今回はつまらない話になります。
あまり詳しくはないのですが、今から数十年前の話、無知なまま北朝鮮へ移住して痛い目にあった日本人の方々がいらっしゃるようです。
「地上の楽園」なんて朝日新聞あたりが持ち上げたりして、日本から移住者を送り込んだという話を読んだことがあります。
持ち上げた朝日新聞に言わせれば、「国家主導の在日追放策」だという話ですが、今回それは横に置いといて…
1960年といえば、まだまだ日本の地方では貧困家庭が多かったと思います。
このまま食えない片田舎で暮らすよりも、思い切って外国へ嫁いだ方がいいと考えたご婦人方が居たのでしょうか、それとも何処かの出先機関から推薦されたゆえの決断か、或いはその両方かって具合で、彼の地の実情も知らないままに飛び込んじゃって、帰りたいけど帰れない、そんな悲劇のニュースを読んだことがあります。
まあ、当時の日本は東京や大阪といった大都市を浮上させるので精一杯の時期だったと思いますが、地方は経済から取り残されて、おざなりって状態は容易に想像できます。
なかなか全体を同時に浮上させるのは現実問題で無理な話のようでして、どうしても局地的に盛り上げては周囲を埋めてゆくという作業になっちゃうのでしょう。
敗戦後の20年辺りではまだまだ日本中に手付かずの場所が多かったのではないでしょうかね。
そういう時代的な制約、無知無学であるがゆえに踊らされた庶民、貧困が生んだ悲劇、そんな例を探せば枚挙に暇がないほどあるでしょう。
真実の情報、材料がなければ考える事もままならず。
何を判断するにも、まずは知る事から。
それから考えて、選択する順番があります。
もとろんテキトーで嘘っぱちな情報ソースも多いので、個人での精査も欠かせません。
ここで一番問題になるのは、①イデオロギーや主義主張を判断の拠り所にする。
そんな色眼鏡を掛けたままの状態で、思考をいくら繰り返したところで正しい結論には辿り着けないと思います。
上記の例でいえば、「地上の楽園」なんていう情報操作、プロパガンダとなります。
また、この国こそアッラーを体現する国に違いないと、イスラム国に入ったはいいが、なぜか人殺しばかりやらされるって例もあります。
人のための神の筈が、なぜか神のための人になっちゃってて、神のために殺し、神のために死ぬなんて歴史話は多いですね。
まあ、信じ込んでいる人に向かって、「それは色眼鏡だ」って教えたところで無駄なんですけどね。
しばらく茶色のサングラスを掛けてて突然外したりすると、ことさら風景が青く見えるのですが、そんな感じで「あんたのメガネは茶色いから」と指摘すると、「私のメガネは茶色くない真っ白です!あんたが青いメガネを掛けてるだけ」な~んて叱られたりしますよね、
ははは(;^_^A
もちろん、「愛とは、決して棄てないこと」だとか、「信じることは尊くて、疑うことは卑しい」なんていう、言葉による縛りもその範疇にあります。
だいたいそういう言葉を考え出した人ってのは、ある意図や目論見があって、期待する効果を達成せんがために発した言葉であることが多いのですね。
「子が親の面倒を見るのは当然だろう」だとかいう割には、年金はずべて遊び金に回してるって話もありますが、そんな反論しずらい言葉のなかにマインドコントロールの仕掛けがあったりします。
佛教では、そのような色眼鏡の事を「無明」だとか「無智」、或いは「悪見」だとかいって戒めてますね。
明かりがなければ船は座礁しますよと。
それから次の問題は、②「好き」とか「嫌い」といった感情で判断してしまうことです。
これはですね~、根が深いですよ。
現代の幼児教育が好き嫌いで判断させてる方向性にありますからね。
ウチの娘が日本から帰ってきた後は、「K子、○○大好き~♡」っていうフレーズをよく使うんですよ。
そんなときは「ホントに好きなのか?」って言って、もっと好きそうな状況を提示して意地悪するんですが(笑)
しばらく考えて、「こっちの方が好き!」なんて乗り換え自由自在ww
好き嫌いなんて、実にテキトーな感情です。
まったく不確かですよ。
比べてどうこうっていう、相対的な価値でしかない。
