの図柄をまとめて見られるサイトがあったので、中国語サイトですがリンクを貼っておきます。
http://www.360doc.com/content/11/0531/21/5691718_120811569.shtml

普明版での牛の体は次第に黒から白くなっています。これはその人の精神的な修養段階が進んで心がクリアになっていく様子を表しているとか、チャクラの浄化が進んでいる証であるとも言われていますが、実際には両方だろうと思います。
あと、牛(=真の自己の象徴)が振り返って未練と戦って葛藤している様子があったり、廓庵版のように(死の状態を超えて)円空に入った後、再び人の姿となって戻ってくるという描写がありません。

カバラでも、その実践者が至高の三角形の向こう、つまりコクマーやケテルを超えていった人は「もう帰ってこなかった」という趣旨の記述がダイアン・フォーチュン著の『神秘のカバラー』のどこかに書かれていたと記憶しています。この場合は、タロットでの「愚者」を通って、そのままケテルの先に突き抜けて行ったということです。そしてたぶん、さっき書いた宇宙的・銀河的な関係性の中に入っていった。

タロットカードの意味を考えてみると、帰ってくる人というのは、「愚者」の反対側にある「魔術師」のパスを通って来るか、あるいはビナー(十牛図での辺本還源、牧牛図での双泯=牛・人ともにいなくなった後)で踵を返し、そこからティファレトに架かる「恋人」のパスを使って別の自分なり他者なりに出会っているのだと思います。この、帰ってくるか来ないかはチベットの十象図にも描かれていて、枝分かれする虹が選択肢を提示しているようです。(http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200811070000/)

そして、この虹の先は、さっき書いた光の身体とか、仏教に言う「仏の化身」、法身とか報身になって向かう先ということなんでしょう。


忘れてましたが、先ほど書いたダートの先の話も少し画像に入ってますね。

付け加えると、ダートはおそらくハイヤーセルフ(ハイヤーマインドとも言うかも)の認識が進んで多次元自己を自覚する段階に関係するんじゃないかと思います。これはティファレトで内的な自己の確信を見出した人が、「今これが自分だと思っている自分の他にもいる自分」とアクセスするようになる、という意味です。その「自分」は一見他者に見えたとしても、実際にはより高次な、またはより低次な、またはパラレルな世界での自分であったりします。

易的に説明すると、ダートの段階で八卦の起点(乾=光)に至り、ビナーで八卦そのものを超越して純粋な陰陽の世界に入りますが(陰といっても暗いわけではなく、とても明るい。ここでの陰とはそれが有する性質を言い表しているだけです)、そこは始源的な状態に近く、そもそもまだ形態というものが確立されていないために、事象という事象は皆、全一的に受け取ることになります。意志としての力の流出も受け取りも世界がひっくり返るような感じでドバーっと来ます。

つまり、時間的な連続性で小出しに流れてくるということではなく、光の速度で時空反転したり次元変化するような感覚でバッと一気に状態が変わるわけです。しかも、自と他のハッキリとした区別が感じられないので、「あなた=私」とか「あなたは私の兄弟姉妹(深い繋がりのある存在)」という感じの認識が生まれます。そして、すごく暖かい思いやり(博愛)のフィーリングが漂っています。思うにそれは、仏教で言う「大乗の発願」(菩提心)と関係しているか、そのものかもしれません。

そこは、(究極的には生死の概念を含めた)時間的縛りが解除されるので、ほんの僅かな時間に感じられたとしても、日常の三次元世界に返ってくると何時間も経っていたり(浦島太郎の物語のように)、逆に、もの凄く長く「空想的な世界」で過ごしても、意志次第では実際にはものの数分の出来事にだってなります。つまり、時間的な距離がないことで、どの時代の、どの領域の、どの次元の、どの世界の自分とも感応しあえる可能性がある、ということです。

これが「ダート以前の世界は多次元自己と関わりがあるのでは?」と個人的に考えている理由です。

しかし、いったん八卦や六十四卦に象徴される「現実」が形成されていくプロセスに入ってしまうと(ケセド~マルクト。特に感受作用が働くティファレト以降)、特定の対象や状態を求める欲によって顕現した地点に自分の意識も置かれますから、別の状態にある自分を並列的に体験することは理屈上困難になるか無理ということになります。再びガイドとしての(あるいは守護天使などのイエソドのフィルターを掛けたイメージ的存在としての)「高次の自分」と繋がるためには、瞑想などで自発的に深い意識状態に入っていくか、深い眠りの中で交流するか(夢としては覚えていないかもしれませんが)、ということになると思います。

今日の記事では、できれば22の小径との関連で易卦や十二縁起/十牛図の話を書きたかったのですが、長くなってしまったので、それはまた今度にします。

<補記:2014/11/6 普明版の十牛図に関して>

実は最初、この普明版の牧牛図の「双泯(円相の境地)」について、僕は直感的に廓庵版での「人牛倶忘」(第八図)と同じとは見なせませんでした。というのは、双泯(雙泯)以前の「任運」か「相忘」辺りが「人牛倶忘」、つまりダート~ビナーに相当し、その後の「独照」がコクマーへの道筋に、そして「双泯」がケテルへの最終工程に当たるのでは、と思ったからです。

つまり、牛として表される真の自己の内、名色や六処で使用される四大元素(または五大元素)を振るい落とし、純粋に穢れなき霊魂として、最後に神我(宇宙我)と合一&融合する状態を示しているのではないかと考えたのです。「神我(神の自己)」とはUteさんの翻訳記事の中でもGod-Selfとして出てくる、別名、All-That-Isとして表現される大いなる存在のことです。

なので、先の文中にも書きましたが、「ケテルを超えた者は“帰ってこなかった”」というのは、この双泯として陰陽、または個と全体との別がなくなり、真に一なるものとなった(=個としては無に帰した)状態じゃないかと想像します。

下の写真は上に掲載したものと同じページですが、部分的に書き改める前に撮影したもので、今記した考えが反映されています。書き直した理由は、『十牛図』(上田閑照・柳田聖山)の中で廓庵版と普明版の各段階の相関図があり、それに倣おうと考えたためです。ただ、必ずしも納得できたわけでもなかったので、こうして補記することで自分の考えを示しておくことにしました。

 

最後におまけとして、エニアグラムに易卦を展開した図を掲載します。走り書きしたものなので、あまり綺麗とは言えませんけど。

これは「カバラーとエニアグラムと八卦と9つの意識レベル」を書いた時に作っていたもので、易とエニアグラム/カバラとの対応を思うと、まだ不確定のものです。そういう前提はありますが、各タイプ同士の関係性について別の視点から考えるヒントになるかもしれません。あくまで易を知っている人向けですが。

注意点として、「中」(中宮の略)としたType9には乾坤の「天地」に続く「人」を割り振り、それに関係するラインに独創で「卦名らしき仮名」(笑)を付けました。易をやっている人には「こんなの六十四卦にはないぞ」とすぐ分かると思うので蛇足だと思いますが、一応、易をよく知らない人のために記しておきます。

ユング心理学の8つの性格タイプもそうですが、整合性の確かな照応が取れると色々と考察の幅が広がっていいのになぁと思います。

では、今日はこれで。また次回。

 



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