With the I Ching

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生命の樹と易などとの照応を考えています

2014-11-01 00:53:09 | エニアグラム/カバラー

この数ヶ月の間、浮かび上がってきたテーマに対して、ずっと思索を続けています。

事の始めは、いま中途半端になっている「易(八卦)の解釈」を書き進めている時でした。ブログに書いて人に教える風なことをしているのに、実際のところ、自分自身は本当に八卦が分かっているのか、どうしても自信を持てなかったのです。それで結局、自分なりに納得できる状態になるまで、もう一度、勉強し直そうと思い、手持ちの本などを読んできました。

最初は易の本を普通に読んでいたのですが、それだけだとどうしても腑に落ちないというか満たされないことが色々とあって、そこからユング心理学の8つの性格タイプやMBTI(ユングの8タイプを発展させた16の性格タイプ)、エニアグラム、カバラー、十牛図、仏教の十二縁起などとの照応を考えてきました。ただ、現在のお財布事情から、あんまり資料を買い集めることもできない状態なので、定期的に図書館を利用したり、安い中古本を探したりしながら進めています。

で、もともとその辺の内容は以前から興味があって、たまに思い出したように取り組むということを繰り返して来たのですが、今回はそれに加えて、カバラの22の小径の理解のため、今まで避けてきた「タロット」にまで踏み込みました。

占いや運命学の世界を学び始めて15年以上経ちますが、占い師ではなく研究者としての在り方から、どうもタロットのようなカード系には馴染めずにいて、今もタロット・カードや易のカードは持っていません。まあ、絵柄や意味などはネットや本でも見られるので、必要性がなければカードを買わなくても困ることはないですし。

で、調べてみた感じでは、小径に配置されるカードやヘブライ文字には幾つもの説があって統一されていないようで、個人的にはそっちのほうに困りました。なので、これを解決するために、今まで自分がやってきたことを総動員して取り組んでいます。

クリックすると拡大写真が出るはず。

試行錯誤を含めて盛り込みすぎているため書いた本人以外は何がなんだか分からないと思いますが、とりあえず現状報告として載せておきます。
その内に整理して一つの記事にする予定です。

 

長らく更新できなくて内心辛かったので、こうして何か書けるだけでも、なんだかホッとする自分がいます。
もう少し気楽にやれたらいいんだろうけども。

こういうことをしていると時間はあっという間に過ぎていきます。もともと考えに没頭するタイプだってこともありますが。
色々と読んでいると、難しいことが沢山書かれてるわけですがカバラにしても仏教にしても易にしてもエニアグラムにしても、本来は存在の究極的な状態を目指すものなんだろうなぁと思えてきます。

易の場合、普通は占いの側面と哲学的な側面があるわけですが、その形成期はもっぱら占いの道具だったと考えられています。しかし、時代が進むにつれて、老荘思想や儒学、朱子学などと織り交ぜられ、繋辞伝のような易の思想哲学的な面も充実するようになりました。この辺りは正統カバラが、後にクリスチャン・カバラとか西洋魔術カバラとして変成され、本来はなかった占いの側面としてのタロットが付加された状況に似ています。

で、何が言いたいかというと、僕自身は研究が好きだとはいえ学者ではないので、実践として日常に生かせなければ魅力が半減してしまいます。だから、こうした照応を考えるに当たっても、それぞれどの方法論を用いるにしても、それが現実に歩んでいける内容でなければ大した意味はないと思えるわけです。

今、セフィロートや小径(パス)や易などとの対応を考えていると、たとえば仏教の十二縁起や七科三十七道品とか十牛図(十象図)といった内容とは、かなりの精度で整合性があるように感じます。また、エニアグラムや『神とひとつになること』にある「十の幻想」もそうですし(大雑把に言って「神との対話」や「聖なる予言」シリーズも意識の階段を登ることをテーマにしていて通じ合うものがある)、考え方次第では奇門遁甲の背景理論も包含されているみたいに思えます。

要するに、これらの事柄というのは、もともと一つの壮大な体系である、ということだからでしょうね。言葉の違いや文化的差異はあっても、その本質的な面を究明していくと、そこにある元型だとか存在や状態の説明の仕方に共通点がたくさんある。

けれども、特に仏教や禅の本に顕著ですが、言葉が難しすぎる。かといって、あまりに噛み砕きすぎてしまうと逆にその場限りの慰めに終わってしまいかねない。思うに、どのやり方を選ぶにしても、自分がどの辺を歩んでいるのかのマップが必要なんじゃないでしょうか。

例えば、釈迦が悟り得たという十二縁起の法は、とても理路整然としていて階梯を昇り降りするような感覚さえあります。そしてこれはカバラの小径とよく合致しているので、自分が今どの辺りにいるのかという現在地情報に使えると思います。これと同様なことが、昔から十牛図や九識論、空海が述べた十住心論といった形で示されてきた。でも、現代人がそうした内容に触れることは稀ですから、なんだかもったいなく感じる。

