進藤龍也牧師の真面目な方のブログ

元ヤクザの牧師の真面目なブログ
進藤語録、進藤節・・・メッセージや独り言をつづります。

真実の10分の1献金

2011年11月01日 | 信仰メモ
今週の祝大マタイ23章マタイの福音書23章23節

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。


旧約聖書の戦争は、古代の偶像との戦い、霊的な戦いとして私は読んでいますが新約聖書はまさに救いの完成の書。しかし救いの完成に至るまでの主イエスキリストの戦いが記録されています。その戦いとは

1、偽善(偽善者)との戦い。霊的な戦いです。
2、不信仰との戦い。これは忍耐です。

では、なかろうかと思うのです。この23章はまさに堕落した宗教指導者をばっさり斬っています。私はよく、十分の一献金はいやいやでも捧げれば祝福されるよ。だって霊的法則、神の約束だもん。と、言います。が、しかし、正義と憐れみと誠実のある信仰者であることが前提の話です。これこそが人として信仰者としてあるべき姿であって本質、実態であるべきです。それが欠けて献金しても神は喜ばれないでしょう。また逆を言えば、正義と哀れみと誠実のある信仰者であるのなら、しっかりと十分の一献金をして神へ、教会へ、隣人へ忠実を示して神に喜ばれたいと思います。

またこれは神がお決めになった制度でもあります。神のために働くレビ族の為に他部族が10分の1をレビに捧げた。そのレビは祭司の為に、そのまた10分の1を捧げ、祭司はそのまた10分の1を大祭司に捧げて経済が成り立っていた。今で言う信仰入りの税金のようなものでしょうか。裏を返せば、古代の人は(責任感があれば)十一献金をおろそかにすると言うことは心がい痛いということです。

十一献金ができないと言うことで裁くのも愚の骨頂です。信仰を持って喜んでできるようになれるよう成長を祈るべきです。そして私の証ですが十一献金ができるようにと出所後、仕事ができるように祈り、どんな薄給でも欠かさずしてきました。そして多くの祝福の中で生かされています。皆さんとの関係も祝福の一つです。生涯の楽しみでもあります。捧げられる喜び。献金がレプタしかできなかった時から、祈りがかなえられたのです。これからも忠実に私はしていきます。しかし、だれをも裁きません。異言と同じで人を見下したら元も子もなくなり、テキストのパリサイ人になってしまいます。