日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

日の丸の話

2011年05月21日 | 日記

日の丸の話


今日は日の丸の話をします。



その前に、先日の「大槌町訪問」で伏字としていた地名は、伏字とせず実名を書き入れました。

このブログへアクセス戴き、拙文に目を通して戴いている方々は思いのほか多く、心から感謝申し上げます。





本論に入ります。



日本の日の丸の歴史は古く、近くは平家が屋島の合戦で使用した軍扇に描かれた日輪が著名です。

本稿では日本人の精神の源郷にまで遡ってみたいと思います。





古い文献に『翰苑(かんえん)』という書物があります。今でもそうだと思いますが大宰府天満宮が蔵し、国宝です。

残されているのは「蕃夷部」のみで、菅原道真公の何代目かの孫による写本です。原本はすでにありません。



コピーが手元にありますが、写本の主を特定した部分をコピーしていません。

知りたい人は「校定 解説 竹内理三 大宰府天満宮文化研究所 昭和52年」のもの(『翰苑』)を直接当たって下さい。





その中の「烏桓(うがん=部族の名前)」条に、

「穹廬寝息資拝日以訓恭 [穹廬(きゅうろ)に寝息し、日を拝するに資(よ)りて、以て恭を訓(おし)う]」という一文があります。

意味は、「テントに居住し、日を拝し恭を訓ず」とでもなりましょうか。(原文そのままです)。





彼等は、(中国・漢族にとっての)鬼神を敬い、天地・日月・星辰・山川を祠り、同様に大人の健名のある人を

祠りました。そして彼等はこれらを祠るとき、牛羊を用い、終わりにこれらをことごとく焼くという、

イスラエルの全焼の供犠に似た風習を持っていました。

彼等は武勇を貴びました。『翰苑』は「其の性、悍塞(かんさく)」と記しています。





彼等は何代かかけて日本に来、また何代かかかったと思われますが、邦を作りました。

その代表的な人物は素戔嗚尊(すさのうのみこと)です。『先代旧事本紀』は、素戔烏尊と「烏」の文字を使用しています。

素戔烏尊は、『備後風土記』で「蘇民将来」という逸話も残しています。

この話は、「救いの記し無きものは死す」というイスラエルの故事によく似ています。





ここらあたりの論考を今書きかけの原稿に書いています。

原稿は何年もかけているのですが、貧乏故進みません。

本を出したら読んでください。





話を飛ばします。

神武天皇は、日本で誕生された烏桓の血脈の人です。

神武天皇が東征の折に日輪=日の丸の旗を掲げられたという記録は、私の記憶ではどこにもありませんが、

その可能性と事実は大いに考えて良い所だと思います。





神武天皇の行軍旗を見て、熊野の高倉下(たかくらじ)といい、八咫(やた)の烏といい、天皇の出自を知り、

お味方に入ったと考える方が、歴史的には整合性を持つと考えられるのです。





何れにせよ、日本人が太陽を尊崇するという心は文献上では、烏桓にまでさかのぼることができます。





ここでは、烏桓以外の『魏志』 倭人伝が記す人々や、呉越の人々、神武天皇の東征以前に大和に入った人々、

更にそれ以前から大和に居た人々のことを記すことは出来ませんが、日本人は互いに混血しながら、日本人の

精神構造を作り上げて来ました。





その精神構造は、『魏志』 倭人伝が「その風俗淫ならず」と記している一文が典型的に示します。

また日本には、もののふとか武士道とか武門の誉といって、日本人の精神の在り方=規範を示す言葉があります。

日本人は自らの心の在り方=規範を日の丸に象徴させて来ました。





その昔、菅原一門が良く『翰苑』を写し、残しておいてくれたものだと思います。

 

 

 

 

 


               


                                     日の丸








               


                                      同






               

                                        同

 

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