10月2日の「女王国 2」で日本の女王国を建てた人々の移動のルートを書きました。
今日は、夫餘・高句麗・百済・新羅の人々について書いてみたいと思います。
A.夫餘・
范曄(はんよう)撰・『後漢書』 (『後漢書』には、南朝宋の范曄(398-445)の撰定したものと、『翰苑』が伝える魏の牧魏(生年不明)撰のものがあり、前者を范曄・『後漢書』と書きます)は、夫餘について次のように記します。
「夫餘国は玄菟の北千里に在り、 南は高句麗、 東は挹婁(ゆうろう)、西は鮮卑に接し、北に弱水(松花江)あり、地方二千里、本(もと)濊(わい)の地なり」。
また、夫餘の始祖・東明王には次のような出生伝説があります。(范曄・『後漢書』)
「初め、北夷の索離国の王が出行し、後に王の侍兒が懐妊した。王は還りて之を殺そうとしたところ、侍兒が言うには、『最初、天上に大きな雞子(鶏の卵)の如き有気が現れ、私に降りて来ました。それで、私は懐妊しました』。
王は侍兒を囚(とら)え、後に男子が生まれた。王はこの子を豕牢へ置くよう命じたところ、豕が気嘘(呼気=生気)を与え、死ななかった。また、馬蘭(厩舎)に徒(うつ)すと、馬が気嘘(呼気=生気)を与え、死ななかった。王は以って神と為し、母に養育させた。名を東明と云う。
東明は長じて弓を善くし、王はその猛を忌み、殺そうとした。東明は南へ奔走し掩嗁水(えんていすい)に至って、水を弓で撃った。魚と鼈(すっぽん)が皆水上に聚まった。東明は之に乗って渡ることができ、夫餘に至って王となった」。
B.高句麗
『翰苑』は魏の牧魏の『後漢書』曰くとして、「高句麗は夫餘より出づ」と書きます。
そして、始祖・朱蒙は夫餘で河伯の母から卵生し、烏引(ういん)・烏違(うい・読み下し文は「いい」と読んでいます)と共に東南に下り、高句麗を建てます。(『翰苑』)
高句麗は夫餘とは違った始祖伝説を持つということは、夫餘とは異なるという主張とアイデンティティを持っていたようです。
C.百済
『梁書』に云います。
「その国は本、句麗と遼東の東に在り、晋の世、句麗が遼東を侵略し、百済も遼西に拠った。晋平二郡の地である。そして自ら百済郡を置いた」。
「晋の太元年間(西暦376-396年)の王須、義熙年間(西暦405-418年)の王餘映、宋の元嘉年間(西暦424-453年)の王餘毗(ひ)が、それぞれ生口を献じた」。
「斉の永明年間(西暦483-493年)に、太都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王に除し、(梁)の天監元年(西暦502年)に太号征東将軍に進む」。
「(しかし)、高句麗が百済を破る所と為り、衰弱は累年に及び、南韓に遷居す」。
「倭に近く頗る文身の者が多い。今の言葉や服章は概ね高句麗と同じである」。
「言は夏や秦を参考にでき、韓の遺俗という」。
『周書』は、百済の王姓は扶余であることを伝えています。
D.その後
夫餘は国力が衰え滅亡し、百済は西暦660年に、高句麗は668年に、新羅・唐連合軍に撃破され国を閉じます。
朝鮮半島からは日本へ多くの人々が渡来しました。
神武朝成立以来、『記・紀』が述べている主要な一族だけでも、新羅の天日鉾、百済の弓月の君と百二十県の人々(秦一族)、漢の阿知使主(あちのおみ)とその十七県の党類(ともがら)があります。
E.新羅
日本で女王国を建てた人々と、古来の新羅人(びと)とは同族であると言えます。
これについては、別の機会に書きます。
柿