佛教では、そういう「感情」をひっくるめて「妄想」という言葉で否定していますが、
驚くことに、「美味しい」とか「美しい」とかいった価値概念すら単なる感情からくる「妄想」だとしてぶった切ってますから、私なんかひっくり返りそうになりましたが、こちらは解脱希望の人向けの話になりますから今回は飛ばします。
え~それで、なんで妄想感情が遺憾かというと、娘の例にもありますが、簡単に覆るからです。
「昨日の好きは、今日の嫌い」って話は多いです。
この状態を佛教では「無常」と呼んでいますが、好き嫌いを元に重要な決断をされると、後でとんでもない状況に追い込まれたりしますよね(ゴホンゴホン)
まあ、カラオケ一つとっても好きじゃないと上達しない訳でして、「好きこそ物の上手なれ」とも言いますから、それも大切な要素なんでしょうけども。
大人になってからも重要案件での判断が「好き嫌い」だったりするから問題なんです。これが人類の幼稚化を促進してるかもしれません。
もう好き嫌いで判断してるうちは、とっかえひっかえの連続になります。
「もっと良い人がいるんじゃないか?」、「もっと素晴らしい境遇があるはず」
そういう相対の中で生きてますから、満足なんて絶対にありえない。
逆にいったん嫌いと認定したなら、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的に嫌うわけですが、次にもっと強烈で嫌いな状況に遭遇すると、「あれも良かったよね」っていきなりランクアップしたりして、時すでに遅しってことも(-_-;)
このように感情の領域で判断してるうちは、答えなく延々と堂々巡りの人生になってしまうわけです。
この①と②ですが、実は人類を縛る最悪のハードルだと私は思ってるんです。
これを飛び越えなくちゃ、人類に平和なんて絶対に訪れない。
まあ皆さんは、自分の好きな事、好きなモノ、好きな人を否定されると怒りの念が沸き起こると思うのですがどうでしょうか。
歌が趣味の人に対して音楽の悪口なんて言えないでしょうし、文章が好きな人にも文学の悪口は言えません。
AKB命の人に「足は太い短いし、これでいいの?」なんて言えませんね。
タイが最高だと思ってる人に「トンデモ国」とか言ってみてください、そりゃ~~~、もう大騒ぎさ。
「喧嘩売ってんのかコラ」って言われちゃいますが、実は個人批判はしてないんですよね。その対象に対して意見してるだけなんですが、妄想連結しちゃって自分を否定されたのと勘違いするのです。
「妄想連結」は私の造語ですが、この辺りから発症する喧嘩が意外と多い、修復不可能なくらいに。
そしてもっと深刻なのが、宗教やイデオロギー、主義主張への批判です。
共産主義国の人民に「共産とは格差の極致だし恐怖政治そのものだ」なんて言うとどうなるか。
また右翼の人に「誰だってサルから進化した動物だよ」なんて言うと?
戦争ばっかりしてるイスラム教やキリスト教徒に「カルトもいい加減にして欲しい」などと言ってみてください。
今度はナイフや銃弾が飛んできます((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
自分の人格を否定された訳でもないのに、顔を真っ赤っ赤にして怒り狂うことでしょう。 怒るならまだしも、血が流れたりしますからね。
タイ国では、国家や王族への批判は大きな罪だと設定されてます。
それも、詐欺窃盗なんかよりも重い罪なんですよ、すごいでしょ。
泥棒やひき逃げくらいでは警察が動いてくれない場合も多くて、ぜーんぜん罪にならなくてもですね、なぜか国家批判は確実に罪となる国なんです。
昨年だったかチェンマイ大学の先生方が7人くらいで会合を開いてですね、この国の教育には憂いがあるということで国に意見書を作成したんですか?
皆さん速攻で軍事政治に捕まりましたね。
収監されてる間になんて脅されたのかは不明ですが、「君たち、もう一回やったら行方不明になっちゃうかもね」ってサラリと言われたのかも…怖!
開かれた21世紀だなんて言葉は全くの世迷言、世界中では密室の恐怖政治が普通に行わている現実があります(タイはまだイイほう?)
