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a lively time

ハラハラドキドキ、ワクワクソワソワの毎日。

感涙!

2012年05月22日 | No Live,No Life
海から~♪
「サマーインサマー」の第一声を聴いた途端に涙が溢れ出てきた。
この人、なんだ!化け物かぁ~~
昔とまったく変わらない歌声が嬉しくて嬉しくて嬉しくて・・・!
次の「水色の雨」で、もう、ダメ。鼻水まで垂れてきちまったい!!

≪八神純子コンサートツアー2012≫ @川口リリア

心打たれたのは歌声だけじゃない。
彼女の、パワーアップした生き方に裏付けされた説得力のある歌唱!

“こわいものは何もない”
“自分のことは自分で決める”
“私には強い味方がいる。私には、私がついている”
“私を照らす太陽は、私の笑顔だ”

MCの言葉も今のぼくの胸にダイレクトに飛び込んでくる。

一曲一曲、ひと言ひと言に涙が出て止まらない。
持っていたテッシュを使い切っちゃったら、おかーこもウルウルしながらお代わりをくれた(笑)

アンコールの「パープルタウン」
2F席で、おかーこと一緒にスタンディング!
ちょちょびれる涙を払いながら、一緒に歌った!
感激?感動?感銘?
…いやいや!そんな陳腐な言葉では言い表せないほど心が波打ってた…
う~ん、やっぱ、勇気をありがとう!としか言えない!!

ステージが終って、何の躊躇もなくおかーこと抱き合った。(*^_^*)


優しさにつつまれて(3)

2012年04月08日 | No Live,No Life
清清しい気持ちで日暮里の坂を下る。

お店の前で煙草を吸っていたマスターいと~さんが目を真ん丸にして
「あらぁ~、久しぶりです~」と笑顔で迎えてくれた。
え~、1年以上も来てなかったけぇ?そんな気しないけどなぁ~
津村夫妻のライブ以来なのは確かなんだけど・・・
最近はさ、夜になってわざわざ出かけるのがしんどくなっちゃてさ~

白州の水割りをオーダーする。
以前は、GARGERYを2杯ぐらい飲んでからFOUR ROSESをストレートでぐいぐい飲ってたのを知るいと~さん
「薄めに、しときます?」
う~ん、いい香りがする程度に(笑)

ライブは東輝美さん(Vo,G)山崎岳一さん(7G)のブラジル系。
東さんのギターに長谷川きよしのような力強さを感じて聴き入る。
♪からっぽの部屋
言葉は理解できなくても、東さんの歌唱から「具体的な悲しみ」が伝わってくる。
なんちゅう世界なんだろう。久しぶりの生音のせいもあるのだろうけど、とても落ち着く。
もがくほどの悲しみの果てに訪れる安らぎさえ感じる。
日本語ヴァージョンの♪smile
ん?とたじろぐ。孤独感がじわじわとしみ出るようなスマイルだ。
闇の中でも必死に何かを求める「菩薩の微笑み」

もう間もなく寝んねの時間(笑)残念だけど、1stだけで帰路につくことに。
「コレ、よかったら聴いてください」
いと~さんからDomingoのライブCDを渡される。
いや~、でも返しに来れないかも知れないし・・・
「そんなこといいですよ。コピーなので差し上げますよ」

Bar Portoを思い出しながら聴かせてもらうね(^_-)-☆
ありがとう。。。

10月31日(月)のつぶやき

2011年11月01日 | No Live,No Life
18:01 from Seesmic
六本木のいつものお店。コンサート前には必ずココに寄る。カラヤン広場前のレストランパブ。ギネスのハーフを飲みながらフランスパンをかじる。今日のフードはオムレツにした。うまい! http://t.co/OJu3eIoM
21:52 from Seesmic
佐渡さんの、なんとまぁ凄まじい圧倒的なカリスマ性に感服。収穫はボジャノフ!ぼく好みの、とても艶やかなピアノを聴かせてもらいました。
by kappapa39 on Twitter

セッション

2011年04月21日 | No Live,No Life
CT予約の連絡をもらった夜、
ACOUSTIC HOUSE JAM に出かけた。

おととい髄膜炎の治療を終えて退院したばかりだという
堤さんのパワフルなSAXを聴く。
さすがに余計なことを考えずに済む。
ライブはやっぱいい。
・・・駅に向かうバスでも歩いていても
どーするど-するのどーどーめぐり・・・
そんな自分から開放される。

