鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

久しぶりに降った雨、気持がやすらぐ。

2008-07-18 08:43:55 | 直言!
夫は暑いといってベランダを開けカーテンをしたまま冷房を入れている。
朝方目が覚めると雨の音がしている。
ふとんの中で聞いていると心地よい。
それでも私は今日、大阪の現場にいかなければならない。明日は京都、21日は神戸と続きまた土曜日は福井県の県境まで行くことになっている。
ここは3回訪問しているが電車とバスとタクシーを乗り継いでの取材だった。
今回は知人の車に便乗をさせてもらえるので助かる。
浮島丸事件追悼式の取材も東舞鶴、ここも何度か入ったが近年は行かない。ここも遠いので難所といえる現場である。ここは民団京都本部の職員が参加するので職員に助けてもらっている。
もう1つ難儀なところがあった。雨森芳州の生誕地、高月町の取材も大変なところである。昔は研修旅行のバスに同乗しての取材をよくしたが近年は長浜まででてここから敦賀線に乗り換えて高月町にいく。高月町で降りて地域のバスがあるがバスを待っている時間がない。タクシーを飛ばしていく。
難所の取材で上げるとしたらこの3つがある。
もう1つ1回だけ訪問したがここは電話取材で済ませたいと思ったところが大阪府の豊能町だった。今年2月に訪問したが一緒にバスに乗り合わせた2人の男性記者も「遠いところにきたもんだ」と何度も言っていた。
これからこんな取材があったら千里からタクシーを乗って割り勘にしょうと言っていた。道がいいということでこの道路だったら若い記者に担当してもらうことができる。車が運転できる。バスで行った道は車の運転でも若い記者がしなくて良かったと思った。崖ぶっちの道を通っていく。もし何かが起きたらと思ったときに私が来てよかったと胸をなでおろした。
浮島丸事件追悼式の現場、日刊紙の記者時代、京都管轄を担当していたので東舞鶴まででかけた。この取材は嫌な取材だったが行かなければならなかった。
朝早起きして京都から東舞鶴に行く特急に乗る。たしか東舞鶴に行くのにどこで1度乗り換えたような記憶がある。
行きしなは東舞鶴の駅からタクシーに乗る。浮島丸事件の現場まで結構遠いのである。
そして帰りは誰かの車に便乗させてもらった。
運がよければ真っ直ぐ駅に送ってもらったが何か附属がつくとガックリしたものだった。民団京都舞鶴支部によって関係者はここで昼食を囲んだ。大勢の関係者が来るので気を使う。その時によって内容は違っていたが弁当のときもうれば婦人会のオモニ(おかあさん)手作りの料理の時もある。
私は時間に合わせて食べないで抜けることもよくあった。タクシーで行くか誰かに送ってもらったりした。
ここだったらタクシーが来てくれる。浮島丸事件の現場はほとんど民家がなくて電話もなかった。行きしな乗ったタクシーを帰りも予約したことがあった。今は携帯電話がある。番号さえ分かればタクシーを呼び出せる。
情報収集で立寄るが京都にもどる時間が気になってゆっくりと雑談もできなかった。
そしてまた思い出した。
難所の現場があった。京都府相楽郡田山と奈良県の月ヶ瀬村の境にあるゴルフ場、コマカントリーの現場だった。
ゴルフをしない者はゴルフの現場は地獄である。
そんなことで夕方のパーテイ会場に駆けつけた。これも電話取材で済ませたいがそうは行かない時もあった。2度ほど行ってこりたのでその後は行かないようにしていた。しかし韓国の知人が韓国系民族学校の校長に赴任してこられたので地理を知る私が案内して同行して取材をした。
チャリテイーゴルフの収益金の1部が学校に寄贈される。大阪の韓国系の民族学校の校長は出向かなければならなかった。
それで私は月ヶ瀬駅の近くのタクシー会社に何時に月ヶ瀬駅に下りるからと予約して帰りも何時に迎えにきてほしいといい月ヶ瀬駅まで送ってもらった。そのタクシー代は最初は私の取材活動の経費で落としていたが帰国する年のときは学校側が出してくれた。往復5000円である。
ここをタクシーが走るが1人だったら絶対に乗りたくない、山また山で狸も狐もでてきそうなところを通っていく。タクシーの運転手は木津高校の同級生、向こうは私のことを覚えているのに私は記憶にない。
今はこの取材は若い記者が車で行くので近年は行かなくなったのでほっとしている。ここも難所のところだった。ほかにゴルフの現場の取材も入っているがゴルフをしない者はゴルフの現場は地獄である。
奈良市内に住むある日本人も私と同じことを言っていた。

そんなことを思い出す。40代はこうして駆け抜けてきた。
浮島丸事件の現場の前に広がる舞鶴湾、海原がきれいかった。
夏の太陽で銀色に光る海に奈良では見られない海原に感動したものだった。
今は湖西線、快速が走るようになって目的地に着くのも早くなった。
以前は湖西線の高島町によく行った。各駅停車である。
湖西線の側は琵琶湖が見える。
琵琶湖を眺めながらの取材だった。
夏はいくつもヨットが浮かび夏の風物詩に日本の国は豊かになったと実感していた。このときに石原慎太郎の書いた小説「太陽の季節」を思い出し小説の内容がそれまでなかった内容に関係者を震撼させた。
その舞台は神奈川県の湘南の海だった。当時、小説にでてくる若者たちは富裕層の男性たちが織りなすものだった。当時まだ日本の国ではあまり見かけない光景だった。ヨットに乗る青年は限られていた。
それが現在は誰でもその気になればヨットが持てる。琵琶湖にはいくつもの白い帆のヨットが浮かんでいる。その間を縫ってしているのはサーフイン、のどかな琵琶湖を目の当たりにしながら湖西線は走る。高島町までちょうど1時間だった。
いつも琵琶湖の見えるほうに座った。
近年は高島町には行かなくなった。若い記者が滋賀なら車で走っている。
時代を経ていることは私も年をとった。
40代という私の人生、猛烈に働いた自分、駆けずり回ったころが目に浮かぶ。
もう今はあんな働き方はできない。体力がついていかない。
朝昼晩とよく働いた。
そのぶん夫のことはほったらかしだった。
何度仕事をやめよといわれたことか。
好きな仕事だから頑張れた。そして上司たちが次ぎから次と新しい現場の企画を出してくれる。それを追いかけていくうちに日刊紙の新聞社で5年働くことができた。
現在の職場に移ってからも周りの補佐でここまで来ることができた。
しかしもう40代のような猛烈なことはできない。
その分、若い記者が走っている。これでいいと思っている。
私はいつか去っていかなければならない。
必要とされる間は頑張っていこうと思っている。
しかし40代の時の機微さがない。
自分の体力に合わせている自分がどこかにいる。
寄る年端には勝てない。
そしたら背後から聞こえる。
「こら。俺と同じ年や。俺は元気やで」
この俺さん。
昨日、阪神対ヤクルト戦、3対0で負けた。嘆いているだろう。なんちゃう負け方してるのやと。久保田投手、いったいどうなっている。それに岡田監督、大事な正念場、なんで藤川投手に投げさせへんかったのか。
フアンは総立ちにしてブーング。
選手たちに疲れがでているのだろうか。
マジックが点灯しているのに貯金が減っていく。もう----と私も怒っている。


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