そういうのは国家が維持を目的にして意図的に行う施策ですから、どこの国にでもある事でしょう。
アメリカだって自由の国だとかいう割には、テキサス辺りの核実験による悲惨な被爆に触れるのはタブーだっていうじゃないですか。
その国に住む人は、そんな国家の力技に従うしかありませんが、個人となると別の部分で問題あり。
実はワタクシ、あるタイ語の先生に「タイは嫌い」って言ってみたことがありますが、そりゃーーもう、大変な事になりましたね。
数か月の付き合いで、お互い気心知れたと勝手に思っての発言でした。
なぜそんなアホな事を話したかというと、ある効果を期待してのことです。
私の予想ではですね、「何か問題でもあったんですか?」とか、「そんなに嫌な事が続いたんですか?」なんてレスポンスがあると思ったんですよ、優秀な学卒だし。
そして「いや、実はですね…」と会話のキャッチボールが進むうちに、なにか有効なる打開策が得られるかもしれないと考えた。
ところがですね、帰って来た反応といえば瞬間反発、無言の抗議だけでした…(涙)
それ以来は雑談拒否、険悪なムードでプログラムを消化するだけとなりましたトサ。
それで確信に至った事柄もあります、「やっぱりか」と。
有名大学出、優秀な知的階級のはずの先生は、国家と自分とを同一視してるわけです。
つまり国家=私、国家への侮辱=私への侮辱、という図式に見事にハマってるんですわ。
信じ切ってるというレベルでは宗教のそれと同じ。
子供の頃からの強制刷り込みが強くて、なかなか白紙の状態で考えるなんてのは無理なのかもしれませんが、程度の差こそあれカルト宗教の恐ろしさと共通してる部分がありますね。
これは余談ですが、実はお釈迦さまは、信じるという行為を戒めたようですね。
信じるよりも確認の方が安全だし確実だぞと。
信じるのはリスクを伴うぞと、それが間違ってた場合は取り返しがつかんぞと仰って信仰を勧めなかったそうです。
それが、なぜか時代を下るとご自身が信仰対象になってしまい、不本意な形となってしまいますが、その話はまたいつか。
そういう事で迷妄の人類は、好きなモノ、好きな事柄、信じる主義主張などと自分自身とを重ねて同一視してしまう現象に見舞われてしまいがち。
心理学ではなんていいうのか知りませんが、自分が貶された訳でもないのに、なぜか自分が貶されたと勘違いして怒るという現象が起こります。
「俺を侮辱したのと同じことだー!」ってよく聞きますが、同じって何がだよ、と思いませんか?、同じはずがありません、現時点では身近ってだけの話。
時間が立てば逆になる話は多いですよ。
たとえば「あんたの子供はクソガキだな」だとか言われたら、「なんやて?お前のガキの方がアホダラやんけ」と言い返しちゃうのが普通でしょう。
でもこれが30歳の子供だったりすると「あ、やっぱり?、それでアイツ今度は何やらかしました?…」なんていう展開に…
それなんかも「妄想連結」を現わした例です。
かくて人類は妄想連結を加速して、ゆえに喧嘩を誘発し、更に銃を乱射して、ためらわずに爆弾を落とせる状態となっていくわけです。
まとまらない文章になりましたが、ご精読ありがとうございましたm(__)m
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あまり詳しくはないのですが、今から数十年前の話、無知なまま北朝鮮へ移住して痛い目にあった日本人の方々がいらっしゃるようです。
「地上の楽園」なんて朝日新聞あたりが持ち上げたりして、日本から移住者を送り込んだという話を読んだことがあります。
持ち上げた朝日新聞に言わせれば、「国家主導の在日追放策」だという話ですが、今回それは横に置いといて…
1960年といえば、まだまだ日本の地方では貧困家庭が多かったと思います。
このまま食えない片田舎で暮らすよりも、思い切って外国へ嫁いだ方がいいと考えたご婦人方が居たのでしょうか、それとも何処かの出先機関から推薦されたゆえの決断か、或いはその両方かって具合で、彼の地の実情も知らないままに飛び込んじゃって、帰りたいけど帰れない、そんな悲劇のニュースを読んだことがあります。
まあ、当時の日本は東京や大阪といった大都市を浮上させるので精一杯の時期だったと思いますが、地方は経済から取り残されて、おざなりって状態は容易に想像できます。
なかなか全体を同時に浮上させるのは現実問題で無理な話のようでして、どうしても局地的に盛り上げては周囲を埋めてゆくという作業になっちゃうのでしょう。
敗戦後の20年辺りではまだまだ日本中に手付かずの場所が多かったのではないでしょうかね。
そういう時代的な制約、無知無学であるがゆえに踊らされた庶民、貧困が生んだ悲劇、そんな例を探せば枚挙に暇がないほどあるでしょう。
真実の情報、材料がなければ考える事もままならず。
何を判断するにも、まずは知る事から。
それから考えて、選択する順番があります。
もとろんテキトーで嘘っぱちな情報ソースも多いので、個人での精査も欠かせません。
ここで一番問題になるのは、①イデオロギーや主義主張を判断の拠り所にする。
