クロムの備忘録的ダイアリー

定年後の日々の楽しみや関心事、具体的には写真、カメラ、観る将あるいは投資の話題などを綴っていきます。

17日の利平茶屋森林公園

2019年05月20日 15時08分46秒 | 野鳥

懲りずに5/17にも利平茶屋森林公園に行ってみました。
前回に比べて若葉がずいぶん伸びたようで、斜面のツツジのピンクもきれいでした。
少し遅めに家を出たのですがカメラマンはいませんでした。




後から2名のカメラマンが来たので情報交換しましたが、この日は鳥の出が悪いようで、半日いてオオルリとイカル程度しか撮れませんでした。
ほかに目にした野鳥はゴジュウカラ、ヤマガラ、シジュウカラ、コゲラ程度でした。
去年何度も目にし、営巣もしていたコルリが見当たらないのが気になります。

今週末から北海道一周ドライブ旅行なので野鳥撮影も当分お休みです。

栃木でフクロウの雛撮影

2019年05月14日 17時49分44秒 | 野鳥

昨日は古河市の神社にフクロウの雛の撮影に行きました。
神社に到着すると平日にも関わらず20名以上のカメラマンがいました。
神社の神主さんは駐車場内のカメラマンの誘導や整理に忙しそうでした。


これだけ見るとカメラマンは神社にとって迷惑な存在と言えますが、フクロウが来るということを売りにしている面もあり、境内にはフクロウの像や写真、あるいは説明板なども飾ってありました。一応私も少ないながら賽銭を収め参拝もしました。


本題のフクロウですが、雛は2羽おりつい最近巣を出たそうです。少し離れたところに親鳥がいて周囲を見張っています。




基本的に雛は天敵から身を守るため葉の影になる位置でじっとしていますが、時々少し動くので、その一瞬を見逃さないようにして写すのがポイントです。
この神社で撮影後、近くの別の神社にも雛がいるということで移動してみました。


そちらにも雛が2羽いました。また少し離れた場所にはアオバズクもいました。
アオバズクは非常に見つけにくい場所におり、場所を知っているカメラマンに聞かないと
撮れなかったと思います。
とりあえずフクロウとアオバズクを初めて撮れたのは良かったです。
これでフクロウ類はフクロウ、アオバズク、オオコノハズク、コミミズクを撮ることができました。
本州で撮れそうなフクロウ類はあとコノハズクとトラフズク程度でしょうか。
情報を見かけたら撮りに行きたいと思います。

5/5の利平茶屋森林公園

2019年05月11日 12時31分00秒 | 野鳥

数日前になりますが利平茶屋森林公園を再訪しました。
狙いはオオルリ、キビタキそれに前回初撮影できたキバシリと撮影できなかったミソサザイなどです。


到着して早々オオルリとキビタキを見つけて幸先良好と思いましたが、その後はさっぱりで、昼過ぎに場所移動で少し上方に行きました。
すると少しして小川にミソサザイが現れたのですが、ピント合わせするうちに飛んでいってしまいました。その後は姿を見ることはなくこの日も撮れませんでした。


ただその場所ではコガラを比較的近くから撮れたので移動は無駄ではなかったです。


15時頃元の場所に移動してしばらくするとオオルリのオスメスが現れ、オスがいい声で鳴き始めました。オオルリは日本三鳴鳥(残りはウグイスとコマドリ)の一つですが、澄んだ良い声です。
オオルリはしばらく周りを飛んでは鳴いていましたが、残念ながら梢の上の方ばかりで撮りやすい位置に降りてきてはくれませんでした。


今回もミソサザイは撮れなかったし、毎年営巣するらしいコルリも見られなかったので利平茶屋にはまた来たいと思います。

伊勢志摩熊野旅行7日目

2019年05月09日 14時50分07秒 | 旅行
串本から埼玉まで長距離なので途中下車という意味で桑名に宿を取りました。
宿泊後の午前は観光の時間が取れるので桑名城址と六華苑に行きました。


