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鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

夕べから雨が降っている。

2008-06-22 15:56:16 | 直言!
それでも行かなければならないところがあった。
韓国から戻ってきたら企画取材の現場取材に入らないといけない。
それまで自分の目で確かめなければならなかった。
霊園の名前は聞いていたので天理市に向かった。奈良市を越えてすぐのところである。ものの15分もすれば着いた。雨はしとしとと降っている。
夫は「あれや」と奥のほう指差した。たくさんの墓地がある中で夫はすぐに見つけた。
奥の方だが歩いていくとあった。
墓石に刻まれた先祖の本貫も私の実家と同じで故郷も私が結婚するまでの本籍地が刻まれていた。思わず涙が出そうになるがこらえた。
先代はたぶん1度お会いした方だろうかと思いながら在日韓国人の新聞記者になって何度かお会いした人の墓標があった。今頃になって一族と名のって申し訳ございませんと心で詫びていた。
飾り立てるのも気が引けるので線香だけ立てて合掌した。
祖父同士兄弟だったのに祖父が亡くなって長い年月、往来しなくなったのに長い年月を経て孫の私がこうして何かの縁でここに訪れるのは先人が引き合わしてくれたとしか思えない。
11時20分頃について写真を撮った。
私の実家に刻まれている墓石の文字に感慨ぶかいものがこみ上げてくる。
そしてようやくたどりついた分家の長男、祖父の弟のところにたどりついた。
周りの人たち言う。財閥の分家に誰が長男か次男かわからないという。兄弟の歴史を知っている祖父は1960年の9月の初め胃癌で亡くなった。そのときの葬儀に弟がきたのかそれは父親には聞いていない。桜井で野辺の送りをしたが韓国の伝統にのっとった葬儀だったことが私は記憶している。
近所の人が1晩で縫ったという麻の葬儀の衣装をきて野辺の送りをしたと言う話しは父親から聞いていたが祖父の弟の身内の話はなかった。
ただ父親の姉婿とトラブルがあったことはずっと聞かされていた。
しかし父親は分家があるという話しは子どもにも話して本名と通名の由来もいつも話していた。
父親は分家の代にいると父親たちは従兄弟になるので祖父の言うとおり往来をしなかったので疎遠になっていった。
けれど父親の姉は韓国語で「チャグナブジ(祖父の弟)」の話を聞いた。父親は5歳で日本に来て京都の小学校に入学したものの算数の足し算引き算ができなくて悪い点数の試験を持って帰ってきたときチャグナブジが父親に言った。
「こんなことがわからんのか」
父親は「言葉が(日本語)わからないからできない」と言ったら韓国で足し算引き算を教えてくれたという。日本語がわかると勉強はよくできて首席で卒業したのは祖母の自慢だった。
こうした記憶の思い出にたどりついた。
私が奈良県の雑誌記者から在日韓国人の中で記者をするようになって分家の長男と会うことはあってもけっして名のらなかった。父親が往来しなかったように私もそれを守った。
双方の親たちが亡くなって代は私が1代上になるが子弟が縁あって顔をあわせることになった。祖父たちの思いが私にそうさせたのか。
しらずしらずのうちに先人たちの在りし日を私は語っていた。
なんともいえない合縁奇縁である。

帰りは近くのスーパーに立寄って普段重くて買えない油や出し醤油など買って自宅に向かった。家に着くと2時、2時間の不思議な縁だった。
自宅について夫はビールを飲みながら私はコーヒーを飲みながら夫に話した。
「兄弟仲が悪かったというが兄弟の思いはあったのかもしれない。兄の祖父が1960年に亡くなって桜井市朝倉の墓地に眠りについている。それから20数年して弟が亡くなっている。そして半世紀もかけて兄弟が近距離の位置で眠っていると言うのも不思議、大阪柏原に住んでいたときに祖父が往来していたが長年離れていたのに故郷を思って眠る時は兄弟が目と鼻の先になったな」と言ったら夫は「そうやな」と言っていた。

やっと孫の私がたどり着いた祖父の兄弟、合縁奇縁を感じている。
ここにたどり着くために私が在日韓国人社会で記者をするように背中を押してくれたのはやっぱり祖父母だったと改めて認識している。雑誌記者をしていたとき背中で何か知らないが韓国語を習いにいくように何かが押していた不思議なものがあった。祖父母の愛をひしひしと感じている。
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