そんな色眼鏡を掛けたままの状態で、思考をいくら繰り返したところで正しい結論には辿り着けないと思います。
上記の例でいえば、「地上の楽園」なんていう情報操作、プロパガンダとなります。
また、この国こそアッラーを体現する国に違いないと、イスラム国に入ったはいいが、なぜか人殺しばかりやらされるって例もあります。
人のための神の筈が、なぜか神のための人になっちゃってて、神のために殺し、神のために死ぬなんて歴史話は多いですね。
まあ、信じ込んでいる人に向かって、「それは色眼鏡だ」って教えたところで無駄なんですけどね。
しばらく茶色のサングラスを掛けてて突然外したりすると、ことさら風景が青く見えるのですが、そんな感じで「あんたのメガネは茶色いから」と指摘すると、「私のメガネは茶色くない真っ白です!あんたが青いメガネを掛けてるだけ」な~んて叱られたりしますよね、
ははは(;^_^A
もちろん、「愛とは、決して棄てないこと」だとか、「信じることは尊くて、疑うことは卑しい」なんていう、言葉による縛りもその範疇にあります。
だいたいそういう言葉を考え出した人ってのは、ある意図や目論見があって、期待する効果を達成せんがために発した言葉であることが多いのですね。
「子が親の面倒を見るのは当然だろう」だとかいう割には、年金はずべて遊び金に回してるって話もありますが、そんな反論しずらい言葉のなかにマインドコントロールの仕掛けがあったりします。
佛教では、そのような色眼鏡の事を「無明」だとか「無智」、或いは「悪見」だとかいって戒めてますね。
明かりがなければ船は座礁しますよと。
それから次の問題は、②「好き」とか「嫌い」といった感情で判断してしまうことです。
これはですね~、根が深いですよ。
現代の幼児教育が好き嫌いで判断させてる方向性にありますからね。
ウチの娘が日本から帰ってきた後は、「K子、○○大好き~♡」っていうフレーズをよく使うんですよ。
そんなときは「ホントに好きなのか?」って言って、もっと好きそうな状況を提示して意地悪するんですが(笑)
しばらく考えて、「こっちの方が好き!」なんて乗り換え自由自在ww
好き嫌いなんて、実にテキトーな感情です。
まったく不確かですよ。
比べてどうこうっていう、相対的な価値でしかない。
佛教では、そういう「感情」をひっくるめて「妄想」という言葉で否定していますが、
驚くことに、「美味しい」とか「美しい」とかいった価値概念すら単なる感情からくる「妄想」だとしてぶった切ってますから、私なんかひっくり返りそうになりましたが、こちらは解脱希望の人向けの話になりますから今回は飛ばします。
え~それで、なんで妄想感情が遺憾かというと、娘の例にもありますが、簡単に覆るからです。
「昨日の好きは、今日の嫌い」って話は多いです。
この状態を佛教では「無常」と呼んでいますが、好き嫌いを元に重要な決断をされると、後でとんでもない状況に追い込まれたりしますよね(ゴホンゴホン)
まあ、カラオケ一つとっても好きじゃないと上達しない訳でして、「好きこそ物の上手なれ」とも言いますから、それも大切な要素なんでしょうけども。
大人になってからも重要案件での判断が「好き嫌い」だったりするから問題なんです。これが人類の幼稚化を促進してるかもしれません。
もう好き嫌いで判断してるうちは、とっかえひっかえの連続になります。
「もっと良い人がいるんじゃないか?」、「もっと素晴らしい境遇があるはず」
そういう相対の中で生きてますから、満足なんて絶対にありえない。
逆にいったん嫌いと認定したなら、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的に嫌うわけですが、次にもっと強烈で嫌いな状況に遭遇すると、「あれも良かったよね」っていきなりランクアップしたりして、時すでに遅しってことも(-_-;)
このように感情の領域で判断してるうちは、答えなく延々と堂々巡りの人生になってしまうわけです。
この①と②ですが、実は人類を縛る最悪のハードルだと私は思ってるんです。
これを飛び越えなくちゃ、人類に平和なんて絶対に訪れない。
まあ皆さんは、自分の好きな事、好きなモノ、好きな人を否定されると怒りの念が沸き起こると思うのですがどうでしょうか。
歌が趣味の人に対して音楽の悪口なんて言えないでしょうし、文章が好きな人にも文学の悪口は言えません。
AKB命の人に「足は太い短いし、これでいいの?」なんて言えませんね。
タイが最高だと思ってる人に「トンデモ国」とか言ってみてください、そりゃ~~~、もう大騒ぎさ。
「喧嘩売ってんのかコラ」って言われちゃいますが、実は個人批判はしてないんですよね。その対象に対して意見してるだけなんですが、妄想連結しちゃって自分を否定されたのと勘違いするのです。
「妄想連結」は私の造語ですが、この辺りから発症する喧嘩が意外と多い、修復不可能なくらいに。
そしてもっと深刻なのが、宗教やイデオロギー、主義主張への批判です。
共産主義国の人民に「共産とは格差の極致だし恐怖政治そのものだ」なんて言うとどうなるか。
また右翼の人に「誰だってサルから進化した動物だよ」なんて言うと?