ふと思い立って
1stだけで席を立った。
繁華街に向かう。
途中、手相見の前を通り過ぎ
はたと思い、戻った。
初めて手相を見てもらう。
「間違いなく長生きします」と言われた。
「今日は暖かい夜だね」ニコッ。

思い立ったのは、トーク・セッション。
40年来通いなれた南銀の店で話しがしたくなった。
先ずは閉店通知がきていた割烹。
いまだに少女漫画みたいにキランとした瞳のママと(笑)
ひとしきり昔話。古き良き時代を懐かしむ。
小料理屋のクロチャンとこも久しぶりだ。
時代は変わっても同じペースで頑張ってた。
52年も続いてる Bar ではお客さん同士で盛り上がり、
最後は一応フランチャイズとしているお店。
ぼくの病歴を全て知っているコたちを前に粋がってみせる。
乳がん経験者のママは最近、鬱っぽくなっちゃったとか。
電話で励ましてやった!(爆)

♪歩みを止めたきゃ言いな
 悩み多きときこそ笑いな
 我が胸の奥の葛藤や身を切るような絶望も
 Oh,yeah・・・・・・

日暮里、秋の夕暮れ

2010年10月11日 | No Live,No Life
「痩蛙まけるな一茶ここに有」「我と来て遊べや親のない雀」それと、墓参のたびに見かける句碑にある「陽炎や道灌どのの物見塚」ぐらいかな。名こそ知りながらも知る句はその程度だった小林一茶だったけど、ご先祖様のお導き(?)縁ありて一茶に接する機会を得た。

10/10 オペラ「小林一茶 七番日記」@日暮里サニーホール

東城弥恵さんのナレーションで幕が上がった・・・とはいえ幕はない。舞台上には立方体の箱がいくつかと天井から独特の書体で書かれた一茶の句が何張りか垂れ正面には大きなスクリーン・・・そのスクリーンに「第1幕 序の歌 流寓の人と思える花筏 一行」と映し出されナビゲーター4人(ソプラノ4・メゾ1)によって合唱される。この句はこの公演のために檀那寺のご住職が先人たちを想いこさえた句だそうだけれど、そんな個人的な思い入れはすっ飛ぶ見事な演奏とのハーモニーで始まった。

【第1楽章】奥州「みちのく」へ(寛政1年1789年8月、27歳)で親を亡くし奉公にでる一茶の生い立ちが語られる。 富士ばかり高みで笑う雪解哉  など3句のアリア。
【第2楽章】俳人になって里帰りへ(29歳)  雉鳴て梅に乞食の世也けり  など2句のアリアと1句の合唱。
【第3楽章】西国行脚(30歳~36歳) 各地の民謡をまじえて 剃捨て花見の真似やひのき笠 の合唱。
【第4楽章】江戸の漂白俳人、一茶(37歳~41歳)  炉のはたやよべの笑いがいとまごひ  など4句のアリアと1句の合唱。
【第5楽章】一茶(37)と一瓢(34歳)の出会い  春雨の晴れどころなり君が松  など4句のアリア。
【第6楽章】「七番日記」と連句「夕暮れや歌仙」(48歳~57歳) 〔初折〕から 夕暮れや蚊が啼出してうつくしき (一茶) すずしいものは赤いてうちん (一瓢) 〔名残の折〕から をしまれて死ぬるは人のまうけ物 (一瓢) そのきさらぎのみごとなる空 (一茶)など38句のアリア。

第2幕は前奏曲(安住の地を模索して)に続いて
【第7楽章】故郷永住(52歳)  雪とけて村いっぱいの子ども哉  など11句のアリアと一茶・一瓢の二重唱 利根の帆が寝ても見ゆるぞ青田原 に大きな拍手。
【第8楽章】おらが春(56歳~61歳)  目出度さもちゅう位也おらが春  など3句のアリアのあと、 ともかくもあなた任せのとしの暮  と佐藤光政さんが歌い上げ、満員の観客からの拍手喝采で本編が閉じられた。

【第9楽章】は終曲「蛙の合唱」一茶の268句もあるという蛙句から  傍杭に江戸を詠(ながめ)る蛙哉  など、小学校4年生22人の蛙さんたちもピョンピョン跳ねながら17句大合唱のフィナーレに会場は大きな手拍子につつまれた。

開演前に台本・作曲・演出・指揮の仙道作三さんの一茶や音楽についてのレクチャーもあり、スクリーンに映る情景画や句とナビゲーションが分かりやすく、ほのぼのとしつつもとても楽しく芸術的。
この連休の様々なパフォーマンス・イベントの中で、なんでココに来ようと思ったのか定かな根拠はなかったけれど(やっぱ、お導き・・・笑)、ココに来てすごく素敵が時間を過ごせた。うん、良かった!