桑名城は残っておらず幡龍櫓という櫓が建っていました。


またこの地点は伊勢国の東の入り口に当たるため、伊勢神宮の一の鳥居が立てられました。


桑名城跡を後にして六華苑に行きました。
六華苑は2代目諸戸清六の邸宅として大正2年に完成。
諸戸清六は山林王だったそうで、2代目は初代の急逝後事業を引き継ぎ、洋館と和館が接した六華苑を建てました。洋館部分はジョサイア・コンドルに設計を依頼しました。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、岩崎邸園、古河庭園などで知られる建築家です。六華苑は地方都市に現存する唯一の遺産だそうです。




洋館内にはコンドルの略年譜が載っていましたがそれがなかなか興味深かったです。
コンドルは25歳で来日、5年の契約を延長し、13年間政府の仕事に携わり、多くの設計を残すとともに建築家を育てました。この程度は知っていたのですが、日本女性と結婚し、67歳で亡くなるまでの生涯を日本で過ごしました。コンドルは41歳で前波くめと結婚します。その際、来日後ほどなく生まれた娘ヘレンを養女として引き取りました。くめはコンドルが習っていた踊りが縁で知り合ったそうです。




コンドルは日本文化に関心を持ち、狩野派の絵師河鍋暁斎に師事、日本画に習熟していました。
また日本文化をイギリスの雑誌に紹介、日本庭園の著作も残しました。
建築に素養もないのでコンドルのこのような面を知った事が六華苑を見学した成果といっても良さそうです。

伊勢志摩熊野旅行6日目

2019年05月08日 11時39分43秒 | 旅行

熊野滞在の最終日は潮岬経由で紀伊大島に行きました。


途中潮岬灯台を眺め、潮岬タワーのある公園に寄りました。ここには本州最南端の碑があります。


串本大橋を渡り紀伊大島の樫野埼(かしのざき)灯台に行きました。
途中トルコのエルトゥールル号遭難事件の慰霊碑の前を通りました。


樫野埼灯台は日本最初の洋式石作り灯台で、現在も稼働中です。
これを作るためにイギリスからお雇い外国人リチャード・H・ブラントンが来日し、各地から日本人が集められ灯台作りを学びました。そのためブラントンは日本灯台の父と呼ばれており、教育の場として灯台に接して石造りの官舎が作られました。
官舎はその後灯台守りの宿舎となりました。施設の説明員の方によりますと、前述のエルトゥールル号遭難の際は、未明に9名の船員が助けを求めにきたのですが、その際の有様があまりに酷かったために非常に驚いたそうです。


エルトゥールル号は座礁し、水蒸気爆発を起こした上に、船員は断崖絶壁を素手で登ってきたため、ある者は指がない、ある者は耳がない、といった惨状が記録に残っているそうです。
翌朝灯台を拠点に村民による救助団が組織され、69名が救助されました。犠牲者は587名にのぼりました。生存者はその後、日本海軍の比叡、金剛に分乗し送還されました。その2隻には秋山真之等が乗っていました。


樫野埼灯台の後は近くの海金剛に行きました。
この荒々しい岩もマグマ由来の岩が荒波に削られて出来たものです。


海金剛を見学後、串本を後にして帰路につきました。
その途中に日本最古の神社、花の窟(いわや)神社の案内板を見たので寄ってみました。
ここはイザナミノミコトを祀っています。書記によるとイザナミは火の神・カグツキ神出産後
火傷がもとで死んでしまい、その魂を祀るため土地の人々は花の咲く時期にのぼりや旗を立てて
歌い踊る祭りを行ったそうです。そのため花の窟という名前がついたそうです。


中に入ると地味な鳥居をくぐった先にある巨岩から不思議な縄がかかっていました。
このような巨岩信仰は先日見た高倉神社でも見たものなのですが、原始的なアミニズム信仰の実例を見る思いで興味深く感じました。