cowboy-平松の部屋

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2015年12月13日 スズキ ニレ(2輪レースGr)OB・忘年会に行ってきました。

2020-09-30 20:08:17 | ミーティング(パーティー、忘年会、偲ぶ会)
2015年12月13日 スズキ ニレ(2輪レースGr)OB・忘年会に行ってきました。

ミーティング(パーティー、忘年会、偲ぶ会)-2

先日(13日)スズキ ニレOB・忘年会に増っさん(増田耕二さん)と行ってきました。
伊藤光夫さん、小島松久さん、久保和夫さんが発起人となり、 この頃葬儀場、通夜の席等で
レース関係者と顔を合わすことが多くなってきました。駒が欠ける前にニレ(2輪レースGr)の衆、
で集まりたいですね、との発声で、太一さん(関西MX、マウンテンライダース)、シャケ兄い(中部ロード)
名倉さん(浜松)、池田さん(九州、福岡Bエンジェルス)菅家さん(関東、城北ライダース)の方方が
担当し各関係者に連絡、浜松に集合となったわけです。   高橋道雄さん小田切信雄さん(東北)
は遠かったのかなー
私は太一さんからMX会場で 来てーな と言われ、招かざる客と解っていましたが、
阿部ちゃん、と私を育ててくれた御二方(伊藤利一さん、市野三千雄さん・W‐GPライダー・享年48歳)
のお墓参りに行きたくて(事務局に墓の住所を調べてもらって、私、増っさん、池田さんとお線香
あげてきました。)と言うより、増っさんも私も小島さんが来いと言ったら、行きます。
総勢140余名、MXライダー、小島さん、久保さん、太一さん、上野広一さん、菅家さん、増っさん、池田、渡辺、
大関、、山本、松田強、出原、等々   あれ、都良夫, 忠さん もいたナー、スズキに乗っていたんだー。
RRライダー、伊藤光夫さん、谷野さん、長谷見さん、安良岡健さん、シャケにい(河崎)、水谷、荘、輝井、
辻本、樋渡、伊藤、北川、加賀山、高吉、津田、等々
受付で会費を払い、住所等を記載していたら、旧上司の神谷さん(カミニー)がいきなり握手してくれて、
いろいろあったけれど、楽しかったなー、よく来てくれたなーって、私は、20歳から25歳までニレで
お世話になりました、5年間も、生意気なくそ坊主(私、阿部の方がよりワル)を育てた挙句、後ろ足で砂を
蹴るように他社(カワサキ)に出て行ってしまったヤツにですよ。 もう涙です。
前回の利一さんのお別れ会で光夫さんに、オメーラはと怒られっぱなしでした。が カミニー の言葉で、お世話
になった他の先輩方に挨拶して回われましたし、ようー来てくれたなーって、声もかけてもらいました。
小島さんのチーメカだった、ハラニーは両手で握手しながら、俺たちに時代は終わった、後は頼むぜ―って、
はい、…………(オレ達もリタイヤしましたと言えませんでした。)
小島さんには首(首の神経が押されて手がマヒしていた)の手術を片山整形(旧ヤバシ整形)でして
もらいましたと報告したら、そうかそうか、あの先生なら大丈夫だなー、ヤバシ先生はもう高齢だからなー
首直してもろーて良かったなーって、 また、KE007, 76、WORLD CHAMPIONSHIP IN JAPAN KYOSHO
1:43 長谷見モデルを長谷見さんのサイン付きでいただきました。(KEの方から、特別にいただきました)
小島さんが大怪我をヤバシ先生に直してもらったので、阿部ちゃんから大怪我はヤバシとスリコマレていました。
宴の終わりに光夫さんにお世話になりましたと素直に挨拶ができ、おーおー遠くから来てくれたか、
忘年会に出席して良かったです。
現役ライダーで熱田、小島(’15のチャンプ)、元木、亀谷があれ?この おっさん なんでこの席にいるのって
不可思議な目で見てました。(元HRCだけど、ニレOBなんです)若い小島には、お前の父ちゃんと同商売で、
お前がPW(ピーウイー)に乗っているころから応援していたよ、熱田には’16は黄色いBIKE応援する
から走りの途中で手を抜くなよな、そしたら ”よく休憩してます”だって、亀にはBB(バーニングブラッド)の
同期だったよなーと言ったら、まわりが??
会の途中で渡辺(現MX監督)にロードの責任者を紹介してくれとオーダーしました。  そして
スズキがW‐GPに戻ってきたが、同じパーフォーマンスのBIKEができても、ロッシやスペインの若いモン
には勝てないでしょう。はい、(回答)、何か、他車より異なった機能を付けないと勝てないよ、ウイーリー
制御付いてるよね、なんで?、スズキ時代にリヤのリンクサスを私が提案したけれど若造がでボツ
Kに移ってKRに装着したよ、小島さんにF1のフロントサスを借りてKRに着けたよ、少しアルコールが
入っているのでまとまってない話をしてますが、実は、リアのWスイングアームを小園さんが制作し、
W‐GP(moto2)にも出場しました、ウイリー制御でキャンセルした出力を前に進む力に変えられる
機構です、車体は残ってます、青木にテストさせませんか。あまりにも、技術屋が消極的すぎる。
なにかやれよです。オレがリンクサスやらなかったら、まだ皆さんレイダウンの2本サスで走ってるだ
ろうなー、浜松から若いモノがPCをもってオレの処に来たら、育てますよ、と酒の上ですが勝手に喋って
ました、でも本気でないとわざわざ浜松に言って話しませんよね、まあ、返事は無いようですが。

