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鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

奈良新聞は明日創刊60周年を迎える。

2006-10-27 09:35:23 | 直言!
しかしこの60周年を迎えて退職していった諸先輩たちはどうした気持ちでいるのだろうか。
私と奈良新聞の最初の出会いは家庭面の投稿原稿「雑記長」からである。
当時、私は主婦でもできる社会参加の1つとして某同人誌で「詩」を発表していた。載るとうれしくて小学校のPTA仲間に見せびらかしていた。(今考えると恥ずかしいことをしていた)文を書くのが好きなことがPTA仲間で知れることになり奈良新聞投稿欄「雑記帳」の誘いだった。
息子が小学校4年の初夏に初投稿した。
その下手な原稿を整理していたのがジャーナリスト・ネットの代表のKさんである。当時は有能な記者ぞろいで能力抜群のデスクたちが大勢おられた。
有能な編集局長の下で働いていたのがKさん。当時の肩書きは編集局次長だった。
あのまま営業活動の支社長をしてそれを終えれば編集局長のポストがあった。
それを潔く退職していった。裏には一般の者には見えない苦労が多くあったのだろう。
そうして「雑記長」担当の女性記者の呼びかけで5人の発起人は奈良県で初めての女性ペングループ「雑記長の集い」を創設した。
発起人の中で私が1番若かった。
当時の社長はH社長、いいも悪いも奈良県で有名な人だった。
どういうわけか私には大事にして下さった。
発起人の中で1番若かった私は「雑記長の集い」の活動の中で縁の下の力持ち、人から見えない仕事ばかりしていた。
もう20数年も前のことである。
記録としての書記をしていた。そうすると会合の案内文の作成やコピー作りをしなければならなかった。
当時は今のようなコピー機もなくコピー屋さんもなく奈良新聞社のコピー機を借りて案内文を作った。当時は青焼きのコピーだった。
奈良新聞の社員に教えてもらいながら何度も奈良新聞でコピーを取っていた。
何度も何度も50ccのバイクに乗って平城宮跡の近く佐紀町から現在の所、奈良市三条町まで通った。
何度か奈良新聞の新聞社に出入りするようになって奈良新聞の社員たちと話しをするようになった。そのうちに私が書くことが好きであることがわかってきた。そしてまだ当時は36か37歳、まだまだエネルギーがあった。燃えていた。やる気のある人に見えたと言う。
そしてここで総務を担当していた役員職員の目にとまった。
関連企業に(社)現代奈良協会・「月刊奈良」編集局があった。ちょうど「月刊奈良」編集局が編集局長の交代で大量の記者が退職した。
そのとき私に白羽の矢がたった。
これも奈良新聞に出入りしてコピーを取りに行っていた下働きのお陰だったと今は思っている。
「月刊奈良」の編集局長と面接するまでこの仕事が出来るのか悩んだ。専業主婦から仕事を持って家族のことが出来るのかそれも悩んだ。
面接をした後、盆休みに入り京都に住む夫の兄の家に行った。
私の悩みを兄嫁に話した。姉さんは太っ腹だった。
「何悩んでるの。好きな仕事だったら悩むことはないやんか。やってみてあかんかったらその時やめたらええ」と言った。
私の背中をポンと後押ししてくれた。
Kさんとの同僚の期間は短かったが私のことはどこかで記憶に残してくれていたのだろう。
そしてジャーナリスト・ネットの呼びかけになった。
「雑記長」に始めて投稿してから大方20数年の月日が流れている。
あのときKさん、どんな思いで私の下手な原稿を整理していたのだろう。
投稿者で奈良新聞に参画しているころ、ただ奈良新聞に1つだけ失敗していることがある。
当時Kさんがいたころである。
女性記者が「選挙に対しての1票」のコメントを要請してきた。
そのとき女性記者は私の国籍の違いを知っているのにコメントを要請してきた。「選挙権はない」とはっきり言って女性記者に在日韓国・朝鮮人に参政権のないことを言うべきだったのに言わないでコメントに答えた。今だったら言うのに当時私の不勉強で言ってしまった。
それが記事になったとき編集局は真っ青になったと思っている。
みんな私が外国籍であることは知っていた。私も自ら言っていた。
女性記者もまた参政権付与問題には不勉強だったのだろう。

