新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

父と,東宝の諸先輩、仲間たち、そして映画「ゴッドファーザー」と,映画「ドラえもん」シリーズの思い出

2019-01-22 04:18:21 | とにかくVIPの思い出(^_-)-☆

みなさま、こんばんは。かつらぎです。

あれから少し眠って、気持ちはすこし落ち着きました。

かなしみは癒えないし、父にあれからまた怒鳴られましたが😢

母のとりなしもありまして、だんだん冷静さをとりもどしました。

(病身の母には悪いことをしたと思います。

父との軋轢で、母を悩ませてしまいましたから)

 

ブログで無理に明るくふるまう必要もないのだと思っています。

私自身が壊れないようにするためには、

ちゃんと事実を明らかにすべきでした。

父も一生懸命生きたのだと思いますが、

私にとっては、けっしてよい父親ではなかった。

 

親子の間とはいえ、

言ってはいけないこと、やってはいけないことを

父はあまりにも破りすぎた。

人が心に傷を負っているにもかかわらず、

(たとえば、私が前のオット・はるちんに殴られ蹴られしたときに)

人の傷に塩をさらに塗り込むような暴言を平気で吐いたり、

私が病気で苦しんでいるときに、

さらに追い打ちをかける、無理解な一言をいって、

人の心にズカズカと踏み込むようなことを

彼はあまりにもやり過ぎたのです。

 

「お前なんか生まれてこなければよかった」とね。

 

そう、これが彼の本音だったのでしょう。

でも、彼にも私への不満がすごかったのでしょうね。

ほんとうは、娘でなくて、跡取りになる男の子が

欲しかったみたいですし、

小さい頃、ほとんど女の子らしい遊びはさせてもらえませんでしたから。

 

最初に映画館に連れていかれたのは、

「ゴッドファーザー」のパート1でした。

凄惨な殺し場が続くこの映画を、5歳で父と一緒に

みさせられました。

私が、床屋で、人が惨殺される場面を見て、

「やめてやめてパパ!もう助けて!こんな映画みたくない!」と

泣きさけんだら、父が映画館でどなったのを覚えています。

 

「馬鹿野郎!人生は闘いの連続なんだ。これが現実だ。

お前もよく覚えておけ!これが人生なんだ!」と。

 

私に小突くようにして、どなりちらし、

私がずっと泣いていたのに、なぐさめもせず、

そのままプイっと帰宅してしまったのを、

今でもかなしい思い出として鮮明に覚えています。

 

もちろん、「ゴッドファーザー」の第1作は衝撃作だし、

問題作だし、名作ですけれど、

5歳の子供にみせていい作品なのか?といえば、

それは激しく否である、ということを、

東宝の元社長である、石田敏彦さん(故人)が

おっしゃってくださいました。

 

入社当時、石田さんは旧・映画興行部

(現・TOHOシネマズ)の担当役員として、

研修中大変お世話になりました。

そのころ、「ゴッドファーザーパートⅢ」の宣伝で、

石田さんは大奮闘しておられました。

私が映画の試写を見て、石田さんに、

「意外に穏やかな内容ですね。悲劇ですけれど、

パート1に比べたら、全然陰惨ではないですね」といったら、

石田さんがビックリされて、

「かつらぎくん、君、その若さでパート1をみたの?」とおっしゃたので、

私が「ハイ、父に連れられて、5歳のときに映画館で見ました!」と

いったら、石田さんが大変かなしそうな顔をされました。

「5歳のときに、ゴッドファーザーを映画館で見たって?

