新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

映画と演劇の街、わたしを育てた調布ものがたり(その1)。

2018-12-22 09:21:31 | 調布という街

ただいま、私は、小学校6年まで育った街・東京都調布市に、両親といっしょにくらしています。のんびりゆったりした街ですが、やはり、住み着くととても落ち着いて、心が安らぎますね!


こちらは京王線調布駅の看板。

もともと調布は、映画の街でした。戦前から、日活・大映が撮影所を多摩川沿いにひらいており、大変さかえていました。父の同級生も、森田芳光監督などの映画でおなじみのカメラマン・前田米造さんがいたりと、映画関係のご子息が多かったそうです。かくいう父も、日活・大映などでオートバイにのって、スターのスタント的なアルバイトをしていた経験があり、石原裕次郎さんの映画でもたびたび、エキストラを務めたそうです。

昔の撮影所というのは、映画全盛時代で、大変な映画人口を誇っていましたので、エキストラの数も半端なく多かったそうです。東宝撮影所の全盛時代は、1200名ものエキストラをさばいていたといいますから、その威容は推して知るべしですね!

日活はもともと、田村正和さんや亮さん、故・高廣さんらの父である大スター・阪東妻三郎さんを迎えるために作った映画会社でした。また、大映は、いわゆる国策の映画会社でありました。

 

※在りし日の阪東妻三郎さん。日本映画最大のスターですね!

阪妻さんは、その日活移籍第一作として、傑作時代劇「恋山彦」(前・後編)に主演され、これが大変なヒットを記録しました。のちに1997年、三男の正和さんが新橋演舞場で舞台化し、こちらも大変な大入りを記録しました。(個人的には、いまこれをやれるのは、まさに海老蔵さんだろうと思います。阪妻さんに風貌もよく似ているし、豪快な立ち回りと気品、平家の落人の末裔という設定がぴったりですね!ぜひご検討をお願いします)

 

http://ja.nikkatsu.wikia.com/wiki/%E6%81%8B%E5%B1%B1%E5%BD%A6

阪妻さんは、「無法松の一生」という当たり役も得て、名優の座を不動のものにしました。戦後は大映で「王将」という、坂田三吉名人の物語も映画化し、こちらも大変なヒットを記録し、自身の代表作となりました。

大映は京都にも撮影所がありましたが、東京ではこちらの調布撮影所を起点として、次々に名作を発表しました。その中で生まれたスターの一人が、私も大好きだった、田宮二郎さん(故人)。「白い巨塔」が最大の代表作で、しかも遺作になってしまいましたが、いまだに人気は絶大ですね!

田宮二郎さんは、調布の仙川にお住まいでした。私は熱狂的なファンでしたが、幼稚園の年長組のとき、仙川の田宮さんのおうちに連れていってくださるというご近所のおばさまに連れられて、幼稚園をさぼって(笑)、見に行きました。奥様が犬の世話をしているのをみて、そのとき、超~ませた子供だった私が「あの、ご挨拶はご遠慮しておきます(笑)奥様に悪いですから」といって、おばさまたちを大笑いさせたそうです。もちろん、あとできいたら、幼稚園のシスター(シスター上村りつ子さんとおっしゃいました)にはバレバレでした(笑)。

でも、その後田宮さんはかなしい亡くなり方をされたので、以来わたしは幼心に、どんなことがあっても、絶対に自分の好きなスターさんには、自分が「あなたが大好きです」と伝えるためにファンレターをまめに書くことにしました。小さな子供が自分のファンだったら、絶対に自信につながるし、絶対に田宮さんのように、かなしい亡くなり方をしなくて済むと思うからです!

そして、折原啓子さん、三条美紀さん、三益愛子さん、若尾文子さん、大木実さん(もともと彼は照明マン出身でした)、根上淳さん、江波杏子さん、本郷功次郎さん、南田洋子さんなどなど。

本郷功次郎さんは大映の青春スターとして、「ガメラシリーズ」「釈迦」などの大作に次々主演し、人気を不動のものとしました。

 

 

木暮実千代さんに見いだされ、俳優として人気を博した大木実さん。父の思い出によれば、よく多摩川の撮影所の隣接した空き地(今の調布南高校のあたり)で野球に興じるなど、気さくな一面もおありだったそうです。

人気スターでももっとも影響力を発揮した市川雷蔵さん(故人)は、歌舞伎役者出身で、市川寿海さんのお弟子さんでしたが、京都で頭角を現した後、東京の撮影所でも次々に傑作を発表していきます。代表作の人気シリーズである「眠狂四郎シリーズ」をはじめとして、「忍びの者」「炎上」「陸軍中野学校シリーズ」などを発表しますが、37歳という若さで夭折してしまいます。

もちろん、長谷川一夫さんも大映の顔として「地獄門」でベネチア映画祭グランプリを受賞後、大スターとして君臨していきます。もともとは林長二郎という芸名でした。初代中村鴈治郎さんのお弟子さんで、彼も歌舞伎役者でしたが、歌舞伎で培った実力と、きわだった美貌でまたたくまに、「二枚目役者」の代名詞として、日本で初めて俳優として、国民栄誉賞を受賞することになります(没後)。東宝でも、演劇で東宝歌舞伎を毎年正月に公演し、大入り満員を毎年記録し、東宝の演劇を支える立役者となったのでした。

女優さんではなんといっても、山本富士子さん。ミス日本で、抜群の美貌を誇った彼女は、次々に日本映画の大作に主演します。が、いわゆる「五社協定」で大変なバッシングにあい、活動の場を演劇に移します。その主戦場になったのが、東宝の演劇であり、山本富士子さんは、こちらでも次々と名舞台を披露していき、名実ともに大女優になっていきました。

また、やはりなんといっても忘れてはならないのは、京マチ子さん。松竹歌劇団出身で、抜群のプロポーションを誇り、黒澤明監督の「羅生門」でスターダムにのぼりつめました。

 

また、話は前後しますが、「座頭市シリーズ」で大スターの座に上り詰めた、勝新太郎さんは、長唄のおうちのご子息でした。お兄様の若山富三郎さんとともに、絶大な人気を晩年まで誇りました。奥様は、二代目中村鴈治郎さんの娘であり、坂田藤十郎さんの妹でもある、中村玉緒さん。こちらも映画がご縁で、ゴールインしました。

若尾文子さんは、私がもっとも好きな大女優さんのひとり。品格があり、素敵で、いまなお輝きをはなっておられますが、彼女も大映のスターとして人気を博しました。「雁の寺」で大スターとしての座を確保しました。

プロデューサーで大変有名なのは、永田ラッパ、こと永田雅一さんでした。ラッパというのは、とにかくすごいほらを吹くので、こうしたあだ名がついたのでした。

ちなみに、私が前の夫と結婚して東宝宣伝部に異動になったとき、夫の姓である永田を名乗ったら、当時の専務・堀内實三さんが「そんな名前を使うな!永田だなんて!」と苦笑いをされた思い出があります。そのくらい「永田」といえば「大映の永田ラッパ」でした。が、いまはふとっちょの「東宝の永田」が日本映画界ではまかりとおっております(笑)

というわけで、今回は、「映画の街・調布 ~戦後の大映撮影所編~」をお送りしました。次回はよく調べて、戦後の日活撮影所編をお届けしたいと思います!

※まだまだ網羅しきれないので、スターさんで登場されていない方もいらっしゃいますが、写真はとりあえず、ネットで画像保存できるものを出してありますのでご了解いただければと存じます。

 

 



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