戦争ばっかりしてるイスラム教やキリスト教徒に「カルトもいい加減にして欲しい」などと言ってみてください。
今度はナイフや銃弾が飛んできます((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
自分の人格を否定された訳でもないのに、顔を真っ赤っ赤にして怒り狂うことでしょう。 怒るならまだしも、血が流れたりしますからね。
タイ国では、国家や王族への批判は大きな罪だと設定されてます。
それも、詐欺窃盗なんかよりも重い罪なんですよ、すごいでしょ。
泥棒やひき逃げくらいでは警察が動いてくれない場合も多くて、ぜーんぜん罪にならなくてもですね、なぜか国家批判は確実に罪となる国なんです。
昨年だったかチェンマイ大学の先生方が7人くらいで会合を開いてですね、この国の教育には憂いがあるということで国に意見書を作成したんですか?
皆さん速攻で軍事政治に捕まりましたね。
収監されてる間になんて脅されたのかは不明ですが、「君たち、もう一回やったら行方不明になっちゃうかもね」ってサラリと言われたのかも…怖!
開かれた21世紀だなんて言葉は全くの世迷言、世界中では密室の恐怖政治が普通に行わている現実があります(タイはまだイイほう?)
そういうのは国家が維持を目的にして意図的に行う施策ですから、どこの国にでもある事でしょう。
アメリカだって自由の国だとかいう割には、テキサス辺りの核実験による悲惨な被爆に触れるのはタブーだっていうじゃないですか。
その国に住む人は、そんな国家の力技に従うしかありませんが、個人となると別の部分で問題あり。
実はワタクシ、あるタイ語の先生に「タイは嫌い」って言ってみたことがありますが、そりゃーーもう、大変な事になりましたね。
数か月の付き合いで、お互い気心知れたと勝手に思っての発言でした。
なぜそんなアホな事を話したかというと、ある効果を期待してのことです。
私の予想ではですね、「何か問題でもあったんですか?」とか、「そんなに嫌な事が続いたんですか?」なんてレスポンスがあると思ったんですよ、優秀な学卒だし。
そして「いや、実はですね…」と会話のキャッチボールが進むうちに、なにか有効なる打開策が得られるかもしれないと考えた。
ところがですね、帰って来た反応といえば瞬間反発、無言の抗議だけでした…(涙)
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それで確信に至った事柄もあります、「やっぱりか」と。
有名大学出、優秀な知的階級のはずの先生は、国家と自分とを同一視してるわけです。
つまり国家=私、国家への侮辱=私への侮辱、という図式に見事にハマってるんですわ。
信じ切ってるというレベルでは宗教のそれと同じ。
子供の頃からの強制刷り込みが強くて、なかなか白紙の状態で考えるなんてのは無理なのかもしれませんが、程度の差こそあれカルト宗教の恐ろしさと共通してる部分がありますね。
これは余談ですが、実はお釈迦さまは、信じるという行為を戒めたようですね。
信じるよりも確認の方が安全だし確実だぞと。
信じるのはリスクを伴うぞと、それが間違ってた場合は取り返しがつかんぞと仰って信仰を勧めなかったそうです。
それが、なぜか時代を下るとご自身が信仰対象になってしまい、不本意な形となってしまいますが、その話はまたいつか。
そういう事で迷妄の人類は、好きなモノ、好きな事柄、信じる主義主張などと自分自身とを重ねて同一視してしまう現象に見舞われてしまいがち。
心理学ではなんていいうのか知りませんが、自分が貶された訳でもないのに、なぜか自分が貶されたと勘違いして怒るという現象が起こります。
「俺を侮辱したのと同じことだー!」ってよく聞きますが、同じって何がだよ、と思いませんか?、同じはずがありません、現時点では身近ってだけの話。
時間が立てば逆になる話は多いですよ。
たとえば「あんたの子供はクソガキだな」だとか言われたら、「なんやて?お前のガキの方がアホダラやんけ」と言い返しちゃうのが普通でしょう。
でもこれが30歳の子供だったりすると「あ、やっぱり?、それでアイツ今度は何やらかしました?…」なんていう展開に…
それなんかも「妄想連結」を現わした例です。
かくて人類は妄想連結を加速して、ゆえに喧嘩を誘発し、更に銃を乱射して、ためらわずに爆弾を落とせる状態となっていくわけです。
まとまらない文章になりましたが、ご精読ありがとうございましたm(__)m
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