・・・じゃ、怖かっただろう。大変だったね。

僕は宣伝担当だったけれど、大人の僕でも、かなりしんどかったよ」

とおっしゃったのでした。

私は、最初笑顔で感想を語ろうとしたのですが、

急に涙がこみあげてきて、

「父がどなったんです。『人生は闘いの連続だ!これが現実だ!』

って。私に、人生のなんたるかを知らせたかったんだと思うのですが」

と、泣きながら話したら、石田さんがやさしく、

「つらかったね。お父さんのいうことはある意味真理をついているよ。

でも、お父さんはまちがっているよ。

少なくとも、子供には、『ドラえもん』や

ディズニーといった映画を見せて、

友情と勇気と家族、愛情のたいせつさを

教えるべきだったと、僕は思うね」

とおっしゃってくださいました。

私が石田さんに生意気にもこういったのでした。

「ドラえもん?父はとても馬鹿にしていました。

あんな子供だましの、友情なんてそもそもこの世の中に

あるわけがない』と父は常々申しておりましたが」と言ったら、

石田さんの目がパーッと赤くなって、

「そんなこと、小さいころから言われたの?」と私に尋ねられました。

私が、「はい、父はずっと大勢を相手に、

殴る蹴るの大喧嘩をしてきたそうです。

だから友情なんてこの世にあるわけがないと父はいいますし、

父には友達がいません」と言ったら、

石田さんは、驚いていいました。

「きみは友達が多そうだよ?高校で生徒会長もしているね?」

そういうので、私がすっかり驚いて、

「その通りです。私は父のようにはなるまいと思って、

友達をたくさん作り、人の役にたてるように

頑張ってきたつもりなのです」

といいました。

石田さんは、おだやかに、感慨深そうに、

「そうかそうか。

・・・ゴッドファーザーパートⅢはね、家族の崩壊を描いている。

それはそれで大変な悲劇だよ。

これから君は、そういう人生のかなしみも、

ちゃと読み取れるような映画マンになってね。

映画というのは、人の人生をちゃんと大切に扱う商品でもあるのだから」

とおっしゃって、私は大変感激したのでした。

「かつらぎくん、いちど、ドラえもんの初日とか行ってみるといいよ」と

石田さんはおっしゃいました。

私が「私、ドラえもんの原作も読んだことないし・・・・

映画も一度も見たことないんですけれど・・」

と恐る恐るいいました。

ドラえもんは東宝の(いまでもそうですが)ドル箱映画だったからです。

石田さんは、「うん、いつかチャンスがあるよ(^_-)-☆」と

笑顔でおっしゃいました。

 

4年後の1995年。

私は宣伝部に異動になり、3月に初めて、

「ドラえもん」の映画の初日を手伝うことになりました。

着ぐるみの役者のみなさんのフォローをし、

たくさんのお客様全員に配る、入場者プレゼントを用意し、

控室係として、大山のぶ代さんはじめ、

素敵な当時の声優陣のみなさんのフォローをし、

「わぁ!ドラえもんってこんなに一大プロジェクトだったんだ!」と

感激していたのですが、さらに感激することが待ち受けていました。

大山のぶ代さんが、当時まだお元気でしたが、

かならず、映画の初日の恒例行事だという、

「♪あったまテカテーカ さえてピッカピーカ それがどうした

ぼくドラえもん~♪」という歌を、

映画館に集まったたくさんのちびっこたちと一緒に

熱唱したのでした。

すると子供たちが嬉々として(だいたい5歳から6歳ぐらいのお子さんが多かったですね)、一緒になって大声で歌うではありませんか!

するとうれしそうな、親御さんたちの笑顔、笑顔、笑顔・・・

初日アンケートをとると、親御さんたちが

「初めての映画体験は、どうしても『ドラえもん』にしたかったのです。

ドラえもんで、僕たちも育ちましたし、友情と家族の大切さを

ドラえもんんでまなびましたから」

とかいてくださいました。

私は、子供たちのうれしそうな歌声を聴いていたら、

涙が滂沱のようにあふれて止まらなくなりました。

すると驚いたのは、当時宣伝部の次長を務められた、

本山暁洋さん、後の東宝アド株式会社

(現・株式会社TOHOマーケティング)の社長を務められ、

「ドラえもん」の映画の宣伝マンとして、

何十年も担当された大ベテランの上司でした。

「チコちゃん、いったいどうした?なんでドラえもんで泣くんだい?」と

やさしく聴いてくださったので、

私が泣きながら、「私、ドラえもんの映画って人生で初めて見たんです。

・・・私が5歳のときに最初に見たのが『ドラえもん』だったら・・・

『ゴッドファーザー』ではなくて・・『ドラえもん』だったら、

私、もっともっと幸せで違う人生を歩んでいたかもしれないのに」

そういうと、わっと本山さんに向かって泣き伏しました。

本山さんは、はっとされたようでしたが、ニコニコとやさしいあの笑顔で、

「チコちゃん、・・・ドラえもんのこと、そんなふうに言ってくれたのは、

君が初めてだよ。ドラえもんは『ゴッドファーザー』より傑作かい?」

とおっしゃるので、私がなきながら、

「ハイ、すばらしい傑作です。

私、遅咲きですけど、ドラえもんに出会えてよかったです」といいましたら、

本山さんも涙ぐんで、「よかったね。よかったね。今からだって、

ドラえもんはオトナの人でも全然楽しめるから、

これからも一緒に応援しようね」とやさしく言ってくださったのでした。

 

