あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

『上北山村の歴史』から北山宮のお墓をさぐる

2010-10-12 22:15:57 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                

                          写真:朝拝式が行われていた川上村「御座ぐら」(ござぐら)

 

 

う~む、またまた二週間もあいてしまいました。あいよっこが関わっている「なら犯罪被害者支援センター」の機関誌「ハートニュースVol.10」の作成で、締め切りに追われていました。 

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また同センターのブログ「ハートさんの活動だより」にも関わっているのですが、ブログには機関誌より詳しい情報やタイムリーなニュースを載せることができます。被害者支援に関心のあるかた、情報が欲しい方はアクセスしてみてくださいね。そしてブログには「成果物」として「同センター事業報告」「ハートニュースのバックナンバー」その他も置いています。(ここまで日記)

 

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前回、多くの史料に名前が出てくる「北山郷」の場所がどこであったのかが問題、と書きました。<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』(昭和39年、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>役場発行)を再び開いてみます。書いているうちにたくさんの分量になってしまったので、今日と明日の2日間にわけます。

 

 

<o:p></o:p> 

「康富記」の文安元年8月6日の記事にはじめて「北山」の名が現れていますが、「吉野奥が紀伊国内」だと言ってみたり、「北山・南山トテ両所アリ」とも言っています。つまり「北山」は熊野側から見た名前であり、京都からみれば南方の大和の紀州の間にある山地をばくぜんと意味していたようなのです。<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>においても自らを「北山」とは称せず、「神河三村あるいは三村」と呼んでいたようです。

 

 

写真上:川上村烏川神社

 

<o:p></o:p> 

その後「・・・『上月記』にいう一ノ宮の北山の御座所とは何処であろうか。これは寺伝なり、残された資料について見るならば小橡の滝川寺以外には考えられない」とも言っています。

 

 

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<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』では、このように「当時の人々の地理的認識から考えて、確定ができない」と書いてはいても、その後「・・・は確かだ」とか「そうとしか考えられない」という文が続いていることが多いようです。

 

 

写真右:川上村金剛寺の「河野宮墓」

 

 

 

個人的な印象としては「伝承・伝説を確認・分析することは不可能」としながらも一方で「それは確かだ」「それとしか考えられない」という結果が続くのは、ちょっと合理性や整合性には欠けると感じてしまいます。おそらくさまざまな資料から確かなこと、と言えるのかもしれないですが・・・。 

 

 

<o:p></o:p> 

   だけど滝川寺の霊室に北山宮の位牌を収めた厨子があり、位牌の表には菊花紋を飾り 

(表) 当山開基南帝王一宮自天勝公生聖仏<o:p></o:p>

(裏) 康正三丁北十二月 滝川四世泰岸改之<o:p></o:p>

と書いてあるそうで、製作時代や信憑性は問題ですが、これは証拠となるのかな? 

 

 

 

いずれにしてもあいよっこには旧カナ使い文章はしっかり読むことも正しい理解も難しいのです。ざんね~ん。

明日に続く 

 

写真:川上村は標高が高いので霧も発生しやすい 

 

 

 

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村人たちがこれほど大切に守ってきたのだから

2010-09-30 03:23:50 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                    写真:稜線が美しい。夕焼けがもっと空一杯だったらなあ。         

 

 猛暑が終焉を迎えて、秋風がこれほど嬉しい年も珍しいです。だけど「後南朝の舞台巡り」が、とうとう夏を越してしまいました。これではいか~~ん!もっとスピードアップしなければっ。自分でも前回の続きを忘れてしまい、いざ書こうとすると、資料やら、書籍やら、ひっくりかえす、めくる、次々とめくる、めくるめく(関係ない?)、ありさまなのです。

 

<o:p></o:p>

 それというのも、はまればはまるほど、「あれも書かなければ、これも説明しなければ・・・」という気持ちになり、挙句の果てに進まない、というジレンマをかかえることに。そんなときはシンプルに行こう!

 

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<o:p>写真:上北山村の「北山宮」は一宮をお祀り</o:p>

<o:p></o:p> 

 <o:p></o:p>

事の発端を思い起こしてみると「明治152月に当時の宮内省は『金剛寺のお墓を自天王の墓』と公認し、そのときに『自天王碑』が建立されました。ところが明治45年に行われた改定で、ここのお墓は『河野宮』、つまり弟忠義王のお墓であり、自天王の墓は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>瀧川寺にあるお墓とされた」ことでした。

 

 

<o:p></o:p> 

 宮内省は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の度重なる陳情に対しては「あくまでいったん勅裁をあおいで御治定なったものを変更できないとして却下した。(中略)」とありますが、ではそれ以前の公認を変更したのはなぜ? という疑問を抱きます。

 

写真右:前に清流、後ろは険しい山に抱かれた「瀧川寺」

 

<o:p></o:p> 

 そこにはよほど確かな証拠か、文献か、遺品のたぐいが存在したからこそ、変更されたと見るのが妥当です。それはどんなものだったのでしょうか?