COWBOY-平松

片山義美をしのぶ会

2020-09-30 19:49:10 | ミーティング(パーティー、忘年会、偲ぶ会)
ミーティング(パーティー、忘年会、偲ぶ会)-1

片山義美をしのぶ会

2020年2月1日に神戸のポートピアホテルで片山義美をしのぶ会が開催されました。小島松久さん
も発起人と言うこともあり、出席しました。また、阿部時代のライダーも出席予定とのことで、会いたく
なりました。行き帰りも高速バスを利用し、特に川越発を利用した為楽でした。よく、京都や岐阜
(名古屋からJRで2駅)へも高速バスを利用してます。但し、水分(牛乳)、過食(生モノ)には注意
しております、トイレはこの頃近いですから
出席者は160名(8席×20テーブル)と多人数でしたが、ファンの方も出席されていた事のようです。
発起人:宇野陽一郎(三洋電機)、高橋国光(病気で欠席)、小島松久、寺田陽次郎、山本隆、
星野一義、阪口顕、吉村太一、村上力、清原明彦。
まず、小島さんに片山さんのしのぶ会に来ました、ご無沙汰してますと挨拶。元気か、増田(耕二)も
元気か、はい元気です、そかそか良かった、遠い所ご苦労さん。
山本隆さんには増田の同僚の平松です(MXレジェンド会に増っさんに紹介してもらって、出席)と挨拶、
よく来てくれたな、増田は、はい、元気に自転車乗ってます、山本さんは椅子に腰かけられてい
ました。太一さん、Kiyoさんにも挨拶。Kiyoさんは、片山さんと平松が結びつかず、お前顔が
広いなと不思議がっていましたね。
私と片山さんとの接点は、小島さんのKE(FJ360,FL500)のミニフォーミュラーに片山さんがドライブしてました、
私のスズキでの業務はTR500,750,RG500のフレーム設計とフロンテ(軽4)のエンジンレーシングKITの開発を担当してま
した、水冷になってパワーUPしたパーツをKEのFJに搭載し片山さんにテスト(レース参戦)してもらいました、
片山さんにスズカの1,2,3コーナーの進入ラインはと質問しました(私もレースしたくスズキに入りましたので)
片山さんは、進入ラインにヘルメットを向けろでした、2輪でいう、リーンウイズ走法だと解釈いたしました、
社内で社員GPライダーの市野三千男(当時FJ360に乗っていた)さんにも、ヒル&トウの足の使い方を教
えて下さいと言ったら、そんなの使ってネエー、オメーら頭でっかちなんだよ、2輪に乗るようにスムーズに
走れ,下がもたつくENGが悪いんだ、キャブセットからしっかりやれでした。双方納得するしかありません
私のテーブルは、太一さん、杉尾さん(司会、カワサキではラップしてないが、フレームの図面書いた事あり)、
永田撰さん(スズキ時代の片山さんのメカニック、チーム永楽)、上野さん(太一さんと同MXライダーでスズキ
時代可愛がってもらいました、今は右手が不自由なようです)、菅家さん、鈴木忠さん、的場さん、
ソウソウたるモトクロスライダーチームですよね。
他席のMXライダー:松本満男 ロードライダー:和田将宏、杉本五十洋、片山敬済、本橋さん、平さん、
近藤博志との挨拶、RSCのライダーで生きているのは俺だけだ、一ノ瀬憲明、木山賢吾、阿部ちゃん、
そして上田公次、皆死んじまったよなーと まず、残念な、懐かしい、コンチャンとの会話でした、。
江崎正さん(やさしい、おじさんになってました)、糟野雅治 会ったとたん、お互いに死んじまう前に
写真とってこうぜー、と若いやつにシャッターを押してもらいました、阿部ちゃんも居たらよいのになー、
うしろに阿部ちゃんの背後霊が写ってるかもと ウルサイおじさん達でした。毛利さんは頭がちょっと
薄く、えー解からなかったです、後、樋渡、大本。
和田さん、杉本さんとは、前週に会うことになってましたが、御免なさい、こっちの会に来ましたと
謝罪しました。(杉本さんとのイキサツは、私のブログ中の、杉本の最終コーナーを読んで下さい)
小島さんが平松、センちゃん(永田さん)を席に案内セーと 即指示 がありました、永田さんは俺GN
なんだよ、もう切れないので抗GN剤を飲んでいるんだよ。献杯のお酒をちょっと飲んでモドして
ました、スズキ(浜松)からこの会に来たのは俺だけだよ、終わったら(16:00~19:00)、新幹線で
帰るよと、さみしい話をしていました。メカ時代の話しを壇上で話してよと、会のメニューにありましたが、
モドしていたので無理と断っていました が、小島さんと太一さんが喋らんでいいからと永田さんを
壇上に上げ、小島さんが紹介してました、小島さんが気ずかっていましたね。そして、病気の年寄り
を浜松から一人で、若い奴を付けるとか気を使えよな、伊藤光夫さんが亡くなった時も、俺はスズキ
の関係者から聞いてない、光夫さんのしのぶ会はどうなっているのかなーと心配していました。
会の終わりで全員写真に糟野がいません、心臓がイテー、暫く横になっていたようです。大丈夫なの
かな、若いころはバカやっていてももう、皆 齢ですね。
ニレ(スズキの2輪レースグループ)の忘年会の冒頭の光夫さんの挨拶も皆歳とってしまって、会えるうちに
会いましょうでした、先輩のライダーで光夫さん、金谷さん、安良岡さんも亡くなってます。そしてこの
会場に展示してあったRK50(スズキの2気筒、50ccGPマシン)の前オーナーの河合さん(チーム永楽)も
亡くなってます、と現オーナーの丹治さんが私に伝えてました。余談ですが、片山さんは125ccに
乗っていて、50ccに伊藤光夫、市野さん、島崎さん、HGアンシャイトが乗っていたと思います。
片山さんの125ccは何処かにあるよとチーム永楽の永田さん丹治さんが言っていましたね。
私はその夜は近くの別(トリバゴで検索)のホテルに泊り、次の日は明石で明石焼きを食べ 酒
(飲み代)を持参しカワサキ時代の先輩の家で飲み明かしました。
でも、そんなに飲めませんでした。、昔話で酔っぱらってしまったのでしょう。すごく良いお酒でした

