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鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

「あの日、あの時―日本帝国主義と朝鮮人と民族独立運動」≪57≫:鄭容順

2008-03-20 21:10:19 | 直言!
参考資料は明石書店発行―【日韓歴史共通教材】―『日韓交流の歴史―先史から現代まで』(歴史教科書研究会・韓国=歴史教育研究会・日本)。

先週まで日本編をお知らせした。今週から韓国編を紹介していく。
■ このころの韓国(1910~1945)
「武断支配」
日本は大韓帝国を滅亡させ朝鮮総督府を設置し武力で朝鮮を支配した。日本は朝鮮に帝国憲法を適用せず議会を設置しなかった。朝鮮総督は行政・立法・司法・軍事に関する強い権限を行使した。日本は現役大将を総督に任命し末端にまで日本人官吏を派遣して支配体制を構築した。日本は朝鮮人を天皇に忠誠を誓う本当の日本人として作りなおすために同化政策を実施した。これに対する朝鮮人の反発と抵抗も強固に続けられ日本の朝鮮支配は思い通りには進まなかった。
朝鮮総督府の初めの10年間は憲兵が警察業務まで担当し教師さえ剣を下げて授業を行った。また土地所有と租税徴収を改善するという名目で土地調査事業を実施した。その結果、租税収入は2倍に増加し日本人の所有する土地も大幅に増えた。一方、朝鮮総督府は朝鮮で会社を設立する時は監督の許可を受けることにしたので朝鮮人の経済活動は大幅に萎縮させられた。

参考資料は韓国政府教育部国際教育振興院発行(1995年初版)の「韓国史」から。(原文のまま紹介=留学した在日韓国人子弟が使用する教科書)
■ 民族の受難
「民族の海外移住と日帝の弾圧」
開港以後国内の政治と社会が急速に変化し日帝の侵略が甚だしくなるや多くの人たちが迫害と収奪を逃れて海外へ移住していった。これらの人たちの中には経済的困難にたえられず家族を連れて新しい生活の地を求めて国をはなれていく人と商いをして大金をつくろうと固く決心した人もいた。又、これらの人の中には日帝の魔手のとどかない所に韓国人の村落を立て独立軍を養成して祖国光複戦争を展開する決意を持った人も多く含まれていた。
我が民族の海外移住者は1910年代の初めすでに20余万人をこえていた。日帝の統治下では一層増加して解放当時に400余万人に達していた。
我が民族が最も多く居住していた地域は満州と沿海州であった。特に満州の間島地域は昔から我が国土とみなされていたので我が民族の人々はあたかもとなりの村へ行く気持ちで間島へ移住した。大韓帝国政府の時代には我が国の人たちを保護するために管理使を派遣したこともあった。
しかし我が国の外交権をはく奪した日本は満州に進出する目的で安奉鉄道敷設権を占める代価として間島を清国の領土と認定する間島協約を清と締結した。それに屈せず間島に居住していた韓国人は多くの独立軍部隊を組織して日本の侵略軍を攻撃した。その代表的な例が鳳梧洞戦闘と青山里戦闘である。
日帝は間島に住む韓国人に対して残酷な弾圧をくりかえした。
特に青山里の戦いでやぶれた負け惜しみに1920年末の韓国人の襲撃は残酷きわまるものであった。この時日本軍は独立軍の捜索という名目で鴨緑江と豆満江に近い韓国人を攻撃して約1万余人に達する無実の韓国人を虐殺した。そして大部分の家屋・学校及び教会を焼きはらった。しかし間島地域の韓国人たちはこれに屈せず新しい生活の地を開発しながら祖国光複のために抗日闘争を続けた。
沿海州の韓国人も事情は似ていた。彼らは酷寒にもまけず稲作をしながら独立軍部隊を支援した。この人たちは後日、ソ連政府によって中央アジア地方へ強制移住されたが今も民族意識と伝統文化を継承しながら集団を形成して生活している。
日本は諸外国の中でも我が民族が一時は最も多く住んでいた地域であった。
植民地統治下における我が民族の一部は日帝の弾圧と収奪がはげしくなると新しい生活基盤をつくるたるめに日本へ渡った。これらの人たちは日本人のつめたい視線と差別待遇の苦痛に耐えながら工場や炭鉱などで働いた。特に1923年の関東大震災の時も約6千余人の韓国人がなんら理由もなく日本人によって無残にも殺害されたこともあった。
在日同胞の中には日帝によって強制連行された人たちが大部分であった。日帝は侵略戦争を敢行するため人手がたりなくなると韓国人の青壮年と婦女子を強制連行し軍儒工場や炭鉱または紡績工場などに収容して強制労働をさせた。死をもいとわず熱心に働いたが韓国人に対する日本人の差別と迫害はとてもひどいものであった。
その外、割に少数ではあったが、米国やメキシコにも韓国人の移住があった。

