明日は奈良市長と市議会選挙の投票日、今も朝から声大きく選挙カーが走っている。何かしら今回の奈良市議会議員候補の選挙演説の声が大きい。
マイクの声が割れているのか話している内容がわからない。
夫は「今回の選挙はなぜかうるさく聞こえる」と言う。
「やかましい。やかましい」とベランダをのぞいていうのでそんなこと言ったらあかん。と、たしなめている。
昨日は雨の中、大阪南港にある金剛学園に向かった。
1時の約束、それが雨が降っていて雨の歩道にひっくりかえってはいけないとゆっくりと歩いた。学校に着いたのが1時5分、1時間ほど取材してまたトレードセンター駅に戻った。雨がやんでいた。
コスモスクエア駅から1路、そのまま生駒にもどるが電車の中は2時半過ぎなのに60歳前後の女性の塊はやかましい。
隣に座った女性は前に座っている塊と離れて私の隣に座った。
そして皆は弁天町で降りたが彼女は谷町4丁目で降りるとしきりに何度も言っている。前の塊に気を使っているのか、あれこれ話しているがその声がキイキイ声で隣の私に響く。じっとしているのは数秒、鞄の中をあれこれ探り上着を出して引っ掛けては「寒いから着ておくわ」とかなんとか。じっとしているのは数秒、また電車の床に置いた鞄を開けてはごそごそしている。
さすがら私は落ち着いて本が読めない。
思わず横目で睨むがその行為はずっと続く。
弁天町でその喧しい集団が降りたのでそちらの席に私は変わった。
そしたらなんと彼女は静かになって本をゆっくり読んでいる。
前の塊の集団に気を使ってあんなことをしていたのかと思ったりするとふと、在日コリアンの人ではないか。疎外されているから気を使っているのかと思ったりした。地下鉄谷町4町目近辺は多くの在日コリアンが暮らしている地域でもある。ふとそんなことを思った。
なんでこんなことを思うというと-----。
私がペングループでの活動やPTA活動を通して若い時の自分を見ているようだった。ずっと疎外されてきたがなぜかPTAの役員投票になると私は票が入って大きな役員をする羽目になった。
当時はまだ心の病と闘っていたので人と接することでやりがいのある仕事をすることで心の病は1歩全身してはまた1歩後進していたが少しずつ心の病気前身していた。そんなことで社会参加は私自身の学びの場だった。
しかし心の病は誰にも話すことができず人知れず心の病と闘っていた。
知っていたのは家族と身内だけだった。
母親は心配のあまり名前を結婚した姓に負けそうだからと名まえの画数を変えた。この名まえは長いこと使った。
現在はほとんど本名である。行政機関の文書は結婚した時に外国人登録証明書に本名と通名を登録しているので通名で文書案内がくるがいたしかたがない。
夫から引継ぐいろんなものに考慮して通名のままにしている。
昨日の電車の中で喧しい女性たちの塊にふと、若かりし頃の自分が重なっていた。今は1人が大好きで1人の時間を大切にしている。
見かけは賑やかなことが好きそうに見えるが本来の性格は1人も好きなところがある。子どものころ友達づくりのできない私は1人遊びばかりしてきたのでそんな子どもの頃の体験がそのまま身についている。
けれど親には感謝している。根は楽天家で明るい。
家は苦労していたのに子どもには金銭的な負担はさせなかった。
教科書もお下がりを使っていた時代だったのに父親は母親に言い聞かせていた。
「教科書は絶対に新しいものにすること。人から古い教科書をもらってはいけない」といつも言っていた父親、そんなことにも子どもに愛情をかけていたのに私はずっと女が嫌いという父親が嫌いだった。
2時半にトレードセンター駅を出て生駒に着くと3時15分、生駒から奈良に出て3時40分、それからスーパーで昨日買えなかったものを買い足してバス乗り場に向かった。4時8分のバス、2分ほど遅れてバスが県庁前にいた。中循環バスに乗って自宅に戻ると4時15分、急いでシャワーを浴びて台所に立った。
素麺を湯がき夕食の支度、夫の好きな鶏肉のレバーを氷水につけて夫の好きなかぼちゃを炊いた。オクラは湯がいて味噌で食べた。レバーは氷水につけて臭みを取る作業、これを食べる間際に炒める。ニラを後から入れる。
夫は好きで買ってきたなめこを洗って味付けをした。入り卵を作りハムときゅうりを切って素麺の上にのせるものができた。
支度が終わるとパソコンを開けたがメールの送受信の処理だけにしてパソコンを閉じた。
9時半から建物探訪を見ることにしよう。
