転んだからには起き上がれ

最近はタイトルから外れたブログになりつつあります・・・でも、好きな言葉なのでそのまま残しておこうかと・・・w

勘違いされることもあります

2006-01-20 01:27:38 | 介護
引き続きターミナルケアのお客様のお宅へ伺う。
なんか部屋全体の空気が違っている事に気が付いたのは入って間もなくでした。
何でだろうと考えながら玄関先で挨拶をするが、それより先に奥様より先日より明らかにレベルが上がってる事を伝えられました。

奥様の話によると言われた通りに本人に動いてもらうようにしたとの事。
お礼を言われたがヘルパーなら当然のことでみんなできますよと話をする。
それの効果か奥様の表情も明るくなっていた。
これが全体が明るくなった原因であり、この時こそヘルパーとしての祝福のときだと感じましたね。

以前より多く言葉を発するとの言葉もいただき、室内に上げてもらうとすぐにお客様のベッドの横に行きあいさつをすると、ニコニコとし笑顔で「こんにちわ」と答えてくれました。
正直オイラもびっくりしました。

その後、車椅子に移動するか否かを問うと、座りたいとの事だったので手は貸さずよろけた時にすぐに支えになれるように手を体に触れるか触れないかで添える。
オイラはいつもそうなのだが、手を触れてしまうことで安心感は与えることができるだろうが、自立の気持ちをそいでしまうような気がするので触れることは極力控えてます。

声掛けで移動するときのヒントを与え考えてもらうようにしています。
もちろん時と場合によりますけど。
でもこれはお金を払うお客様の親族からすれば冷たいと感じることもあるようです。

以前病院でこんなことがありました。
待ち時間が長くケアしているお客様が座っている事に疲れたとの訴えがあり、背もたれの無い長いすに横になってもらおうとしました。
もちろんお客様もオイラのケアの仕方は知っているので手を直接触れないことは承知でした。

さっきも書いたように声掛けしながら本人の考えで手を着く場所を考え移乗している最中でした。
近くに居たおばさんがいきなり「何でそんな意地悪してるの!」とえらい剣幕で言葉を荒げ突っかかってきた。
これがまたタイミング悪くその声にお客様もびっくりしてカクッと膝が抜け倒れそうにるがすぐに支え事なきを得ました。

それを見て「ほら見てみなさい!」と、付け加えて食って掛かってきました。
とりあえずお客様に座っていただき、おばちゃんを無視してるとスタスタと居なくなったかと思うと看護婦を呼んできた・・・
まったく事を荒立てないと気がすまないらしい。

一緒に来たと同時におばちゃんはさっき以上に声を荒立てて看護婦にさっきの事を話しているのだが、こんな人は案の定事を大げさに話すんだよね。
看護婦もちょっと困惑気味でオイラに事情を聞くのだが話してる途中でも口を挟んでくる。
さすがにオイラも切れて「あんたはこのお客様の事のなにを知ってますか?」続けて「ここに居るお客様がどのような状態で、どんなケアを必要とし、そのケアの仕方によって上がることと上がらないことがあることを知ってますか?」と聞いてみた。

おばちゃんは「でも支えてあげたりしてあげる事があんたの仕事でしょ」というので「違います」ときっぱり切り捨て「自立支援が目的でできることを伸ばすことがわれわれの仕事です」と答えました。
看護婦も「ヘルパーさんはいろいろ考えてケアしてるんですから無理なことは言ってはいけないですよ」とおばちゃんを正すが頑として聞かない。

仕方ないので看護婦に処置室とか横になれる場所はないですか?
とたずねその場を離れることにした。

とまぁ、長くなってしまったがこんな事もあった。
この場合は親族ではないが見ていると冷たいと感じる例にはいいかと思って書きました。
手を出さず触れるか触れないかで身構えていることは触れて移動を手伝う事より疲れるのです。
神経も使うし動きの先を読みながら自分の手の置き場を考えふらついた時でも瞬時に支えることができるようにしなくてはならないんですから。。。

こんな事でできなかった事ができるようになったり笑顔を見せてくれたりしてもらえたらそれは自分への励みにもなるし、今回のお客様の家族のように喜んでくれる事は本当に嬉しいもんです。

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2 コメント

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なるほど (ザッキー)
2006-01-20 22:58:14
またまた経験が無いので、想像でしかコメントできませんが。



でも、なんとなくわかります。

私の場合は、肉体的な自立よりも精神的な自立を扱う場面が多いもので・・・。



「見守る」ことをしているのは、見る人が見れば、すぐにわかることなんでしょうけどね。

私は、子どもから「意地悪」とか「つめたい」とか言われることもしばしばです。

ま、でも、本気で言ってるのではないことも伝わってますけどね。



日本に来て間もない子どもに、日本語の特別メニューをさせるのは悪くないと思います。

実際にしています。でも、これ、できるかな的な場面でも、他の子どもと同じように扱うことも良くあります。



そんなとき「先生なのにつめたい」と、真面目な子やできる子、優しい子ら、いわゆる「正統派」から言われます。



言語は必要性を感じないと伸びないと思います。話したい、分かりたい思いが強ければついだけ、語学の習得は確実になっていくと思います。



抽象的で分かりにくいとは思いますが・・・。

まぁ、そんなところです。

思いつくまま書いてみました。



しかし、いつでも支えられるようにしておく筋肉の緊張具合、瞬発性・・・わかるような気がします。

幼児との風呂やプールで、そんなことがありました。

でも、相手が成人男性となると、もっと緊張度合いが異なるのでしょうね。
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必要性 (cohiba_2005)
2006-01-20 23:22:11
言語の必要性については分かります。

オイラもタイに単独で行きペットルートを掴むべく右往左往しました。



最初は本を片手にだったのですが、いちいち本を見ながら話していたのでは話になりませんでした。

ましてや生き物に関する言葉は本などには掲載されていないため「人の話を聞いて覚える」と言う方法でしか覚えることはできませんでした。



たぶん話しができる人と一緒だったと考えると簡単な日常の会話さえもできなかったことでしょう。

気が付けばタイの方々と値段交渉をし冗談を言い合えるようになったのです。



しかし悲しいかな行かなくなってからは言葉も出てきません(w

これも必要としなくなったと脳が判断し引き出しの奥にしまい込んでしまったのでしょう。



そして本当に必要と感じなければ消去していくのかな・・・
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