筆者はこの項目を記述しながら海外に移住した同胞のことを考えていた。日本の同志社大学に留学していた尹東柱(ユンドンジュ)、詩人は才能と魅力的な感性の持ち主だった。1944年の7月、京都下鴨署に治安維持法で連行された。ハングルで詩を書いたという。取材で何度か尹東柱詩人の家族と京都でお会いした。穏やかな人柄に日本植民地時代を生きぬいてこられた苦しみは微塵も見られない。しかし家族たちは満州の間島で暮らした事実資料がある。資料から当時の日本弾圧の様子が伺える。そして筆者はそのたびにもの悲しく胸がつぶれそうになる。筆者は日本で生まれて日本で育ち暮らしている。平衡感覚のバランスが崩れそうになる。筆者は何を伝えていけばいいのか考えてしまうときもある。尹東柱詩人は1945年2月16日、福岡刑務所で獄死。
尹東柱詩人の有名な「序詩」を紹介しよう。ハングルで書かれている。
「死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを、葉あいにそよぐ風にも わたしは心痛んだ。星をうたう心で 生きとし生けるものをいとおしまねば そしてわたしに与えられた道を 歩みゆかねば 今宵も星が風に吹き晒されている。(伊吹郷訳)
【写真説明】尹東柱詩碑、同志社大学キャンバス内に1995年2月、同志社校友会コリアクラブ・尹東柱を偲ぶ会・詩碑建立委員会らが募金活動して詩碑が建立された。その記念誌として発行された資料から写真を転載。(学校法人同志社・編集同志社大学企画部広報課)が発行。同志社大学今出川キャンパス内同志社礼拝堂(チャペル)の側に建立されている。
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4 コメント

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'`,、('∀`) '`,、 (ネトゲ厨)
2008-03-22 11:52:37
面倒すぎてネトゲしながらヌいてもらいますたw
それでも4マンくれたょーヽ( ・∀・)ノ
これの同盟作ろうかなww
http://1g8sr4.net/byai/LfV4vmYk.html
返信する
強制連行の件 (スッチ・ジェーラ)
2008-03-24 04:46:13
『在日同胞の中には日帝によって強制連行された人たちが大部分であった。』
  と書いておられますが、僕の知人の在日に方は、上記の件ではよく、殆ど虚偽だといっています。

 表現もおかしな日本語ですし、内容的にも事実に反します。
 何故こういう表現ができるのでしょうか?詳しくお答え下さい。
 きちんと書かないと、記述全体がが嘘っぽく見えて、ご努力が水の泡となります。ご反省を請います。
返信する
Unknown (チョンヨンスン)
2008-03-24 09:36:31
原稿の中にも記述してあるように韓国政府が発行した教科書「韓国史」にそって記述しています。このへん疑問に思うこともありますが文献資料多少多彩にわたって調査しないと確定した答えは出せません。それで断りとして「原文のまま」といれてあります。読者の方がそれなりに考えて下さい。心がおれそうになる日本人の多くの歴史認識の希薄さにまたこころが
おれそうになります。もうこれ以上この件のコメントは無視させていただきます。
返信する
無視とは酷い! (スッチ・ジェーラ)
2008-03-24 19:04:42
 どうか逃げないで、凛としてお答えください!書き手には責任があるのでは?
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