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あなたのそばに一冊の詩集を
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唯物論の勝利とK.マルクスの敗北
2015/01/07 水曜日
唯物論とはF.エンゲルスが「フォイエルバッハ論」で定義しているように人間の意識・観念は脳髄の所産であるという原則を認める哲学上の概念にすぎない。それ以外の言葉の用法をエンゲルスもマルクスも認めていない。
なるほど唯物論は日々勝利している。人間は生きものなのだ。昨晩妻が仕事から帰って話したのだが元旦早々悲劇があったらしい。妻の勤める自動車屋の客で知り合いの34歳の看護師が元旦に出産して子は生まれたが本人は息絶えたらしい。一月一日が誕生日で母親の命日となったらしい。子の行く末を想うと暗澹とするが人間は生きものつまり個体として死んで行くのだ。
フォイエルバッハ論でエンゲルスはプリンの味は食べてみればわかると言っているがプリンを食べずともだれか気に入らない奴の顔面でも殴り倒せば唯物論の勝利はわかる。相手の顔面をとらえた拳は相手の痛みはわからなくともこっちの拳も痛いのだ。その痛みこそは唯物論の勝利だ。
マルクスは青年時代の論考「ユダヤ人問題によせて」(独仏年誌)で人間の解放の前に政治的解放が必要なことを訴えたが「ラデイカルとは人間のことである」と書いている。人間にとって根源とは人間自身のことである。ということだ。マルクスは人間を万物の霊長と考えたのか考えられるすべての価値の最上位に人間という概念を置いた。
ところが19世紀ダーウインの進化論が人口に膾炙して人間の起源に人々の考察が集まった。人間は自然界の一部として進化をとげてきた猿にすぎない。ニーチェは「人間はいかなる意味でもいまだ猿中の猿である」とツアラストラで書いた。
ニーチェとドストエフスキーは進化論を人間の起源だけではなく人間の未来へ適用した。ニーチェの永劫回帰あるいは権力への意志とは人間の進化を著したものだ。ドストエフスキーは悪霊のなかで「人間は悪魔か天使になるのでしょう」と預言する。
K.マルクスは不徹底だったのだ。ロシアマルクス主義スターリニズムの教科書をひもとけば、人間はこれ以上進化の必要のない最高の存在と規定されている。ところが数万年もすれば人間の存在する限り生殖を重ねて人間は退化するか進化するか地球環境の変化の元で変わって行くのだ。滅ぶことだって十分可能性としてあるのだ。
埴谷雄高は血と肉のないドストエフスキーと自身の文学を規定したが、その宇宙論的視野でコミュニズムの問題は問題の一部分となって何万年何千年の時空を経て「のっぺらぼう」つまり異次元の知的生命体を臨み見る。現在の物理学では超ひも理論と膜宇宙論のDブレーンの存在の検証へと考察は進む。Dブレーンの双方に重力はこぼれ落ちている。
真の勝利には痛みが、真の敗北にはチャンスがある。はたしてK.マルクスは真に敗北したと言えるのだろうか。人間はただの生きものであり個体として滅ぶ。交通事故にでも遭えば人は車の下敷きとなって死ぬ。その死を見れば唯物論の勝利は完全だ。その勝利には痛みがある。だがマルクスにはチャンスが訪れない。真に敗北していないのだ。
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詩人の部屋
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なるほど唯物論は日々勝利している。人間は生きものなのだ。昨晩妻が仕事から帰って話したのだが元旦早々悲劇があったらしい。妻の勤める自動車屋の客で知り合いの34歳の看護師が元旦に出産して子は生まれたが本人は息絶えたらしい。一月一日が誕生日で母親の命日となったらしい。子の行く末を想うと暗澹とするが人間は生きものつまり個体として死んで行くのだ。
フォイエルバッハ論でエンゲルスはプリンの味は食べてみればわかると言っているがプリンを食べずともだれか気に入らない奴の顔面でも殴り倒せば唯物論の勝利はわかる。相手の顔面をとらえた拳は相手の痛みはわからなくともこっちの拳も痛いのだ。その痛みこそは唯物論の勝利だ。
マルクスは青年時代の論考「ユダヤ人問題によせて」(独仏年誌)で人間の解放の前に政治的解放が必要なことを訴えたが「ラデイカルとは人間のことである」と書いている。人間にとって根源とは人間自身のことである。ということだ。マルクスは人間を万物の霊長と考えたのか考えられるすべての価値の最上位に人間という概念を置いた。
ところが19世紀ダーウインの進化論が人口に膾炙して人間の起源に人々の考察が集まった。人間は自然界の一部として進化をとげてきた猿にすぎない。ニーチェは「人間はいかなる意味でもいまだ猿中の猿である」とツアラストラで書いた。
ニーチェとドストエフスキーは進化論を人間の起源だけではなく人間の未来へ適用した。ニーチェの永劫回帰あるいは権力への意志とは人間の進化を著したものだ。ドストエフスキーは悪霊のなかで「人間は悪魔か天使になるのでしょう」と預言する。
K.マルクスは不徹底だったのだ。ロシアマルクス主義スターリニズムの教科書をひもとけば、人間はこれ以上進化の必要のない最高の存在と規定されている。ところが数万年もすれば人間の存在する限り生殖を重ねて人間は退化するか進化するか地球環境の変化の元で変わって行くのだ。滅ぶことだって十分可能性としてあるのだ。
埴谷雄高は血と肉のないドストエフスキーと自身の文学を規定したが、その宇宙論的視野でコミュニズムの問題は問題の一部分となって何万年何千年の時空を経て「のっぺらぼう」つまり異次元の知的生命体を臨み見る。現在の物理学では超ひも理論と膜宇宙論のDブレーンの存在の検証へと考察は進む。Dブレーンの双方に重力はこぼれ落ちている。
真の勝利には痛みが、真の敗北にはチャンスがある。はたしてK.マルクスは真に敗北したと言えるのだろうか。人間はただの生きものであり個体として滅ぶ。交通事故にでも遭えば人は車の下敷きとなって死ぬ。その死を見れば唯物論の勝利は完全だ。その勝利には痛みがある。だがマルクスにはチャンスが訪れない。真に敗北していないのだ。
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