開拓患者 加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P82~P84抜粋
国立のハンセン病療養所を建設するにあたっては、光田園長自ら適地を求めて沖縄の西表島から台湾まで探し回ったようです。家族との面会も困難な遠隔地を求めたのですが、予算的に無理でした。瀬戸内海の長島は官有林が多く、僅かにいた島民が田地の耕作をしていました。それを国が強制的に買い取って全島国有地としてハンセン病療養所を設立しました。しかし当初、この計画を知った地元民は大反対でした。
開所したのは1930(昭和5)年ですが、開拓患者85名を列車で輸送中、地元民が「患者が来やがったら竹ヤリで海に突き落としてやる」と準備しているという情報が入ったので、一行は鉄道を使わず、大阪の築港で石炭船━木造の石炭を積んだ汚くてトイレもない船ですが━をチャーターして一晩がかりで南の浜に着岸しました。
このときの一行とは光田園長が20年心血を注いだ多摩全生病院(全生園)の患者から81人に名古屋からの4人を加えた男女85人でした。この人たちは光田園長に心服し、その理念の「一大ハンセン病者家族の楽園」をこの島で実現しようと燃えてきた人たちで「開拓患者」と呼ばれていました。
療養所の中は小社会です。一般庶民社会にいるような人が揃っていました。役者のプロもいましたから、恒例の「愛生座歌舞伎」公演は常に近在の村人たちで大入り満員の盛況でした。座席は画然と分離されましたが、地元との対立の緩和と融和に大いに役立っていました。また園内にはいくつかの野球チームがあってリーグ戦をやって観客を集めていました。グラウンドも一応整備されて、そこではほとんどの人が参加する盆踊りや運動会が恒例行事として開催され、いつも賑わっていました。
博打好きもいました。また労働運動の闘士だった人もいます。療養所から逃亡し、病気が悪くなると前と違う療養所へ入ることを繰り返している人もいました。各地の療養所の情報はけっこう詳しく伝わっていました。各地の寺社を廻って生活力に自信がある人もいます。またほんとか嘘か、重罪を犯して捕まって「自分はらいだ」というと、早々に釈放されたと公言する者がいたという話も伝わっていました。(1951年、菊池恵楓園に併設して「医療刑務所」なる施設ができました)。
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