本行寺での歌仙のシーンで、一茶が美味しそうに食べていた羽二重団子を買い求め、夕暮れの日暮里を後にしたのでした。

<関連記事>
読売新聞 / 東京新聞 / 荒川区

音楽の伏線(終章)

2010年07月12日 | No Live,No Life
【音楽の伏線(3)の続きです】

音楽を聴くときに「はたして自分の耳で聴いているだろうか?」と思うのです。
ちょっとコレを聴いてください(と言って流れたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の奏者は・・・ベルマン?メモ忘れです)
この演奏を聴いて、今も何人かの方が含み笑いをしてましたが、ヴァイオリンを専攻する学生でしたら大爆笑です。今時の演奏ではないからです。今このように演奏する人はいません。
でもこのようにCDに復刻されて残されているのです。50年前はこれが「名演」だったのです。

ヨーロッパ中心主義の思想家ニーチェが言う「まだ耳を持っているのか。もはや耳にすぎないのか」の<まだ>と<もはや>の二つの耳。
私たちも二つの耳を持っています。二つの耳で聴いています。
でも自分の耳を探す耳を持っているのでしょうか?
二つの耳の一つめの耳は「時代の耳」その時々の時代に支配された耳、二つめの耳は「文化文脈の耳」それぞれの文化に支配された耳、なのではないでしょうか?
私は「三つめの耳を探し求める」ことをエッセーの基本として書いています。

ベートーヴェンの『月光』を聴いてください。

次に聴いていただくのはショスタコーヴィチの『ヴィオラ・ソナタ』です。
時間がなくなってきましたので先に申し上げますが、この曲には『月光』の旋律がそのまま出てくるのです。
この曲はショスタコーヴィチの遺作です。初演を聴くこともなく彼は亡くなっています。
旧ソ連体制の中で「社会主義リアリズムを代表する作曲家」といわれ、今は「社会主義に面従腹背した作曲家」と言われているショスタコーヴィチですが、彼が最も尊敬していたのがベートーヴェンです。
その彼が、ほんとに、最後の最後に作ったのがこの『ヴィオラ・ソナタ』・・・今日のは初演版なのでチェロ演奏されています。

時間があればもっと聴いていただきたいのですが・・・まだまだこれからが凄いんです。『月光』の旋律が再現されるたびに黒い雲にかき消され、不協和音に切り刻まれ・・・でもベートーヴェンに光を求める。

私はベートーヴェンの『月光』を聴くと、このショスタコーヴィチの苦悩を思い起こしてしまうのです。
つまり、私の中では「ショスタコーヴィチがベートーヴェンに影響をあたえている」のです。
250年前の人が250年後の人に影響されるなんて、有り得ない話しですが、音楽を聴くときにはそうであってもいいのではないかと思うのです。
それが、音楽の新しい聴き方と言えないだろうか?
時代の耳も文化の耳も、三つめの耳も、ポジチィブに捉えてほしいと思っています。(完)

      ・・・・・・・・・・・・・・・・
講演後、まだ読みかけの梅津さんの著書にサインをしていただきながら「書いてある分からなかったことが、お話しをお聞きして分かりました」などと口走ってしまった。(ほんとに分かった?と改めて自問・・・厚顔の罪・・・笑)
帰ってからメモを見直す・・・少なくとも、分かってると思ってる自分を理解できた。口走ったことに悔いはないし、逆に、この記録はとても意義あると思ってまとめてみることにしました。

断っておかなければならないのは、この講演記録はテープ起こしではではないので(ランダムな聴講メモ書きを元に、しかも我ながら何を書いたのか不明な文字をも判読しながらなので)講演口調で書いたものの、接続語・語尾・言い回しは梅津時比古さんご本人のものではありません。梅津さんの名誉のためにも強くここに書き添えます。
また、講演内容との同義性を梅津さんの著書『フェルメールの楽器』に求め、文章の引用をさせていただきました。

お話しの展開・理路は客観的に書き記したつもりですが、印象に残る言葉にぼくなりに修飾が加わっているところは多々あるかな?とは思います。
いずれにしても、ぼくにそうとうのインパクトを与えてくれた講演に、できる限り分かろうと試みた個人的な感想文程度のものであることと理解していただければ有難いかぎりです。

