鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

1月30日、土曜日、夕方から京都で仕事。

2010-01-30 11:47:07 | 直言!
そして物語を作った。ずっと「よろかじ書堂」のホームページが休憩したままになっていた。長いことの休憩にホームぺージは「ログイン」をしないと文章が投稿できなくなっていた。これではホームページを見ている人に悪い。
ホームページのロゴをはずすことも考えたがまた何があって再度の立ち上げが大変と思ってそのままにしてきた。
ライフワークはまだ完成していないが少し目処がついてきたのでこれからまた出来るときに書いてホームページを上げていくことにした。
切り絵も作って写真も撮った。原稿も作った。
長いことこのホームページの新規作成をしていなかったので写真のセットアップがまた前と違っていた。何度してもできないのでタイトルを「物語」に変更して写真を載せないでセットアップすると出来た。
このコーナーはできる時にしていこう。
それがこのコーナーを中断している間も開いてアクセスしておられる人がいた。
それには驚いた。真剣にこのコーナーを考えていかないといけない。
それで前の物語の続きを書くことにした。
私が若い頃、出来なかったことを物語にしている。
まったくの想像で物語を作っている。
自分ができなかったのことを物語にした。愚作です。日本の敗戦の1年前に生まれた私、1944年、昭和19年に生まれた。日本の戦後そして混乱期に小学校時代を過ごして中学校に上った。日本の国の経済はよくなったもののまだまだだった。
中学2年のとき、日本の国のお金が一兆良い国、1兆4192万になった。これが流行語になった。1959年、昭和34年の話である。
高校に進んで時代はハイスピードで変化していった。
しかし田舎で過ごしていた私はのんびりと過ごしていた。高校時代の私はほとんど一目散に家に帰った。許す限りの時間の放課後も 楽しんでいたが家に帰ると家族の夕食を作っていた。
かまどでご飯を炊いて七輪に火をおこしてここでおかずを作っていた。
やがて家にガス釜が入ってガスコンロが入った。そしてテレビが入って電機洗濯機が入った。
家庭の中が1度に明るくなって活気付いていた。
そんな中で高校を卒業してOLになった。
まだまだ日本は貧しかった。しかし皆、希望と夢を持っていた。
働いて努力すれば自分の夢はかなえられるという希望にあふれていた。
そんな時代のことを少し記録に残しておきたい。私の知る範囲で残して行きたいと思って「切り絵」を通して物語を書き始めた。
自分が高校時代、まったくもてなかった器量の悪い女性を理想の女の子にして物語を書いている。人生、長いこと生きていると結婚しても素晴らしい男性に出会うこともあった。所詮それも淡い恋に終ったがそのときに聞いた言葉や体験を盛り込んで物語にしている。上手ではない。自己満足の域だが書いてみることにした。
それを書いていると時計はもう10時半になった。
急いでのブログである。

昨日は鶴橋10時に集合、9時35分に鶴橋駅に着いた。
10時集合、ある学校がコリアタウンを見学する。その同行取材。案内する人は鶴橋駅に向かって歩いてくると思っていた。
それが待てども来られないので私が待つ場所を間違ったのかと懸念した。
そしたら10時前に案内する人がJR鶴橋駅の改札口に出てこられた。
大阪市生野区の住まいと思っていると結婚を機会に奥さんの勤務先の京都に住居を変えられて京都で暮らしているという。
中学生30人が鶴橋駅の改札口にでて来られた。
一行と一緒に鶴橋駅近くの国際市場(韓国市場)を通っていく。この道は狭いのでゆっくり立ち止まって話はできない。
案内する人は「迷子になるからはぐれないよう」と言っている。
やっと近鉄鶴橋駅の東口に出て鶴橋本通りを歩いて疎開道路に出て御幸森神社に入って王仁博士の歌碑を見学してコリアタウンに入った。
トイレは鶴橋で降りて済ませまた待っている間9時45分ごろ、改札で駅員に行って駅のトイレを貸してもらって済ませているがトイレがしたい。
まあなんとか我慢できると思って辛抱していた。
コリアタウンから韓国の寺、観音寺の見学、ここならトイレのあるところを知っている。エレベーターで2階に行ってトイレを済ませた。5分ほどだった。
でてくると学生たちがいない。
しかたがない。コリアタウンの道に戻ったがいない。
学生たちがはぐれることがなかったのに私が一行からはぐれた。
携帯電話をかけるが留守番電話になっている。しかたがない。疎開道路にでるがいない。通り道に案内する人の事務所があるので立寄った。が、まだ戻ってきていない。時計は12時前、ここでまた事後取材があるので事務所の人に1時に戻ってきますと伝言して事務所を出た。
事務所の玄関で案内していた人が戻ってきた。
1時にまた来ますということにした。
近くに喫茶店があった。ここで日替わりランチを食べることにした。
そういえばここで取材してもいいと思って関係者に電話をした。
そしたらデーターを渡さないといけないというので事務所にいかないといけなかった。この事務所は3階、エレベーターがない、階段である。2階までの階段はまだましだったが3階に上る階段が少し怖かった。
しかたがない。また行くことにした。この階段を2往復した。
事務所に戻って約1時間取材した。
事務所を出てタクシーに乗ろうとしたが鶴橋駅まで中途半端な距離、仕方がなくまた元来た道、鶴橋本通りを歩いて国際市場に出た。
いつもの店で夫の好きな食材を買う気持ちの余裕もなく急いで鶴橋駅に向かった。鶴橋駅近くの手前の韓国料理食材の店でキムチを2袋買った。値段は1000円、近鉄鶴橋駅に入ると2時20分、急いでトイレをすませてホームに行くとちょうど奈良行急行が入ってくる。間に合った。よかった。

本当は1ヶ所ある事務所に行く予定をしていたが1時間、歩いた私はもうクタクタになっていた。無理はできないと考えてこの日の訪問を取りやめた。これが正解の判断だった。鶴橋駅まで歩いて大方1時間半、昨日は歩いた。
足のふくらはぎにキンキンに張っていた。

朝だった。高齢者の元気な男女のグループがJR鶴橋駅で待ち合わせていた。
みんな旅行鞄を持っている。どこかこれから旅行に行かれるとばかり思っていた。それが違った。コリアタウンの見学を兼ねて韓国料理の食材を買うツアーのグループ、サークル活動だった。「俺は前に来たことがあるので案内する」といっているのはおそらく日本人男性だろう。在日韓国人の男性なら奥さんの荷物持ちで何度か訪れているはずだ。
なるほどそれでそのグループは日本人の韓国料理食材買出しグループだった。
時代は変わったと驚いて見ていた。
旅行鞄を持って日本婦人が買い出しにくる。
そしてコリアタウンは日本の公立小学校の子どもたち、校外学習の子どもたちでいっぱいだった。なるほど時代が着実に変化している。この機会を在日コリアンは活用しないといけないコリアタウンになっていた。1世が日本に渡ってきて生活のために開いた市場、2世、3世と受け継がれて活気ある鶴橋の町を構築した。
1世の歴史が生きている鶴橋の街である。
2世や3世たちが様々な形で活用して活動している。
そんなことを思いながら鶴橋から電車に乗った。

さてこれから昼食をして夕食も作って外出の支度。京都で5時半から現場です。
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