COWBOY-平松

私の定年退職と卒業祝いツーリング&まっさんの卒業壮行(走行)会

2020-09-24 23:19:34 | オレが経験したおもしろ話
私の定年退職と卒業祝いツーリング&まっさんの卒業壮行(走行)会

オレが経験したおもしろ話-7

定年延長はありますが、ライン業務です、と言われました。60を超えたオッサンに立ち仕事かよ、
辞めろって事ですね、若い子にあなたの経験を伝承してね業務はあるのかなと思っていたが、
よっぽど平松が嫌いなんですね。△△は私を主研にはさせないと言っていたようですし、HRC
全体が引きずっているようですね。まあ、オレなんか主研になったら、即ブラジル,中国だろうけどね
私の最終クラスは研究員(ぺーぺー、組合員、組合役員)でした。とりあえず、良かったのかな

まだまだ、設計業務は出来たと思う、まあ若手の設計業務チェック(かっこよく言えば若手育成)
ぐらいは、良い子がいたから教えてあげたかったです、この世界は大学では学べないし教えて
もくれない、特にレースの尖がった世界は、実務から経験を積んだ自分の感性(感覚、直感)で
ライダーからの感覚的なコメントを解読して、対策を具現化する世界です。的確なコメントする
ライダーは少ないです、自分の目で確認できる設計者もいないでしょう。私はスズキ時代、利一
さんや阿部ちゃんに鍛えてもらって、感性が身についたと思います。伝承したかったですよ。
NJBDを一緒にやってた、OO君やYY君に、でもライン業務だってさ、一気に疲れました。
残念です。  RG(スズキ)/.KR(カワサキ)の実績を引っさげて、粋がってHRCで
孤軍奮闘しました。スゲーきつかったです。ウツになったり、心筋梗塞になったり、疲れても、
頑張って、やっと楽になれるんだなと、定年退職する日が待ち遠しかったです。
HRCでの業務はやり切ったと思うが、報われ感はないですね。