音楽の伏線(3)

2010年07月12日 | No Live,No Life
【音楽の伏線(2)の続きです】

2枚の絵を用意しました。カラーコピーなんで画像がちょっと悪いですが、あ、それに1枚にしたかったので下の絵はトリミングしてあります。なにぶんにも社内のコピー機を使ったものですから(笑)。

上のがフランスのナント美術館にあるラ・トゥールの「ペテロの否認」という絵です。
女中に「イエスの仲間だろう!」と言われ「そんな人は知らない」と否定するシーンなんですが、ペテロの存在感が薄いんですね。疑っているようような兵士の表情の方に目を奪われて、左端の女中に問い詰められているペテロの存在感は圧倒的に欠けています。
同じラ・トゥールでクリーグランド美術館の「ぺテロの悔悟」が下の絵です。ペテロの顔の部分だけ切り取ってありますが左側には鶏が描かれています。
ペテロが自分の弱さを知り激しく泣く『マタイ受難曲』でも中心に据えられるほど聖書の劇的な一場面がありますが、その寸前の茫然自失として涙を流すだすペテロの表情を描いた傑作ですね。この絵は、光の描写が個性的でラ・トゥールとわかりますが、上の「ペテロの否認」は、実は真筆かどうか問われています。確かに光源の使い方が違います。
でも、真贋は別として、どうでしょう。上の絵に描かれたペテロの方が心情的に親しみを感じませんか?
激しく泣いて許される前の、罪のなかにいるペテロです。
必至に否定しつつも、信じてもらえるか、兵士にバレないかと思いまどいながら、憐れみさえ乞うような卑しさも目に表れているような気がするんです。普通の人の日常的な罪の意識、みたいなものですね。

『マタイ受難曲』の前に『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』第4番第一楽章『シチリアーノ』を聴いてください。
バッハは妻を亡くしから1年半後に再婚するのですが、その間に書かれた曲です。
実はこの1年半というのは大変微妙でして、当時は死別したりしますと直ぐに再婚するような慣わしがあったにも関わらず、
しかも、その再婚相手はバッハが宮廷楽長をしていたケーテンの宮廷歌手なんですね。つまりバッハは以前から彼女を知っていた・・・はずなのに結婚まで1年半の時をおいたのです。何があったのでしょうかね?(笑)

バッハにしてはとてもロマンチック曲ですよね。
では続けて『マタイ受難曲』を。後悔の念にペテロが号泣した後に「憐れみたまえ、わが神よ、この涙のゆえに」とアルトが歌うアリアです。

お分かりですね。
バッハはここで『シチリアーノ』と同じ旋律を使っているのです。
1年半思い悩んだ心情を「憐れみたまえ、わが神よ、この涙のゆえに」に重ねているということです。

音楽の伏線(2)

2010年07月11日 | No Live,No Life
【音楽の伏線(1)の続きです】

では何故、日本でも中学校で『魔王』を聴かされるようになったのでしょうか?
毎日新聞社の入社試験にも「シューベルトの曲は?」という設問の選択で出されるほどの常識問題になるほどですから・・・実は私が作ったんですが(笑)。ちなみに『魔笛』と間違える人は多いですけど・・・
それは、CANONです。
ヨーロッパ中心主義の聖書の正典思想がその背景にあるからです。
日本では、たとえば「源氏物語」を世界に広める必要性を説く人はいません。が、カノンとは正典を世界に広めなくてはいけないと考えるヨーロッパ中心主義思想です。
その流れの中で、日本でも『魔王』なのです。

次に同じくシューベルトの『冬の旅』第2曲『風見鶏』を聴いて下さい。『魔王』もそうですが、シューベルトという人は描写の天才ですね。文学的部分をピアノで表現できる。この『風見鶏』もカラカラ回る音とイライラする心象がよく聴き取れます。

さて、この「風見鶏」とは何でしょう?
風の向きや強さを見る風向計みたいなもの、ですよね。ヨーロッパでは主に教会の屋根にあります。一部の豪商の家にもありますが・・・これは、ペテロなのです。
最後の晩餐の後、イエスに忠誠を誓うも「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言う」とイエスに予言され、その通り「知らない」と言ったしまった、あのペテロを象徴しているのです。
厚顔の罪、自分の弱さ・愚かさを知らない罪ですね。
ヨーロッパを支配するそのペテロの思想を、シューベルトは『風見鶏』で全てくつがえしているのです。
・・・まるで口笛を吹いて僕を追い立てる
・・・これみよがしなご立派な風見鶏
・・・屋根のような騒がしい音
きっぱりとした、反ペテロです。