それから、数年後。なぜか私は、

立教卒の後輩の女性・Hさん

(彼女はいま退職して、一女のよきママです)と

一緒に組んで、なんだかドラえもんの宣伝チームのまとめ役に

なっておりました。

映画営業部の、おなじく立教法学部の先輩・Sさん

(とてもやさしい男性の先輩です。

今はTOHOマーケティングにいらっしゃると思います)と3人で、

たのしくドラえもんの前売り販促グッズやら、

入場者プレゼントを選定する仕事を任されて張り切りました。

そのうち、Hさんが、宣伝プロデューサーになり

西暦2000年を迎えることになりました。

「チコさん、ご相談です。ドラえもんのポスタービジュアル、

全面的にリニューアルしたいんです。一緒に考えてくれませんか」と

言ってくれました。

 

私は嬉しくて、ずうずうしく彼女にこう進言しました。

彼女はとてもすばらしい女性でしたが、映画も好きだし、

大変な演劇好きでもありました。そこで彼女にこういいました。

 

私「ねぇ、ハムレットのタイトルロールは?」

Hさん「ハムレットです、チコさん」

私「玉三郎さんの『天守物語』のポスター、玉三郎さんはどう映ってる?」

Hさん「玉三郎さんが独りで映ってます」

私「なぜなの、それは?」

Hさん「玉三郎さんが主役だからです」

私「じゃ、ドラえもんのタイトルロールって誰だと思う?」

Hさん「えっ?タイトルロール?‥ドラえもんじゃないですか?」

私「じゃ、この以前からのポスター、ドラえもんはどこに映ってる?」

Hさんは、過去20作のドラえもんの映画のポスターを見て、あっと叫びました。

「あ!・・・キャラクターが多すぎて、ドラえもんがどこにいるか、わからないわ!チコさん!主役はドラえもんなのに、ドラえもんの映画だとわかってもらえない!」

私はHさんの気づきにニヤリとしました。「そう、ビンゴ(^_-)-☆」

私は続けました。「主役はドラえもんなのに、それがわからなければ、

お客様は誰もこれがドラえもんの映画だと気づいてもらえないでしょ。

つまり、もっと興行収入を上げるためには、

1)ドラえもんが大人の鑑賞に堪えられる映画であることをもっとポスターで認知させる。

2)ドラえもんが主役なのだ、とあらためて全面的にドラえもんの魅力をアピールするポスターを作る。

ということが大切なわけ(^_-)-☆」

と言ったら、Hさんの顔がみるみる明るく輝きました!

「チコさん!ありがとうございます!

私、これで製作委員会のひとたちを説得してみます!

ポスターを、外部発注して、コンペティションにかけて、

この2点をおさえたポスターを作ればいいんですね!\(^o^)/」

彼女は社内中を大変根気よく説得し、

ドラえもんの史上初ポスターのコンペティションをかけることを

社内外に宣言しました。

その結果うまれたのが、こちらのポスターです。

なんとおかげさまで、この「のび太の太陽王伝説」は

それまでのドラえもん映画の興行収入を塗り替え、

奇跡のV字回復を成し遂げたのでした!

そして、現在の人気におかげさまでいたっています。

いちばんの私のドラえもんポスターのお気に入りは、こちらです。

宣伝部にいたとき、最後に私たちが手掛けたポスターです。

それから、小学館のスタッフのSさんが私をドラえもんチームに、

ぜひ入ってくれ、と言ってくださり、

いろいろ目をかけてくださり・・

おかげさまで、ドラえもんは私の大切な財産になったのでした!

 

できあがったポスターは、まず真っ先に、当時の東宝本社の

9階にあった、会長室・社長室の廊下に貼ってお披露目するのが

私の役目でした。

石田さんが社長になられ、ニコニコとやってきました。

「ウンウン、このドラえもんのポスターはとてもいいね!」

そして、松岡功・現・東宝㈱名誉会長がニコニコと、

「ええポスターができあがりましたな!かつらぎさん♪」

とほめてくださり、私は本当に幸せでした。

 

あの5歳のとき、父が「ゴッドファーザー」をみせていなければ・・

そして、20代後半で「ドラえもん」に会っていなければ・・

「ドラえもん」シリーズの今日の隆盛はなかったのだろうと思います。

大山のぶ代さんのやさしい歌声が、いつも懐かしく思い出されます。

 

 

・・・そういう意味では、父にも感謝しなくてはなりませんね(笑)?

反面教師ですが、彼は私とはコインの表と裏のような関係なのだと思う、

春の夕べです。

 



最新の画像もっと見る