 

 

<o:p></o:p> 

それを知りたいと思って<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>小橡(ことち)にある北山宮(きたやまぐう:兄の自天王をお祀りする神社)とさらにその先にある瀧川寺(りゅうせんじ)に行きました。

 

 

<o:p>写真下:入り口に「宮内庁 北山宮墓」</o:p>

<o:p></o:p> 

 瀧川寺の本堂左横を少しあがったところにある石塔が「北山宮御陵」で、開放的で新しいお墓という感じです。反対に<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の「河野陵」は外からは全く見ることができません。中に入ると積み重なった歴史や人々の思い、といったものが伝わってくるお墓でした。

 

 

<o:p></o:p> 

つまりあいよっこの個人的な印象でいえば、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の伝承のほうに軍配を上げたい気持ちです。「村人たちがこれほど大切に守ってきたのだから、そっとしてあげたら良かったのに・・・」

 

 

<o:p></o:p> 

でも<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』(昭和39年、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>役場発行)にはこう書いてあります。「後南朝にまつわる伝承と史実はこれを完全に分析することは不可能な状態になっている」としながらも(「上月記」や「赤松記」によって)「長禄元年の頃、吉野の奥深く、兄弟の後南朝に因む(ちなむ)両宮が潜まれ、伯母峰(おぼみね)を境にして、一宮は北山郷の小瀬に、二宮は川上郷河野谷に居られ、神璽(しんじ:天皇を表す象徴)は一宮によって奉ぜられ、郷民に守護せられ、南朝回復の計をめぐらしておられたことは疑うことのできない事実である」としています。

 

 

写真右:開放的で比較的新しい感じです

 

<o:p></o:p> 

この「北山郷」がどこであったのか、が御陵の問題と深くかかわってくるのです。また三種の神器のひとつである「神璽(しんじ)」がとても重要なものであったことは後でお話します。<o:p></o:p>

コメント (2)
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どなたが眠っているのかが大問題に

2010-09-11 02:01:15 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

 

                            写真:川上村 御舟の滝は冬季、氷の滝に            

                     

 

   さてさて道草をしているうちに、本筋を忘れてしまいそうになります。「<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県川上村;" Address="奈良県川上村">奈良県川上村</st1:MSNCTYST>および<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>に残る、後南朝の遺跡と伝説」に戻ります。特に問題となっているのは、「後南朝後胤の親王墓」でした。

 

 

 写真:金剛寺左上にある「河野宮墓」(伝 自天親王陵)に入る際にはきちんと禊を

 

<o:p></o:p> 

ところで天皇さまのお墓についてウィキペディアで調べてみると、宮内庁の区分では、「天皇・皇后・太皇太后(たいこうたいごう:以前皇后だった宮)・皇太后妃のものを『陵(みささぎ・りょう)』(御陵ともいいます)、それ以外の皇太子や親王など皇族のものを『墓(はか・ぼ)』と呼んでいます。

 

<o:p></o:p> 

このほかに、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、髪・歯・爪などを納めた「髪歯爪塔」などの「供養塔」、また被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が高い「陵墓参考地」などがあり、一般にこれらを総称して「陵墓(りょうぼ)」といいます。

 

 

写真右:金剛寺左の階段を登ると「河野宮墓」(伝 自天親王陵)

 

<o:p></o:p> 

ちなみに陵墓に指定されている古墳のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は31基であり、天皇、皇后、皇子名を合葬したものを差し引くと合計65基あるようです。やはり圧倒的に奈良県と京都府に多いです。

 

<o:p></o:p> 

しかしその土地の人たちの意識や呼び方は、宮内庁に準じているわけではありません。大切に守ってきた人のお墓は、天皇であろうとなかろうと「帝王さま」であり「御陵」であるのです。ここでは伝わっている呼び名で紹介します。

 

<o:p></o:p> 

<o:p>写真左:高原地区の「南帝王(なんておう)の森」にある「陵墓参考地」入り口。地元では「忠義王(ただよしおう)墓」と伝わる</o:p>

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

前々回に書いたように、『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』(伊藤 獨、檜書店、昭和47)によると、「明治45129日に告示発表された宮内庁の『治定』は、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民にとって晴天の霹靂(せいてんのへきれき)」でありました。