また、禅なら禅、仏教なら仏教、易なら易、エニアグラムならエニアグラム、カバラならカバラ、ヴェーダならヴェーダ、西洋哲学なら西洋哲学といった感じで、その中だけで収束してしまうことも多い。元々は同じ体系であるものを異なる表現形態で発見してきただけだとしたら、それぞれの方法論に優劣をつける必要はないですし、橋渡しをする人が大勢出てくるような下地を作ることもいいことじゃないかと思えます。

それで思い出したのですが、この間、『井筒俊彦著作集6 意識と本質』という本を図書館で借りました(カバラについても記述があったからです)。じっくりとは読めてないのですが、「人間(存在)の根本的な部分は世界の誰であっても変わらず、社会や国といった集合的な意味でも生命としての本質的な欲求には違いはないんだろうなぁ」とページをめくりながら考えていました。

老子が簡潔に述べているように、一なるものから二が、次いで二から三、そして三からずっーと敷衍して万物が生まれてきた。これは現代科学が明らかにしているように、インフレーションからのビックバンに相当するものでしょう。つまりは、僕らは一つのまとまりの中に元々は一緒にいて、それが「何らかの意図/目的」の下に散り散りに分かれていった。

この意図や目的というのは各思想において言葉は違いますが、端的に言えば、「全体として一つであった僕らは、それ自身では「自分」を認識できなかったため、いったん解体して個々の破片(パズルのピースのような感じ)にすることで、改めて一つになる過程を通じて「自分」というものを見つめることにした」という感じなんだと僕は思っています。同じようなことがスピリチュアルな分野でもよく言われていますね。

本来は一つであった「一なる自分」は、時空を超えた全一(絶対)なる神と表現することもあるでしょうし、バシャールが言うように単純に「All That Is」(存在する全て)とか、カバラが説くように「I am that I am」(在りて在ろう者)であることも想像できます。

「存在するもの全て」ということは、生命としての人間や動植物だけでなく、今見ているPCや机やカップなどの全てが「大いなる自分」を構成する大切な要素だということです。

今僕は、ちょっと手を止めてペットボトルから水を飲みましたが、この水もペットボトルも、その分子・原子・素粒子の働きを通じて僕とリンクしていると考えることができます。そう思うと、水やペットボトルが僕に与えてくれる恵みに対して、受け取る僕自身がどう感じるか、それがとても大切なことのように思えてきます。ただの無機質な物質ということではなくなってくるからです。

同様に、今吸って吐いている空気も、巡り巡って世界の誰かの肺に入ったり、どこかの植物によって光合成されていたりしています。漠然とした話かもしれませんが、実際にはこの身体だけでなく、僕ら一人一人の心もまた無意識層を通じてつながっているのであれば、どんなに孤独を装っても何かや誰かと相互に影響を与え合っているわけです。どうあがいたって決して一人の独立した存在にはなれません(笑) これを仏教では「縁起」といっていますが、まあ、そんな言葉など本当はどうでもいいのです。

お互いに物理的・精神的に関わり合いがある以上、そのことに一人ひとりがどんな意味を与えるかが重要なんだろうと、僕は思います。
よく人生の意味だとか目的だとかの、何か使命的なものを見出すような自己啓発本がありますね。僕も以前はちらほらとそうした本を読んでいましたが、今思うと、結局は本人が自分の人生に対してどんな意味を与えるか、どんな定義付けをしていくか、ということに集約されると思います。

もちろん、占星術だとかで課題を読んだり、アカシック・レコードや退行催眠、ヘミシンクのようなことで前世で遣り残したことを思い出すみたいなこともあるかもしれませんが、それを知ってどうするか(追求するか別のことをするか)は、やっぱり自分次第なわけです。これからの方向性や生きる意味合いにしても、予め決まっているものと宿命的にとらえる必要はないでしょう。いや、というより、宿命的にとらえるのも、自分で好きなように環境を選んでいくのも自由だよ、好きにやりな、といったところじゃないかと思います。(社会的なモラルとしての制約はあるでしょうけども)

 

調子に乗って追記していたら、深夜帯を越えて段々と何を書きたいのか分からなくなってきたので、この辺で終りにします。
冒頭に書いたように、いま現在進行形でノートに書いている内容を整理することを当面の目標として、しばらく頑張ろうと思います。

気がついたら11月になっていました。みなさん、素敵な月にしてくださいね。
ではまた次回。 



1 コメント

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Unknown (かあさん)
2020-11-07 14:24:02
この記事を読んで、心から感動しました
色々勉強させてください
ありがとうございます😊
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