そもそも『魔王』のゲーテの詩自体も誤訳から始まってるので、正典思想は壊れているんですが・・・原点はデンマークの(なんとか、という人・・・すいません、メモしてませんでしたぼく)です。
話しはこうです。
結婚式を明日に控えた青年が案内状を配って回り、その帰りに森を通ると妖精たちが踊っていた。妖精たちは「一緒に踊りましょう!」としつこく青年を誘うが彼は応じない。すると妖精たちは「とんでもないことが貴方の身に起きますよ!」と告げる。翌朝、結婚式の朝、青年の姿がない。さんざん探した挙句、教会の赤いカーペットの下に青年の屍が・・・というのが原典だったのですから。

音楽の伏線(1)

2010年07月11日 | No Live,No Life
【梅津時比古さんの「日本記者クラブ賞受賞記念講演」でのぼくのメモ書きをまとめたものです】

先ずは『魔王』を聴きましょう。
このピアノパートは歌曲三大難曲のひとつです。歌曲のコンサート・プログラムにこの曲があったら「ピアノの方、大変ですね」と言ってあげましょう。一目置かれる上にピアノの方に感謝されますよ(笑)。
この曲の聴き所は、そのピアノの馬のひずめや魔王の恐怖の描写と独りの歌い手が語り、魔王、父と子の4役を表現しているところ。さらに最後の“tot”でぞっとさせられるかどうか・・・です。

さてこの『魔王』、どこが一番怖いですか?
①子を抱いた父が魔王の森へ馬を乗り入れるところ
②魔王の森の中
③家に逃げ帰るために全速力で馬を走らせるところ
・・・①に挙手がおひとりで、ほとんどの方が③でした。
日本ではどこの大学で同じ質問をしても、学生達の応えは③です。
学生に限らず今日も同じでした。
ところが、ドイツでは圧倒的に①なんです。
その違いが何故なのか?と言われればいろいろ言えると思います。
例えば狩猟民族が命がけで狩に向かう恐怖心から①
日本では怪談で聞かされた霊に後ろ髪を引かれる怖さから③だとか・・・いずれにしても、それぞれの文化文脈の違いだと思います。
例えば「黒い土」日本では肥沃な土地を思い浮かべる人が多いと思いますが、ドイツでは戦争で焦土と化した土を意味しますし、「朝の光」も日本ではすがすがしい想いをいだきますが、あちらでは「死」を連想するのです。刹那の弱々しい光なんですね。
①と③の違いは音楽にも現れます。
『魔王』の編曲が顕著です。日本人が編曲すると始まりは静かで後半に怖さ(クライマックス)を持ってきますが、シューマンの編曲などは最初が怖いんですね。

つまり「音楽は(必ずしも)世界の共通語ではない」ということです。

続、音楽の聴き方

2010年07月11日 | No Live,No Life
7/10 上原彩子ピアノ・リサイタル@彩の国さいたま芸術劇場
      オール・ショパン・プログラム
       夜想曲第7番 嬰ハ短調 作品27-1
       夜想曲第8番 変ニ長調 作品27-2
       ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35
       ワルツ第6番 変ニ長調 作品64-1
       ワルツ第7番 嬰ハ短調作品64-2
       12の練習曲 作品25


これはぼくの耳のせいだと思うんだけど、ホールの音に慣れるまで時間が掛かることがあって、最悪、最後まで慣れないところもあるくらい。ここの音楽ホールも初めてだったんで、はじめのノクターン2曲はそっちが気になって・・・でも何とかすぐに慣れてホッ。

上原さんのショパンを聴くのは初めてかな?・・・ん、アンコールで聴かせてもらったことあったっけかな?
いずれにしてもオール・ショパン・プログラムは初。
ぼくはショパンという人の来歴もろくに知らないし(そもそも、ぼくが知り得てる気になってるのはチャイコフスキーひとりだけ、だけど・・・笑)このプログラムの中でも「葬送ソナタ」と「ワルツ#6・#7」を聴いたことがあるかな?程度で、ぼくにとってショパンは「華麗なる・・・」のイメージだけ。
ところが、上原さんの奏でるショパンは、華麗なるテクニックを煌びやかに誇示するものではなかった。

