a lively time

ハラハラドキドキ、ワクワクソワソワの毎日。

2月26日(日)のつぶやき

2012年02月27日 | つぶやき
20:48 from Seesmic
4時間51分23秒 東京マラソン完走!(^^)! マー太郎!元気をありがとネ~ありがとね~~☆彡 twitpic.com/8oxihm

21:46 from Tweet Button
おぉ~!マー太郎、両手を挙げてゴール!! ゴールシーンムービー | 東京マラソン 2012 ntv.co.jp/tokyomarathon/… #TM2012

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興味喪失?

2012年02月24日 | 病状経過
人間だもの、不機嫌な時があって当然でしょう。
そしてその不機嫌のもとは「本音」とのギャップじゃないかな?、ほとんどの場合。だから、不機嫌になることがあったほうがいい。自分の本音に気付くし、他人の不機嫌から本音を知ることが出来るメリットもある。

Dr.AKが、めずらしくご機嫌斜めだった。
言うことがくどいし一方的だ。

血液検査の結果はどうでしたか?
「治療して(薬を飲んで)いないから異常値はでてませんよ。どうします、また始めますか?」
そうですね。かなりキレイになりまんしたし・・・
「えーと、前回が・・・」
2錠だったので、1錠にして・・・
「1日1錠ということで明日から始めてください」
前回気になったのが血圧なんですが、普段は低血圧気味なのに130~135に上がったんですが・・・
「毛細血管に作用しますから上がることが考えられます。上がります」
上がった場合はどの程度で注意が必要なんでしょうか?
「140とかになったら循環器科で診てもらうことになりますね」
その場合は服用を中断した方がいいですか?
「毛細血管に作用しますから当然上がるんですよ、だから循環器科で診てもらいながら続けるということで、どうしても心配だったらその時は連絡してください」
自己判断で止めるのは今まで通り皮膚症状とか痛みとかの時だけと考えてていいですか?
「う~ん、でもこれでまた同じようになるともう続けられないですねぇ。当初の1/4の量ですからね、薬が効くかどうかも分からないですから」
最悪、2日に1錠とか・・・
「そうなると効果があるかどうか。落ち着いたらCTで診てみますけど・・・」
・・・コノ辺が本音だろうか?

そうなると治療を中断せざるを得ないとして、以前お話しした緩和ケアの病院への紹介状なんですが・・・
「書きますよ、何時でも。日にちが分かればそれまでに」
初診予約は4月3日なんですが、検査画像とかもということなので何時頃お願いすれば…
「それじゃ来月CT撮りましょう。最新画像を付けろとか言われるかも知れないし・・・えーと、来月、来月…来月は、ネクサバールを明日から始めてもらって2週間後に経過を見せに来てもらって・・・月末頃CTですかね・・・あ~、でもコレ(画像)を渡さなくちゃならないからCTを撮った後にもう一度来てもらうようになりますかね。いいですか?」
・・・ホント、いつものDr.AKと違って段取り悪いな~。でも、ぼくにとっては緩和ケア科への紹介状は大事。
えぇ、もちろん大丈夫です。

ん?もしかして・・・
ご機嫌が悪かっただけじゃなくて、外科的治療を離れて緩和ケアに流れていく患者に興味喪失したのかな?

まぁ、どっちだっていいや。
1/4減量再開しての経緯と来月のCTの結果如何で、きっぱりと転院を決断せにゃならんかも知れないし・・・

お葬式について考える(2)

2012年02月19日 | 生と死
どうにも困ったことにですね、お葬式にまつわる本をば乱読しておりましたら、葬式などどーでもよいのではないかと思うようになって参りましたですよ(笑)

わたくしの葬式となりますと、もちろんのこと仏式でございますから、仏教の開祖であられますお釈迦さまのお考えから知りたいものでございますが、これがまた諸説紛々あるのでございますですね。
死んだ後のことは死んでみなきゃ分からないんだから生前に死後のことを考えたり語ったりするのは無駄だとお説きになりまして「私の葬儀に関わるな」と仰られたという説が主流ではございますが、自らの葬儀を弟子に指示して、それが原型となってですね「お釈迦さまをお送りするのと同じように」今の葬式は執り行われているのだと言われる御仁もおられますですよ。
でもまぁ、わたくしめら素人が考えましても、仏教の悟りとは「無常」でございましょう?あらゆる執着を捨て去ることを悟りと考えますれば「死んでみなきゃ分からない」というのが「葬式仏教」となる前の仏教の本義のような気がしますですがね~。