よく成果主義とか言いますよね、成果、成績、業績に見合った賃金、給料を支払う形態、
これ上位者が評価するんですよね、自分よりレベルの低い上位者が評価出来るのかなと
ズーッと思ってました。    まあ、上位者に嫌われちゃー駄目ですね
ゴマすりですか、今は忖度(最近までこんな言葉知らなかった)ですね。

私の定年退職の会は軽井沢のペンション(KENさんの)で卒業祝いツーリング(一泊)を企画して
もらいました。20名ほどでBIKEで押しかけました。ペイントしたフルフェイスヘルメット、プリントされた
Tシャツ、MX用ゴーグルをプレゼントしていただきましたね。

その一年前にまっさん(増田耕二さん)の定年退職の会をいたしました。課内で堅っ苦しい会が
計画されていたようですが、まっさんは、イラン、出ないと拒んでいたので、計画者に堅っ苦しい
会は止めて、私がまっさんの会を催します。そして(まっさんを長とする)オフBIKEグループに、
しどき(福島いわきのMX場)でまっさんの壮行(走行)会を計画してと依頼しました。タイトルは
”まっさんをブッチギレ”午前は練習走行&ヒート1、昼はレセプション&昼食、午後はヒート2.
夜は民宿(おいしい魚を食べさせてくれる)で海鮮三昧&レセプションでおおいに盛り上がりました
普段飲まないビールをまっさんは数杯、絶好調でしたね。参加人員は50名。東福寺も参加して
くれました。私はまっさんのリクエストにより鉄フレームの450(COWBOY450)を製作し、
まっさんにプレゼントしました。そして しどきの社長、クラブ員の方に協力していてだき、
盛況な壮行(走行)会でした。みんな、マジで走ってましたよ。私はBIKEを作って、整備してました
ので、走行出来ませんでした、残念

補足説明:COWBOY450は
   2009年1月、No273号、ガルル誌、COWBOY450、50P~51Pに記載されてます。
   参照下さい

モノコックの勉強と2輪への応用

2020-09-22 23:45:50 | おもしろパーツ-全般
おもしろパーツ全般ー2
モノコックの勉強と2輪への応用
モノコックとは、板を箱にした時の強度と、その空間を巧く利用することです。
 スズキの時代、FJ360のミニフォーミュラーの車体は鋼管スペースフレームから始まり、ベルコ96Aはアルミモノコック
フレームへと進化していった、前後のバルクヘッドをアルミ板でリベット締結し、強度を持たせたバルクヘッド
から、足回りがレイアウト(L/O)される、シート後方には防爆ラバータンクがL/Oされ、その間には遮断板
が義務付けられる。実に合理的なL/Oである。その製作工程を横浜のスズキ板金でじっくり
見させてもらった事が有ります。
 KAWASAKI時代には、京都のKE(小島さん)の工場でF-1のフレームを航空機を製造する工法
を用いたアルミモノコックを製作していたので、よーく 見に行きました。
アルミ板とアルミ板の重ね接合部は綺麗に洗浄し、接着剤を塗布し接合強度をあげていましたね。
リベット打刻も仮リベットを多用し、精度を確認しながら組んでました。サイドポンツーンには防爆ラバータンク
がセットされ綺麗に仕上がっていく様を見ながら、この先、自分でも作るであろうから、工程や工具、
テクニックを よーく 見せてもらいました。
明石からライムグリーンのツナギを着てCB400F(408cc)で京都へ、その晩、小島さんが飲みにいくぞー
小島さん、オレ皮ツナギなんですけど、小島さんが「カマヘン・カマヘン」で祇園の高級クラブへ、ツナギの袖を
縛ってTシャツで、綺麗なお姉さんと、お酒を飲んだのは、私ぐらいでしょうね。ホントの話です。
小島さんはヨーロッパからニューマシンやシャーシー、ENGを購入すると、平松、阿部、見に来い、F-1レースに
も手伝いに来い。そして、お前ら4輪のレース界の技術を よーく 見て勉強しろとチャンスをくれました。
小島さんは自分の技術のスポンサーです。KR250のRRリンクサスはブラバムBT45から阿部とパクリました。
 この先、KR500(カワサキ)やRCB400(HRC)でモノコックフレームの図面を書きますが、ベルコ96AやKE009
から学んだイメージが自然発生的に2輪のフレームに置き換わっていったのです。
 KR500はガスタンクとメインフレームをコラボさせ、スペースクレームで生じる不要な空間を
無くしてコンパクト化を図った。
 RCB400はラバー製ガスバッグをフレーム板の間にL/Oさせ、ガスタンクの位置を最適化させた。
モノコックとは、板を箱にした時の強度と、その空間を巧く利用することです。