「ピアノ・ソナタ第2番」第3楽章の葬送行進曲の何とも淡々とした、それでいて、溜め息さえも聞こえてくる悲しみ。その想いは終章にも引き継がれていた。派手に目を見張るような奏法ではない。嘆きを重く心の底に押さえ込みながら駆け抜ける。そして最後の和音は、ためらいとともに鳴り響いたのだ。

基本に技巧的奏法を求められると思われる「12の練習曲」においてもテクニックを超越した想いをぼくは聴いていた。
孤独・悩み・苦しみ・・・凡庸なぼくにはそんな言葉しか浮かばないのが悲しく思われるほどの想い。
明るい曲想の章はながれ#11~#12に向かってピアノがうねりながらそのモチベーションを上げていく。一瞬の静寂は矢張り、ためらいだと思う。ためらいはぼくの孤独を癒してくれる。

ウラディーミル・アシュケナージがN響アワーで語っていた。
「音楽は自分と向き合うこと・・・」
演奏者がそうであるときに、聴く人々には更にそれぞれ違う幅広い感じ方のフィールドが存在している。
上原さんがショパンをどう捉えたのかは分からないけど、ショパンを知らないぼくにとってはどうでもいいことだ。ショパン好きな人が彼女の演奏をどう聴いたかも関係ない。かなり乱暴な言い方だけど・・・。
ぼくは上原さんのショパンの曲の中から引き出された魂に触れることができた。

今回もまた彼女のピアニズムがぼくをぼくに向かわせてくれた。

新、音楽の聴き方

2010年07月11日 | No Live,No Life
講演会が終ってプレスセンタービルを出たらどしゃぶり!
ありゃまどうしたもんかと思いながらも、折角近くにいるんだしツイッターでもつぶやいてしまったし・・・(笑)行くことに決めた。

7/9 ボサノバDUO@吉祥寺・アウボラーダ
    鳩山薫(g) & EMiKO VOiCE(vo)


駅に着くと雨は上がっていてホッとして、その勢いのまま店のドアを開けると、ワッ、演奏中!しかも満員?しばらく外で待つ。
1stが終ったところで何とか席を確保してもらえた。ホッ。

EMiKOさんと言えば、さいたま新都心のジャズボーカルコンテストでグランプリを獲得するほどだからスタンダードジャズシンガー。かと思うとフリージャズのスガダイローさん(p)と丁々発止のDUOアルバムを2枚出してるほどのアグレッシブシンガーでもあり、メヲコラソンではブラジリアンジャズも。ヴォイスだけのソロライブもやっている。そしてこのボサノバ。
「いろいろやりたいことはあるけど、難しいのはソウル・・・」と話していた彼女。特に今回は「『元祖ボサノバ』色のギタリスト、鳩山さん」とのDUO。
とても丁寧な歌いまわしの中に彼女独特のスキャットがちりばめられていて「ソウル」の何たるかを追い求める姿勢を強く感じた。

ポルトガル語をまったく理解しないぼくにとってのボサノバは、言葉の壁を乗り越えて伝わってきた、みたいな震えがないと存在感はない(あくまでもぼくには、ですよ)。日本人が「うんとこどっこいしょ」ともらす言葉がソウルなのかどうか分からないけど(笑)それが違う言語であっても伝わってきたと思える気持ち。
それが音楽の全てに存在するはずがないことを知っているからこそ、ぼくはやっぱり音楽が好きなのである。

音楽の新しい聴き方

2010年07月10日 | No Live,No Life
 ニーチェは苦しんで自分に問うている。
<私は、まだ耳を持っているのか。私は、もはや耳にすぎず、それ以上の何ものでもないのか>
 このニーチェの<まだ>のあとの耳と、<もはや>のあとの耳のふたつの耳に、フランス哲学者、ジャック・デリダは哲学の探求の秘密を見ている。
(梅津時比古@『フェルメールの楽器~音楽の新しい聴き方~』毎日新聞社刊)
分かったような気になってるけど、多分ぼくは分かってないんじゃないか?・・・の疑問符を払拭したくて梅津さんの話を聞きに行った。

7/9 2010年度日本記者クラブ賞受賞記念講演会
     「音楽の新しい聴き方」@日本記者クラブ
    梅津時比古(毎日新聞社学芸部専門編集委員)
      