マイクの声が割れているのか話している内容がわからない。
夫は「今回の選挙はなぜかうるさく聞こえる」と言う。
「やかましい。やかましい」とベランダをのぞいていうのでそんなこと言ったらあかん。と、たしなめている。
昨日は雨の中、大阪南港にある金剛学園に向かった。
1時の約束、それが雨が降っていて雨の歩道にひっくりかえってはいけないとゆっくりと歩いた。学校に着いたのが1時5分、1時間ほど取材してまたトレードセンター駅に戻った。雨がやんでいた。
コスモスクエア駅から1路、そのまま生駒にもどるが電車の中は2時半過ぎなのに60歳前後の女性の塊はやかましい。
隣に座った女性は前に座っている塊と離れて私の隣に座った。
そして皆は弁天町で降りたが彼女は谷町4丁目で降りるとしきりに何度も言っている。前の塊に気を使っているのか、あれこれ話しているがその声がキイキイ声で隣の私に響く。じっとしているのは数秒、鞄の中をあれこれ探り上着を出して引っ掛けては「寒いから着ておくわ」とかなんとか。じっとしているのは数秒、また電車の床に置いた鞄を開けてはごそごそしている。
さすがら私は落ち着いて本が読めない。
思わず横目で睨むがその行為はずっと続く。
弁天町でその喧しい集団が降りたのでそちらの席に私は変わった。
そしたらなんと彼女は静かになって本をゆっくり読んでいる。
前の塊の集団に気を使ってあんなことをしていたのかと思ったりするとふと、在日コリアンの人ではないか。疎外されているから気を使っているのかと思ったりした。地下鉄谷町4町目近辺は多くの在日コリアンが暮らしている地域でもある。ふとそんなことを思った。
なんでこんなことを思うというと-----。
私がペングループでの活動やPTA活動を通して若い時の自分を見ているようだった。ずっと疎外されてきたがなぜかPTAの役員投票になると私は票が入って大きな役員をする羽目になった。
当時はまだ心の病と闘っていたので人と接することでやりがいのある仕事をすることで心の病は1歩全身してはまた1歩後進していたが少しずつ心の病気前身していた。そんなことで社会参加は私自身の学びの場だった。
しかし心の病は誰にも話すことができず人知れず心の病と闘っていた。
知っていたのは家族と身内だけだった。
母親は心配のあまり名前を結婚した姓に負けそうだからと名まえの画数を変えた。この名まえは長いこと使った。
現在はほとんど本名である。行政機関の文書は結婚した時に外国人登録証明書に本名と通名を登録しているので通名で文書案内がくるがいたしかたがない。
夫から引継ぐいろんなものに考慮して通名のままにしている。
昨日の電車の中で喧しい女性たちの塊にふと、若かりし頃の自分が重なっていた。今は1人が大好きで1人の時間を大切にしている。
見かけは賑やかなことが好きそうに見えるが本来の性格は1人も好きなところがある。子どものころ友達づくりのできない私は1人遊びばかりしてきたのでそんな子どもの頃の体験がそのまま身についている。
けれど親には感謝している。根は楽天家で明るい。
家は苦労していたのに子どもには金銭的な負担はさせなかった。
教科書もお下がりを使っていた時代だったのに父親は母親に言い聞かせていた。
「教科書は絶対に新しいものにすること。人から古い教科書をもらってはいけない」といつも言っていた父親、そんなことにも子どもに愛情をかけていたのに私はずっと女が嫌いという父親が嫌いだった。
2時半にトレードセンター駅を出て生駒に着くと3時15分、生駒から奈良に出て3時40分、それからスーパーで昨日買えなかったものを買い足してバス乗り場に向かった。4時8分のバス、2分ほど遅れてバスが県庁前にいた。中循環バスに乗って自宅に戻ると4時15分、急いでシャワーを浴びて台所に立った。
素麺を湯がき夕食の支度、夫の好きな鶏肉のレバーを氷水につけて夫の好きなかぼちゃを炊いた。オクラは湯がいて味噌で食べた。レバーは氷水につけて臭みを取る作業、これを食べる間際に炒める。ニラを後から入れる。
夫は好きで買ってきたなめこを洗って味付けをした。入り卵を作りハムときゅうりを切って素麺の上にのせるものができた。
支度が終わるとパソコンを開けたがメールの送受信の処理だけにしてパソコンを閉じた。
9時半から建物探訪を見ることにしよう。
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