 

<o:p></o:p> 

<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民、特に「朝拝式」を550年以上の長きにわたって執り行い、二人の親王をお祀りしてきた筋目衆(すじめしゅう)にとって、2つの墓の改称はとても受け入れられるものではありません。

 

 

写真右:高原地区の「南帝王(なんておう)の森」は歴史を感じます

 

<o:p></o:p> 

その後の驚天動地(きょうてんどうち:大いに世間を驚かす)※書きながら「えーと、どっちだったかなあ?と調べてみると「驚地動天」でも同じ意味で使えるのだそう。「どうっちでもいいですかあ~?」(どうも横道にそれる)について『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』では次のように書いています。

 

<o:p></o:p> 

 「この告示は、村民とは何の交渉もなしに達せられたので、村長の狼狽、村民の驚愕は名状すべからざるものあり、(中略)・・・・陳情書を携えて上京したが、宮内省は「あくまでいったん勅裁をあおいで御治定なったものを変更できないとして却下した。(中略)」このように何度も大陳情団を結成して上京するのです。

 

<o:p></o:p> 

 両村の過熱・過激ぶりを見かねた宮内省は「明治4557日の御沙汰による妥協案」を提示します。

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

【<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県吉野郡かわかみ村;" Address="奈良県吉野郡かわかみ村">奈良県吉野郡かわかみ村</st1:MSNCTYST><o:p></o:p>

1金 五千円<o:p></o:p>

右、多年尊秀王ノ為メ祭祀奉修ノ段奇特ニ付下賜事<o:p></o:p>

大正5729日 宮内省】

 

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

村民はこの処置に満足したわけではなかったが、ご沙汰書に「尊秀王ノ為メ」とあることによって、せめて心を慰めお墓所改称運動の矛を納め、御下賜金五千円也はそのまま<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>に蓄積せられた。・・・後略」

 

写真:はすの花が満開でした

<o:p></o:p> 

 宮内省はつまり、お金で問題解決をはかろうとしたわけです。そして5千円は村の金庫に納まったようですが、いったいそれは当時どのくらいの額だったのでしょう?
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村民にとってはまさに晴天の霹靂!

2010-08-14 19:07:23 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                  写真:河野宮に登る階段から見る金剛寺の屋根

 

後南朝ゆかりの場所のうち、金剛寺は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>で最も重要で有名な史跡です。大迫ダムの北にある大平橋を渡り細い山道を登るので、山奥に分け入った雰囲気ですが、お寺からの前景は見晴らしが良いことに驚きます。

 

 

<o:p></o:p>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真左:妹背山金剛寺は修験道と深いつながりがあります   

写真右:毎年2月5日、自天王の命日に「朝拝式」が執り行われます

 

 

 

<o:p></o:p>本尊「地蔵菩薩像」は、「修験道の開祖である役業者が彫り、大峯山からここに投げた」と伝わる「投げ地蔵」で、それもなるほどと思えるロケーションなのです。寺伝では1336年に後醍醐天皇より「金剛寺」という寺号を賜ったとされます。

 

<o:p></o:p> 

 

写真:金剛寺にあるけやきの大木。

   推定樹齢800年といわれ、高所の境内にあるために

   永年の風雪や雷などで痛んでいますが、青々として

   います。

 

 

金剛寺の右側には「朝拝式を執り行うための社務所」、そして自天王の遺品である甲冑、刀剣などが納められている「宝物庫」が続き、一番奥に自天王をお祀りする「自天王神社」が鎮座しています。

 

<o:p></o:p> 

そして本堂の左側には大きな石碑「自天王碑」があり、たくさんの文字が刻まれています。さらに御陵の手前には「南帝自天皇陵」の石碑もあるのですが、御陵の柵の入り口には「宮内庁 河野宮墓」と掲げられているのです。

 

<o:p></o:p> 

 

 

 

自天王とは「兄・尊秀(たかひで)王」あるいは「一ノ宮・北山宮」と称され、「河野宮」は「弟・忠義(ただよし)王」で「二ノ宮」などとも呼ばれます。事情がわからないと「いったいどっち?」と思ってしまいます。<o:p></o:p>

 

 

写真:河野宮墓周辺には「長禄の変の際に両王とともに

命を落とした人たちの墓」も。

 