死者を葬ることを第一の使命とするのが「葬式仏教」なわけでございますが、日本に仏教が伝来して以降、飛鳥時代とか奈良時代に多くのお寺が建てられまして今も現存する法隆寺や薬師寺などにはお墓や檀家がないそうでございますね。さらに驚くことに、それらの寺の住職やらが亡くなってもそのお寺では葬儀をしないで別の宗派のお坊さんにお任せするそうですよ。今日でもそーだと言いますから、本来の仏教は葬式仏教とはまったく無縁であった証しでございましょう。

はてさて、いかにして仏教=葬式となり、はたまた日本にしかないという「戒名」なるものが出来上がったか?といことにつきましては次回、お葬式について考えるのココロだぁ~(笑)

【参考文献】
島田裕巳 『 葬式は、要らない 』
菅純和 『 葬式のはなし 』
村越英裕 『 ほんとうは大事な「お葬式」 』

満を持す

2012年02月18日 | 病状経過
人間は本当に自分のしたいことをやっているときに潜在的
可能性を開花させ、最大のパフォーマンスをすることができる
( 内田樹@毎日新聞2/17夕刊 )

それは身体的な潜在能力にのみハイパフォーマンスをもたらすだけではなさそうだ。

人間の身体は、骨や筋肉、内臓など
どこがどう動いているかわからない「巨大ミステリーゾーン」
( 同 )

そのミステリーゾーンを形作る細胞や血球にも、そして当然ながらそれを統括する脳をもより良い状態にするということなのだろう。

ネクサバール服用を中断すれば副作用の症状は3週間ほどで治まる。硬くなった手や足の指の皮はむけ発疹もゆっくりと引いていく。
それが、今回は劇的に改善した。
2日間のスキーと温泉「自分のしたいこと」効果だろうか!?
出かける前には皮むけの際を丁寧にハサミで切らないと引っ掛かってしまうほどベロベロしていたのに、帰ってきた今はつるんつるんだ。え?どこがどーなっていたわけ?と思うほどキレイになっているものだから、前回3週間後に服用再開した時のような副作用に対する怖れや不安すら消えている。
来週の診察前に再開しちゃおうか?なんて考えちゃうほどだ。
・・・来月のスキーの予定からして早いほうがいいな。
・・・いやいや邪念はいけません!本末転倒だぜ(笑)

「できるだけ長期間飲む」ことを可能にすることだ。
まだ、皮むけの白斑はあるし硬化したゴワゴワも残っている。
痒みは少なくなったけど頭皮の発疹は消えていない。
発疹が寄った膝頭はまだ赤い。
副作用の発現を遅らせて服用期間を長くするためにも
もう少しここは様子をみることにしよう。
一週間後に満を持して再開!かな?

2月15日(水)のつぶやき

2012年02月16日 | つぶやき
15:29 from Seesmic
今日はいっぱい滑ったぞぉ~!@尾瀬岩鞍o(^o^)o ロマンスコースでクールダウン。楽しかったなぁ~~(^_-)-☆ twitpic.com/8k5m31

17:37 from Seesmic (Re: @ikechangogo
はぁ~ぃ ロマンス☆彡 4人のむさ~いオヤジどもです(笑) はぁ~ぃ 温泉入って、 これから宴会(#^_^#) RT @ikechangogo : すごい! ロマンスコースってバレンタインにぴったりですね(^∇^)スキーの後は温泉かしら。

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2月11日(土)のつぶやき

2012年02月12日 | つぶやき
10:12 from Saezuri
イッチ子が泣いた。同じゼミの先輩の「いきもの」が卒展で大賞を受賞したのだ。創作過程を目の当たりに見、自らも創作の喜びを感じ始めた証拠だろう。明日まで埼玉会館で。 goo.gl/mFolg

