進藤龍也牧師の真面目な方のブログ

元ヤクザの牧師の真面目なブログ
進藤語録、進藤節・・・メッセージや独り言をつづります。

教会におけるアカウンタビリティー

2013年08月21日 | 日記
アカウンタビリティー(説明責任)ってなに?
アカウンタビリティ
【英】:Accountability
アカウンタビリティとはもともとは会計上の用語であり、企業が資金提供者である株主に対して会社の経営状況を説明すること。またそうする義務の事を指していた。
今日では、組織または個人が自己の言動や方針・経過などについて説明すること。また説明する責任のことを意味するようになった。
アカウンタビリティには、「結果に対する責任」と「説明する責任」の二つの責任の意味合いが含まれる。
まず、「結果に対する責任」とは自己の役割を全うし、求められた結果を出すことをいう。
一方、「説明する責任」とは他者から求められた情報を十分に開示し、結果に至った理由を説明することをいう。
人事の世界では、成果主義の導入に伴い個人の役割・職務などが明確にされるにしたがって、個人に与えられた役割や職務を全うする責任。またそのために自己が取った言動を説明する義務として使われている。なお、独立行政法人国立国語研究所の言い換え提案では「説明責任」とされている(2004年中間発表)。  辞書より

たとえ説明をしたとしても、受け手である人が、その説明に対して理解し納得しなければ説明そのものが意味をなくすわけであるから、この場合にはアカウンタビリティを果たしたとは言えない。当たり前のことであるが、この辺の認識が欠けているようである。
このことから、アカウンタビリティとは、受け手の理解と納得の得られる説明責任ということになるが、しかるべき立場にある人に対しては、その責任の重要性から説明だけにとどまらずもっと広い意味で捉えられるようになってきている。
リーダーとして「アカウンタビリティ」を果たすということは、結果の説明にとどまらず、結果に対する内外の評価を得て、将来のビジョンを示し、組織成果を生み出すためにどの様に行動するのかについて説明する責任までをいうようになってきているのである。松(本信治さんのブログより)

教会での説明責任、アカウンタビリティーも同様である。
牧師と副牧師、牧師と伝道師、牧師とリーダー、牧師と会計、牧師と信徒、リーダーと信徒。

スモールグループにおいての関係も同じ。
このことは信仰において多いに役立つ。明るみに出して行くこと。
隠れた行い、隠れた心を神様は悲しみます。

自分自身が清く保つために、罪を言い表して清めていただくために(第一ヨハネ1:9)
責められ裁かれるためではなく、むしろ癒されるためにです。ここが企業と違うところです。
そして人は罪が赦されないと元気が出ません。しかし育ってきた環境で言い訳したり、恐れて隠してしまうのです。そこには平安がありません。このことをして行くのが教会アカウンタビリティーです。

自分の教会に不平不満を持ってやってくる他教会の信徒に進藤が一緒になって悪口をいって
「だったらうちに来なさい」と、いっているでしょうか?もちろん受け止めてから、題解決に向けて!本人のメンタル的問題を指摘しつつ私がアドバイスをしているのを皆さんご存知です。
問題に対して不平不満を吐いて回るだけで解決に向かわない人を私は哀れにおもいます。だからアドバイスするのです。赦せ!和解せよ!これが聖書の命令です。この導きがまさにアカウンタビリティーです。教会に対してだけでなく個人的にも不平不満を聞いたときに、問題解決に向けて導き祈ることができるように教会全体が成らなければ成りません。まずはリーダーが良い模範を。

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