文章の印象から想像した梅津さんと違って愉快な話しながらも、その話しはやはり文学的でしたね。
もちろん音楽も聴かせてもらいました。
シューベルトの「魔王」と「冬の旅」から「風見鶏」
バッハ「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」第4番第一楽章と「マタイ受難曲」からアリア(47?)とコラール(48?)
ベルマン(?)のメンデルスゾーン・ヴァイオリン協奏曲
最後にベートーヴェンの「月光」と
ショスターヴィチの絶筆「ヴィオラ・ソナタ」
話しの合間に流されたこれらの曲の中に、と言うより、これらの曲の流れの中にぼくの知りたかったことが隠されていたんです。
のっけの「魔王」で(どこが怖いの?・・・ドイツ・日本の怖さの違い)(なぜ日本の中学生は「魔王」を聞かされるの?・・・ヨーロッパ中心主義的正典思想)の件が伏線だったんです。
「音楽の新しい聴き方」への謎解きミステリー!

そしてついに、時間切れ寸前に追い詰められた梅津さんは、荒波砕ける断崖絶壁の上で自白したのです。(笑)
「私のエッセーの基本は、固定観念に囚われない三つ目の耳を探し求めて書くこと。ベートーヴェンの250年後のショスタコーヴィチにベートーヴェンが影響されたなんて、つじつまが合わないけれど、私は『月光』を聴く時にショスターヴィチの『ヴィオラ・ソナタ』の影響を拭えないんですよ。」

毎日新聞の「音のかなたへ」や「コンサートを読む」の言葉の感性に魅せられ音楽に誘われる快感を感じつつも、正直言って、どことなく心象が同化しきれない苛立たしさがあった。
でも、この講演会で、
その心象の違いこそ、ぼくが梅津さんと同じように(もちろん、ぼくの見聞の狭さだものレベルの差は当然としても)音楽を楽しめている証拠なのではないか!とある種の自信をもって思えた。

音楽を聴く楽しみが、音楽を聴くたび増えそうな予感!(^o^)/

奇跡的!?(2)

2010年06月09日 | No Live,No Life
ぼくの感動を、これまた奇跡的な言葉で書かれたコンサート評
【毎日jp】音楽:サロネン指揮フィルハーモニア管&ヒラリー・ハーン=評・梅津時比古

チャイコのVC第一楽章で「すみずみまで音の成り立ちが聞こえ・・・そよ風ひとつで壊れてしまいそうな・・・今生まれたような美」に詩情を感じ、第二楽章「木管と優しく溶けあい、愁いを帯びた旋律が浄化され」金縛りになった。「完璧なテクニックと見事なリズム感で表出された」第三楽章に溜め息がもれたのだ。。。

シベリウスSym#2でぼくの誤解を解いてくれたのは「寒色系の音響ではなく、むしろ温かく豊かな音色・・・構造的に組み立てた演奏」のせいだったのかと改めて納得させられた。。。

ぼくの中で伝説となった演奏会が、こんなにも感性豊かな言葉で評されていた。。。とても、嬉しい。

奇跡的!?

2010年06月04日 | No Live,No Life
以前ここに(ヴァイオリン協奏曲は聞かない。チャイコファンでもチャイのすらあまり聞かない)みたいなことを書いたことがある。けれどたまたまヒラリー・ハーンのヴァイオリンを聴いて一気に傾倒してしまった。
話せば長いことながら・・・かいつまんで(笑)・・・伊坂幸太郎「死神の精度」にバッハの無伴奏チェロ組曲がバックに流れる話しがあって、その曲のCDを図書館で借りた。G線上のアリアが管弦楽組曲の中の曲であることも知らないくらいバッハに疎かった。他のバッハも聞いてみたくなった。それを返しに行ってバッハのヴァイオリン協奏曲集を借りた。その奏者がたまたまヒラリー・ハーンだったのだ。バッハもヴァイオリン協奏曲もめったに聴かなかったぼくにはダブルの衝撃だった。

そのヒラリー・ハーンが日本に来た。
しかも、チャイコの協奏曲と共に!