16:59 from gooBlog production
ポジティブ・シンキング goo.gl/bQj2c

17:54 from Seesmic (Re: @ikechangogo
どんなに良いと言われることだって、やっぱ無理しちゃダメってことだよね。無理さえしなけりゃ免疫力は下がらない!?(笑) RT @ikechangogo 免疫力を上げるために笑うことについて。「無理にでも笑う」

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ポジティブ・シンキング

2012年02月11日 | つぶやき
ポジティブ・シンキングさ。だめだと思えば、人生だめになる。
いけると思えば、いけるんだよ。病気だってそうさ。
(荻原浩 『明日の記憶』)

映画で、若年性アルツハイマーの渡辺謙に向かって「なんの病気か知らないけどさ」と言いながら香川照之がアノ!口調でこのセリフを喋るシーンを観てから、ポジティブ・シンキングって言葉が大嫌いになった。・・・そのくらい香川はうまい役者ってことけど(笑)

免疫力も何かといえば“笑い”。「笑いこそが健康の源、笑え笑え!」ってのにも抵抗感があるわけよ。笑え!って言ったってさ、でっちあげみたいなバラエティー番組観て笑えないし、かえってムカついちゃうもん。
その場限りのむなしい笑いでごまかして、ネガティブといわれる暗い話しを、そんな縁起でもないこと言わないの!ってスルーしちゃうっていうかタブー視するのってどーかなーってずーっと思ってた。

笑いというより、喜び。嬉しい気持ちが心から湧き出る時に本当の意味で免疫力はアップするんじゃないかと思うし、泣くこともまた素の自分に戻れた証しだと思うから決して悪いことじゃないと思う。

私たちが悩んだり、つらい思いをして、
ときには涙を流して悲しむことも、
人間にとって大事な行為である。
暗いことも、さびしいと思う気持ちのなかにも、
大事なものがあり、がんばらなくていいよ、
という思いやりもあるということです。
(五木寛之 『大河の一滴』)


「第36回小泉信三賞全国高校生小論文コンテスト」の記事を読んでなんだかほっとする思いがした。
新聞記事だから全文ではないけれど、佳作入選の佐々木みちるさん「いいことばかり?ポジティブ・シンキング」

自分の利益や幸福のみを追求し、
ネガティブなことに目を向けず、
格差社会の維持に役立ってしまうポジティブ・シンキングは
私には必要ない。
正しいポジティブ・シンキングがあるとしたら、
今回のような災害の後に、互いに協力しあいながら、
掃除でも高齢者のお世話でも
目の前の課題に対して一歩を踏み出せるような心の在り方・・・
(埼玉新聞・2/8付)

覚悟と未練

2012年02月11日 | つぶやき
「もはや、この世に未練はござりませぬ」
「さて、それはいかぬな。まだ、覚悟が足らぬようじゃ
…未練がないと申すは、
この世に残る者の心を気遣うておらぬと言っておるに等しい。
この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、
残された者が行き暮れよう」
(葉室麟 『蜩ノ記』)

和尚の教示に「やはり逝くのはせつないもでござりまする」と応えつつも、想いを寄せる女子の、命乞いを願い出よとの勧めに「それは、未練というものでござる」と言って、和尚にも会わず立ち去る。

武家はすべて藩内のサラリーマンとして描かれる。その中にあって、人としての生き方を真っ当に貫きながら冷静な凛とした武士本来のありようは、今この時代に一読の価値があるのかも知れない。
が、求めるものと現実のギャップにリアリティーがない。
限られた命を生きる覚悟や心に渦巻く未練が、きれいごとの中に埋もれてしまっている感が否めない。
秋谷自身や家族が主人公になりえていない物語だからだろう、死が「三人称」の観点からしか描かれていない。

残念ながらぼくの覚悟の助けになった箇所は一行たりともなく、感涙ももちろんない。

がんワクチン(2)