<o:p></o:p> 

明治152月に当時の宮内省は「金剛寺のお墓を自天王の墓」と公認し、そのときに「自天王碑」が建立されました。ところが明治45年に行われた改定で、ここのお墓は「河野宮」、つまり弟忠義王のお墓であり、自天王の墓は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>瀧川寺にあるお墓とされたのです。

 

 

 

   そのあたりの事情を『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』(伊藤 獨、檜書店、昭和47)では次のように説明しています。「・・・明治45129日に至り、宮内省は突如として次の告示を発表した。

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

【宮内省告示第壱号<o:p></o:p>

恒性皇子墓 後醍醐天皇皇子<o:p></o:p>

 富山県射水郡二塚村大字二塚<o:p></o:p>

北山宮墓 後亀山天皇玄孫<o:p></o:p>

 <st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県吉野郡上北山村大字小橡&#13;;" Address="奈良県吉野郡上北山村大字小橡&#13;">奈良県吉野郡上北山村大字小橡<o:p></o:p></st1:MSNCTYST>

河野宮墓 後亀山天皇玄孫<o:p></o:p>

 奈良県吉野郡川上村大字神之谷】

 

 

<o:p> 写真:墓前で吟じるガイドのMさん</o:p>

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

<o:p></o:p> 

<o:p></o:p> 

  「この北山、河野両宮の御墓の治定については川上村は宮内省より事前になんらの内示も受けていなかったので、この告示の発表は村民にとってまったく晴天の霹靂(せいてんのへきれき)であった」

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続きは近日中に。<o:p></o:p>

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謎が謎を呼び、ロマンをかきたてられる物語

2010-08-04 23:00:16 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                      写真:背景の山と重なる「後南朝最後の古戦場」の石碑

 

  「後南朝の歴史は未知の部分が多くてややこしい」のは事実ですが、だからこそ謎が謎を呼び、ロマンをかきたてられるのでしょう。後南朝に魅せられる研究者や文学者、さらにファンやマニアが多いことを知りました。ここでは<st1:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">川上村</st1:MSNCTYST>の史料・遺跡・言い伝えなどを中心に紹介します。 

 

 

<o:p></o:p> 

 国道169号線を南下して寺尾地区に入ると、道路わきにりっぱな石碑が二基建っています。向って右側が「御首載石(みくびのせいわ)」跡碑で、左側の山型石碑が「後南朝最後の古戦場」碑です。

 

 

<o:p>写真:滝川政次郎氏の力強い揮毫による</o:p>

<o:p>  「御首載石」跡碑</o:p>

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 大滝ダムができる前、道路はもっと川面近くの下方にあり、ちょうどこの下の河原に「御首載石」と伝わる大石があったそうです。しかし残念ながら昭和34年の伊勢湾台風で流されてしまいました。

 

 

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「御首」って、いったい誰の?「載石」って、なんのために首を載せるの?といった疑問が脳裏をよぎります。その答えを一言でいえば「後南朝最後の天皇、自天王さまの御首」(弟・忠義王の首との説もある)であり、「赤松一族の残党に殺され、雪の中に埋められていた御首を取り戻し、供養するために載せた石」ということになります。

 

 

写真右:朝日館の「郷土料理のお弁当」

 

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長禄元年(145712月に起きたこの「長禄の変(ちょうろくのへん)」は、後南朝史にあって最も痛ましく、南朝から後南朝へと続く後醍醐天皇末裔の終焉を告げる事件でした。

 

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  写真:自天王御製の歌を書いた滝川政次郎の書

 

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さてお楽しみの昼食は、柏木地区にある大正年間創業の「朝日館」でいただく「郷土料理のお弁当」です。材料はすべてこの地域産で、山菜や鮎料理、そして手作り「ゆず羊羹」のデザートも美味しかったです。

 

<o:p></o:p> 

ここは大峯山への登山口でもあり老舗旅館が並びます。古くから「朝日が昇る方角からの登山が霊験あらたか」とされましたが、登山客の減少で寂しくなっているのが現実です。

 

 

 

写真右:

大西源一の書 

 

 

 

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朝日館そのものは後南朝史と直接の関係はありませんが、戦前にはお忍びで朝拝式に参列した「勅使」が宿泊したと伝わる「南朝の間」が現在もお宿として使われています。

 

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そしておかみさんが貴重な色紙を見せてくださいました。南朝研究で有名な滝川政次郎氏や大西源一らの名前をも見えます。近くには「吉野葛」を著した谷崎潤一郎が泊まったお宿(写真左)もあり、古くから著名な人たちを惹き付け人々が訪れた場所だったのです。<o:p></o:p>

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