6/2 フィルハーモニア管弦楽団@サントリーホール
       指揮:エサ=ペッカ・サロネン
          ヒラリー・ハーン(vl)
    サロネン「ヘリックス」
    チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」
    シベリウス「交響曲第二番」


これほどまでに詩情豊かなチャイコのVCを聴いたことがない。
フィルハーモニア管のひかえめに甘く香るような響きのなかを、赤いドレスのヒラリー・ハーンがまるで蝶になったようにとても気持ちよく舞っている。繊細にていねいに一音一音大事に大事に物語を作り上げているようだ。サロネン&フィルハーモニア管も完璧にバックアップする。共に歌い共に泣き、なぐさめあいそして闘う。ソロとオケの音色の調和はまさに奇跡的!
第一楽章でヴァイオリンソロのあと弦が入ってきたあたりで涙腺がウル・・・第二楽章は金縛り、一点の濁りなく流麗な第三楽章には思わず溜め息がもれてしまう。。。

アンコール2曲目にバッハ!
もっと聴きたいと思ったけど、これ以上聴いたらバチがあたりそうな(笑)素晴らしい演奏だった。

踊りだしそうなメロディーから突如として不吉な暗鬱とした雰囲気が漂いだすシベリウスのSym#2。(なんだかなぁ~?)というぼくの誤解(?)に、サロネンは優しく語りかけてくれた。急緩強弱が丁寧で説得力がある。(はぁ~、だからこうなるのか・・・)みたいな。。。
オケもサロネンの想いを100%受け止めた出色のハーモニーだ。
特に弦の音色には惚れ惚れしてしまう。

終章の音が止んだ・・・最後のタクトを振った瞬間に「ブラボー!」の叫び声が聞こえる演奏会が多い中・・・満員の場内はシーンとしている。
サロネンがゆっくりとタクトを降ろす。そしてオケに軽く頷いた。
そこでやっと静寂を破る大きな拍手喝采!
ぼくだけでなく、多くの聴衆がど肝をぬかれたシベリウスだったんだと思う。
更にアンコール2曲、ともにシベリウス。ぼくはもうシベリウスはサロネンじゃないと聴けなくなりそうだ(笑)。
少なくともぼくの中では、伝説になるであろう演奏会であったことは確かだ!
人を愛することの出来ぬ者もモーツァルトに涙する
もしもそれが幻ならこの世のすべては夢にすぎない
谷川俊太郎詩集(角川春樹事務所刊)「人を愛することの出来ぬ者も」より
ヒラリー・ハーンが初めて録音したチャイコのヴァイオリン・コンチェルトを当日買った。彼女にサインをしてもらったから幻じゃないけど(笑)そのCDを聴いて、あの日あの時のサントリーホールこそが奇跡だったのだと実感したのであった。。。

チャイコPC#1

2010年05月16日 | No Live,No Life
ある意味、スゴイものを聴いてしまった。

5/14 国立ノーヴァヤ・ロシア交響楽団@東京オペラシティ
     指揮:ユーリー・バシュメット
        上原彩子(p)


オール・チャイコフスキー・プログラムで
     幻想序曲「ロミオとジュリエット」
     ピアノ協奏曲 第1番
     交響曲 第5番

一曲目からヤバイと思った。本来の意味でのヤバイである。
弦は精彩を欠き管も乱れている・・・要するに合ってない・・・B席で正解だったな、などと思ってしまう。

お目当てのピアノコンチェルト。
これまた序奏からヤバイ(*_*;
上原さんが入る。打鍵がちょっと硬め(ハラハラドキドキ・・・)
でもさすがにここは上原さん。相変わらずモタつくオケをグングン引っ張る・・・まるでピアノを弾きながら指揮してるみたいだ。オケが後から追っかけてくる感じに聞こえることが何度も・・・

チャイコのこの曲では、丁々発止を堂々と繰り広げる演奏はあまたあるし、それがこの曲の醍醐味みたいなとこもあるけど、この演奏に関してはピアノが圧倒的に優位。
もうこうなると上原さんのピアノに集中するしかない。おかげで、と言ってはなんだけど、彼女の絶妙なスゴイ1番が聴けた。

5番シンフォニー。
ムラヴィンスキーやプレトニョフ、テミルカーノフ・・・それぞれに違った趣のあるロシアの指揮者の演奏を(手元の音源ではあるけど)それこそ、今日はこっちの5番が聞きたい、というふうに聴いたりしてるぼくとしては・・・バシュメットは残念ながら没かな。
なにかこう、引きずり込まれるところがない。弦も歌いきれてないみたいだし、管にももちっと主張が欲しいなぁ・・・
改めて上手バルコニー席から(チェロ・バスは死角になっていて分からないけど)見える範囲で弦の編成を見ると、男性奏者は1stに3人、2ndに2人、ビオラには1人だけしか居なかった。

「ブラボー!」を連呼する聴衆にアンコール2曲。
2曲目。パーカス動員の「ティコティコ」には、昔よく聴いた明大マンドリンクラブが彷彿としてよみがえってしまった。。。