さあ、前回(体育大会後の打ち上げ)は大宴会の様子をお送りしました。
今回はその後で記憶にある事件(?)をお送りします。
今回もメインはカズです。話題に事欠かないやつなんです。
カズの家の引っ越し先は、こともあろうか同じクラスの聡の家の隣でした。
二人を知る人なら、もうこの時点で〝何やるだろう〝と云う予想がつきそうです。
季節は丁度今頃だったと思います。鍋のおいしい季節となりました。
誰が言い出したのか、〝鍋を囲んで人生を語ろう!〟と(云うことでは無かったんでしょうが)数人が集まりました。
会場は聡の家の2階。集まったのは、住人の聡、お隣のカズ、光吉に私、なんかもう一人いたような気がするんですが、もしそうだとすると、勝也じゃないのかなぁ。
その日の授業を終えて、聡の家に集合したような気がします。
準備は誰がやったのかは思い出せません。
話の内容も全く思い出せません。
鍋が「水炊き」だったことは覚えています。
夜遅くまで宴会は続いたに違いありません。
カズは自宅に戻ったんじゃなかったかな。あとはその部屋に泊まりました。
翌朝は通常通り補習時間に間に合うように登校です。
聡とカズより一足先に、私達は出ました。
二人はすぐに来るんだろうと思っていたんですが・・・
ところが、二人はなかなか来ません。
「どがんしたとやろう?」
「遅かのぉ~」
そのうち、聡がやってきました。
「カズは?」
「自転車ば修理しよらいた」
「パンクや?」
「うんにゃ」
「え?」
「そいがさぁ」と笑い顔。
その後の話は、本人からも聞いたんだと思いますが、記憶が何処までが正しいのか分りません。カズ、間違っていたらコメントしてね。
前夜?もしくは早朝の話らしいです。
バイトの事で親父さんと喧嘩したんだとか。
なんでも、カズがバイトしたいと思っていた店は水商売のお店だったらしいです。
〝パブ〟か〝バー〟だったんじゃなかったっけ。
そちら系のお店ならバイトの時間帯は夜から深夜になりますね。
当然、親父さんがOKを出すはずはないでしょう。
「そんな店は高校生がバイトするところじゃなか!」と親父さんは言ったに違いありません。
もちろん、親父さん言い分が正しいでしょう。未成年者が働くに適した場所とは言えません。親としての責任もありますしね。
しかし、喧嘩になると云うことは、カズも何らかの主張(反論)をしたんでしょう。
カズがバイト先としてそういうお店を選んだ事も分からない訳ではありません。彼としては時間単価の高いものを選んだんだと思います。
普通は口論だけで済みそうな気がします。
取っ組み合いの喧嘩には発展しそうにありません。
でも、このままでは自転車修理とは結びつきませんよね。
なんと、
親父さんは家を出て行く際(出勤の時?)によっぽど頭にきていたのか、車でカズの自転車を撥ねたか、ひいて行っちゃったんだそうです。
それで、自転車が壊れたので修理していたんだそうです。
気の毒なんですが、大笑いしちゃいましたよ。
カズ親子には申し訳ありませんが、そういう、親子関係が面白かったですね。
「その親ありて、この子あり」って感じ。
親父さんにお会いしたことはないんですけどね。
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さしあたって必要なのは、上京するための旅費を得ることですが、思いついたのは前の自宅の近所にあった、<ハワイ大村>です。そこは、パフェで有名な<ハワイ>ではなく、ネグリジェお触り系のいかがわしいお店でした。女のおっぱいも触ったことがない無垢な高校生にとっては、ワイセツなところに行くだけでも、心身トキメクのですが、これで給料がもらえるならば、もう最高の職場なのです。履歴書を持って行き、店長から、明日早速、仕事においでと言われ、喜び一杯で帰宅しました。
<おかあさん、明日から、ハワイにバイトに行くけん!>
・・・・<和彦、なんば考えよっとね>・・・・ その時に見せたお袋の悲しそうな顔は未だに忘れられません。
その日の夜は、件の宴会の後、実は、自宅には帰らず、ヤートの家に行って、また呑み続けていたのです。深夜、いい気分で家の前に帰って来たとき、私の目に飛び込んできたのは、原型をとどめない程にグシャグシャに破壊された私の自転車でした。ろくに学校にも行かず、親父に無断で水商売の世界に入る息子への怒り爆発だったんでしょうね。可哀想に、私の身代わりなってくれたのは、新聞配達でやっと買った、私の愛車でした。親父は、車で自転車を撥ねたのではなく、何度もその上を往復したそうです。
<このまま家に入れば、親父に殺される> と直感した私は、再びヤートの家に戻り、一夜を過ごしました。翌朝、制服をとりに、一旦自宅に帰ったので遅刻したんでしょうね。自転車の修理はとても出来ない状態でした。
その夜、頭を冷やした親父とじっくり、話し合いました。自分の夢と、卒業した後、東京に働きに行くことを。そして、最後に嬉しかったのは、親父が<これで東京に行ってこい>と、私の手に10万円をくれたのです。
それから、後日談です。
卒業した後、私は意気揚々と、トヨタ・ライトエースの後部座席に布団を敷いて寝泊まりしながら、東京に向かいました。
見つけあてた職場は、地下鉄駅の工事現場、とび職が集まる飯場でした。そこで、日勤夜勤、鉄骨の上を歩きながら、めちゃくちゃ働いて、3ヶ月で100万円貯めました。
当時、エンジン付のハンググライダーの試作に取り組んでいたのは、日本でただ一人、愛知県在住のある方でした。稼いだ資金を手に、その方のちっぽけなグライダー工房に辿り着きました。<私を是非、弟子にして下さい! ここで働かせてください!>と心を込めて懇願したのですが、<あんたに給料を出せる余裕はありません。諦めて帰って下さい>と、あっさり断られました。そうか、雇ってもらえないのならと、近くの職安に行き、別の工場を紹介してもらいました。翌日、初出勤。ところが、仕事の内容は、電話コードのカールをひたすら鋳型に巻き付けるだけの、超、単純労働作業でした。夢、破れたりです。私は、コードを巻きながら、まる一日、考え続けました。機械でも出来るようなこの仕事を、俺はやり続けるのか? と。
そして、夕方出た結論は、<よ~し、医者になって、アフリカに行って、太鼓叩いて、踊って楽しく生きるぞ!>でした。
翌朝、私は故郷に向けて、車を走らせました。
それから、33年が経ち、アフリカの夢はまだ果たせないままです。ただ、あの時より、少しは、まともな人間になったのかもしれませんが。
友ちゃん、<青春>とは、<アホであること>、なんでしょうかね?
<青春>とは、<アホであること>、か・・・。
間違いなく言えることは
「あの頃があったから、今がある」
と云うことやね。