真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

向田邦子ベスト・エッセイ ~「3月の東京大空襲」で辛くも焼失を免れた話はホント?1/2

2021-11-27 | 読書-エッセイ/小説etc
8月に没後40年、11月28日に生誕92年。~1929年(昭和4年)11月28日 - 1981年(昭和56年)8月22日。
向田邦子 亡くなって40年 時代を越えて読者を引きつける理由 | NHKニュース

刊行日: 2020/03/09
OGPイメージ

向田邦子ベスト・エッセイ

お人好しと意地悪、頑固と機転… 人間の面白さを描いた名エッセイ!家族、食、旅など、テーマ別に末妹が50篇を精選

筑摩書房

 


邦子(1929~1981)の9歳年下の向田和子さん(1938~)による編者あとがきがサイコー!
和子さんが小学生の頃、宿題の作文を(頼んでいないのに)邦子が書きたがり、小学生目線で(先生に)ばれないように巧みに書いてくれた。
中学生になっても、スキあらば書きたがったのだが、あまりにも巧み過ぎるので、これはもうバレると気付いた・・・。

さて、南面堂は天邪鬼なもので、何度も出てくる「3月10日の東京大空襲で、向田一家が当時住んでいた目黒・祐天寺そばの戸建て住宅の社宅(長女邦子と誕生日が同じ父の敏雄は東邦生命の前身の徴兵保険会社の営業管理職)がすんでのところで焼失を免れた」件が、事実関係に疑問があることを指摘する。

要旨:
1)場所は本人申告を信じるしかない(目黒区中目黒4丁目?)←下目黒4丁目かもしれないが結論に影響なし
2)実は目黒区(を含む山の手地区)は3月10日は被害なし
  空襲被害に遭ったのは、1945年4月から5月(山の手空襲)←ホントはこっちじゃね?
渋谷・表参道は「焼死体の山」となった――米軍が実行した残虐な「山の手空襲」とは | デイリー新潮
 ~日付が勘違いかウケ狙いなのか定かではない。
 3月の「東京大空襲」に続いた4・5月の「山の手空襲」でも大きな被害がでているものの、日本中の他の都市と同様。
 →圧倒的な大被害で有名な「3月10日の東京大空襲の際の話」ということに、あえてしたものではないか?
  (その方がドラマチックな印象を読者に与えられると計算した=話を盛った、のではないかしら)

まずは地域の概況:
向田邦子と中目黒っ子 ~イメージの街・中目黒<前編>~ | 東京カンテイ マンションライブラリ
世田谷区若林-宇都宮-中目黒三丁目-下目黒四丁目-鹿児島-高松-中目黒四丁目、というのが、調べた方による居住実績らしい。
※ただし、「向田邦子をめぐる17の物語」(2002年)巻末の年譜には、一家で1942年に高松から東京・中目黒に転居の後、1943年9月に目黒区内で転居したとの記載あり。
文春文庫『写真とエッセイで綴る姉の素顔 向田邦子の青春』向田和子編著 の巻末年譜には、1942年4月に一家は高松から中目黒4丁目へ(本人も9月に引っ越し)、1943年9月に下目黒4丁目に転居、と記載あり。
んもう、中目黒4丁目と下目黒4丁目がごっちゃになっている!
(下目黒四丁目に住んだのが、「鹿児島-高松-中目黒四丁目」の前なのか、後なのか。二通りの記述がみられる)。
なお、旧市街表示の地図でみると、中目黒4丁目と下目黒4丁目は隣接している。
下記ページの最下部<向田邦子の東京地図(旧住所表示) -1->に掲載されている

向田邦子の東京を歩く(1) 2003年11月15日「東京紅團」
昭和17年4月 香川県立高松高等女学校入学(一学期のみ)
一家は東京都目黒区中目黒四丁目に転居
9月 東京市立目黒高等女学校に編入学(→東京都立目黒高等女学校(現都立目黒高校))

ちょっと寄り道:
「…女学校一年のとき、編入試験を受けた。四国の県立高女で一学期を終えたところで父が転勤になった。東京府立の名門女学校の試験を受けさせられたのである。」(「夜中の薔薇」)という記述から、上掲東京紅團(東京紅団)さんは
「実は、目黒高女を受験する前に、もう一校編入試験を受けています。多分、御茶ノ水高女をうけたのではないでしょうか。」
との推定を展開しているが、官立御茶ノ水高女ではなく、別の東京府立女学校だと思う。
御茶ノ水高女こと、東京女子高等師範学校 - Wikipedia附属高等女学校は、官立即ち国立であり、「(東京)府立の名門女学校」ではない
当時の人が官立と府立を混同することはない。

祐天寺の近くに住むことになる生徒が通いやすい「府立の名門女学校」は、(浅草や小石川ではなく)麻布(現六本木6丁目)にあった「東京府立第三高等女学校」ではないか?
東京府立第三高等女学校発祥の地
「戦前は女子高等教育の名門として「浅草の一女(現・白鴎高校)・小石川の二女(現・竹早高校)・ 麻布の三女」と呼ばれていた」
太平洋戦争時に空襲により校舎が焼失し, 1946(昭和21)年に現在地である駒場(目黒区大橋)に移転, 1948(昭和23)年に「第三女子高等学校」となったが, 1950(昭和25)年「東京都立駒場高等学校」と校名を変更

空襲の話にもどる:
向田邦子と防空法――火叩きによる消火
「三方を火に囲まれ、もはやこれまでという時に、どうしたわけか急に風向きが変り、夜が明けたら、我が隣組だけが嘘のように焼け残っていた。私は顔中煤だらけで、まつ毛が焼けて無くなっていた。・・・」

さてさて、3月10日の東京大空襲というのは、どの地域が攻撃されたものだったっけ?を確認にいくことにする。
続きは明日・・・

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