重大事故に想う(リナーテ国際空港、福島第一原発)

2020-09-22 17:26:12 | オレが経験したおもしろくない話
重大事故に想う(リナーテ国際空港、福島第一原発)

オレが経験したおもしろくない話-1

メーデー航空機事故というTV番組(CS系)で リナーテ国際空港での重大事故の番組を見ました。
視界50mの中、離陸中の大型航空機と小型ジェットが接触、片側のENGをもがれた大型機が9秒
ほど浮上したものの、滑走路をそれて倉庫に激突、満タンの燃料に引火してしまった。管制塔は
霧で見えず事故に気ずいてない、倉庫の従業員が火傷を負いながら報告したのが3分たって
からだった、それで管制塔では2機が不明(飛び立ってレーダーに映ってない)になっていると確認した、
小型ジェットの発見にいたっては、25分後で事故当時は搭乗員、搭乗者共生存しており、4名焼死
したようです。本事故で100数十名亡くなった、痛ましい事故でした。 事故原因については
実にお粗末な空港側の設備によるものであった。濃霧のため、誘導路のペイントが見にくく
小型ジェットが逆走してしまった,又、通路確認標識が雑草で見難い、最悪は通過確認センサーが
作動せず(電源をカットしてあった)小型ジェットの滑走路への誤侵入を許してしまったのである。
本事故以前にも同じようなトラブルはあったようで、重大事故に至っていなかったから、まあ
いいやで過ごしていたようです。
 私のブログで イタリア、一人旅(カワサキ時代ー1) のなかでリナーテ空港内の搭乗ゲート表示盤が壊れて
いて、ゲートNoが不明と記述しましたが。そうなんです、この空港なんです、この時も空港職員に
搭乗ゲート表示盤が壊れていると注意しても、ヘラヘラしていて、また、搭乗者もいつもこんなもんだよと
ヘラヘラしてましたね。空港設備関係者、空港職員、搭乗者から、こんな小さな事項を問題視しない
体制が積もり積もって重大事故に至ってしまったと思えた。私自身も事故に巻き込まれた可能性が
あったと思うと 、ゾーっとしました。
3.11福島第一原発事故も同じでしょう、過去の貞観(じょうがん)津波(869年,推定津波高さ10m)
の複数回の記録。直近の政府資料からの試算による津波高さ15,7mの対策は先送りされた。
そして、竜巻による地上設備破壊対応で、重要設備は地下に設置するとする、アメリカ国内の
設計基準は津波により海水が緒設備を水没させてしまう海に隣接する原発に不向きである事は、
原発関係者は周知していたでしょう。しかし、3,11、当時の防波堤(高さ、6,5m)は高さ14m
~15mの津波に襲われてしまった。
事故後、安全神話とか想定外とかいう、摩訶不思議な言葉で責任を回避、保身にはしる姿は
見苦しいですよね。唯一の被爆国であり放射能の怖さを知ってる日本人ですよね、東電の経営者は。
リスクマネージメント出来ない、資質のない、人間はTOPに立たない方が宜しいのでは。
 放射能による直接の死者はいないとか、人口の少ない福島だからよかったとか、放射能はコントロール
されているとか、政治家が言いましたが、この軽薄な言葉に世界はビックリしたでしょうね。
オリンピック誘致の議場でのコントロール発言に私はびっくりし、もうそれ以来信じられません。
独(メルケルさん)はこのウソから原発から手を引いたようです。

時系列で防波堤の高さをまとめると、
 (貞観10m)→5,7mで設計→6.5mの堤防高さ→試算(15.7m、採用せず)→3.11津波高さ
 14m~15mに襲われる
3.11後、新しく建てた防波堤高さ(4号機の南)
 12.8m(現在)→試算(15,3mの津波が来そう)→16mの防波堤に改修する
何か可笑しくありませんか?