「月刊奈良」編集局で雑誌記者、編集者をしているとき毎日が充実していた。
何年かたって藤尾文部大臣の問題発言が生じた。
そのとき今は亡き編集局長が私を呼んで藤郎文部大臣の発言を正当化して説明した。
私はこのことは違うと心の中で反論していたが論理的に説明が出来なくて黙っていた。
そうして私の心に隙間風が吹き始めていた。
私はこのまま日本人に帰化すればいいのだろうか。
どうすれば自分と向き合っていけるのか。
そして雑誌記者4年目に入ったときに私の心の中はもっともっと隙間風が吹いていた。
慶州市と奈良市は姉妹都市関係を結んでいた。当時慶州からの韓国人を迎えるのに招聘しなければならなかった。
奈良県の婦人団体など取材していたので関係者の声で慶州市と奈良市の婦人交流会の現場に取材に入った。
初めて見る本国の韓国人、まぶしいほどキラキラしていた。韓国の貧富の差だっただろうが慶州で私立学校を経営するというそのご婦人の持ち物、衣服はすべてまぶしいほどキラキラしていた。発展した韓国が見て取れた。韓国慶州に憧れた。
「月刊奈良」編集局で記事にするときに慶州側の記事の内容が多かった。在日韓国人の新聞だったらこれでいいのだが日本側の雑誌にはこれではいけなかった。
編集局長は「君は何人だ」と言って書き直しを命じた。
それからだった。
私の心の中は「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」
この葛藤と苦悩が始まった。
幸い自ら民団奈良県本部の中にあった韓国語教室に飛び込んでいくことで葛藤と悩みの原因が少しずつわかってきた。
「民族のほころび」とわかるのにかなりの時間がかかった。
「本名」で在日韓国人の新聞記者になって何が1番恥ずかしかったのか。
それは何年かに1度会うKさんだった。
「雑記長」の投稿欄、下手な原稿を整理していたKさんにあったときだった。
何年も何年も恥ずかしくて穴があったら入りたい心境だった。

それがぷっつり消えたのは三重県であった「全外国人教育研究大会」の会合からだった。
Kさんが赤いTシャツを販売していた。ワールドサッカーで韓国の人たちが着たTシャツだった。一生懸命に販売している姿にKさんは私が通名名乗っていたときの投稿者、雑誌記者そして本名なのってきた私の心の経緯はきっと理解しておられる。そうでないとあんなに熱心に汗をかいて販売されることはない。
在日同胞の生き様を知っておられるという安心感を見るようだった。

それからぷっつりと心は吹っ切れた。

こんなこと話すこともなかったが奈良新聞60周年を迎えた。
社長は変わり現在の社長は「雑記長の集い」の創設に影から尽力して下さっていた。そのときKさんもまだ奈良新聞社におられた。
時代は変わり内容も人も変わっていった。
雑誌記者時代、奈良新聞の写真課の資料室に写真をよく借りに行った。
そのとき世話になったMさんはもうこの世にいない。生きていれば50代後半になっている。写真の資料整理をしていたOさんはすでにこの世にいない。

そういえば先日、Mさんが夢に出て2・3日あとに音楽家のAさんが夢にでてきて私と話している。
ふと気になる夢である。
奈良新聞60周年を天国から見ているのだろうか。Mさんが大好きだったAさんのことがきになっているのだろうか。
とにかく奈良新聞き明日60周年を迎える。多くの先輩たちがいた。去っていた人も残った人も感慨深いものがあるだろう。



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