2012年02月08日 | 医療について
熊本大学も問い合わせが殺到しているようだ。
でも「折り返し担当医が連絡させていただきます」いうとても親切な対応。

がん研のDr.NTが言われたように熊本の臨床研究はがん研とは確かに違っていた。
折り返し遠距離電話をくれたDr.YMの説明
「こちらでは、肝臓内に腫瘍があって塞栓や動注、ラジオ波といった治療をしている患者様に対しての追加療法としてワクチンを使っている」とのこと。
つまり、局所治療が可能な患者にその治療を続けながらペプチドを投与した場合の経過の違いを臨床的に研究しているということらしい。
となると、ぼくの場合はこちらでも当然対象外だ。
さらに、Dr.YM
「ソラフェニブとの併用治療は行なっていませんが、たとえばソラフェニブをやめて効果が分からないワクチンを使うことは出来ませんしすべきじゃないですよ。ソラフェニブは医学的に証明なさている薬なんですから」
・・・副作用の様子を見ながら断続的にでも続けたほうがいいですかね?
「それが賢明だと思いますよ!」
Dr.NTと同じ結論を得た。

「あさイチ」のタイトルではないが“驚き!・・・”とか“こうして克服・・・”とか、ずばり“治った!”に至るまで世にはあまたの代替療法がある。
自己リンパ球移入療法や樹状細胞療法、このペプチドワクチン療法にしても従来の治療法とは異なる点において代替療法に違いはない。
Dr.安保やDr.近藤、Dr.帯津の著書をさんざん読みながらも、矢張りぼくはエビデンスに基づいた西洋医療を選択し、最初から外科治療を受けてきた。
今ぼくは、そのおかげでここまで生きてこれたのだと、確信をもって言える。

美しい自然が突然人に猛威をふるうように、海山よりももっともっと自然そのものである人間の生身の体に起こることなど誰も予想できない。
人は百人百様に違う。
がんもまた同じ病名でも百人百様に違う、いたって個性的な病気である。
しかも、もともとが自分の細胞。他所から侵入してきたばい菌ではなく、ぼくを形作ってくれていたぼくの細胞の病気なのだ。
じっくり付き合うしかない。
あえて選んだ西洋医学の限界にも、じっくり付きあうつもりだ。

がんワクチン

2012年02月07日 | 医療について
とてもありがたいことに
昨日のNHKテレビ「あさイチ」でがんワクチン治療が紹介されていた旨の連絡をいただいた。
“がんペプチドワクチン”についての情報だ。

すでに一般に接種されている子宮頸がんワクチンのことは知っていたけど「ペプチドワクチン」というのは初耳。
早速ネットであれやこれや検索してみた。

ウイルスの感染を防ぐだけでがん細胞を治す効果がない子宮頸がんワクチンとは違い、このペプチドワクチンはがん細胞を殺すために免疫細胞を活性化させその数を増やすのだという。
もちろんまだ臨床研究の段階で「あさイチ」サイトによるとがんの種類によっては第3相まで達しているのもあるようだけれど、肝臓がんについてはまだ第1相試験にも届いていない。
が、折角の医療情報をスルーしてしまうのも勿体ないので更に調べてアクションを起こしてみる。

まずは研究主体の東大医科研の研究室・・・まったく電話が通じない。改めてNHKの威力の凄さを感じる(笑)
次に「がんサポート情報センター」というサイトにあった国立がん研がん治療開発部に電話をしてみる。
電話に出たお姉さんが「ここで行っているペプチドワクチンの臨床研究は肝臓がんに対するものが専門なので他のがんの場合は連絡先をご紹介しますのでそちらへ・・・」
いやいや、なんとまあラッキー!肝臓です、肝臓!
・・・肝細胞原発癌のリンパ節多発転移であることを告げた。
しばし待つと、なんとまた驚いたことに室長のDr.NTが電話口に出てくれた。

・・・8年前からの経緯、現在の症状と治療法、治療している病院など、こと細かに話す。
Dr.NTがペプチドワクチン療法の研究適応について説明してくれた。
まずは「評価病変の腫瘍生検」が必須らしいが、もうこの時点でぼくの場合は不適とか。
「背中の大動脈リンパ節では生検のための針が刺せないし検査のための開腹はすすめられない」とのこと。
「決して良いことではないのですが、万が一生検が可能なところに出てきてしまったりすることがあったらご相談に乗れるかとは思いますが・・・。ですから今は、ソラフェニブに期待して頑張って続けてもらうことが一番いいと思いますよ」というのがDr.NTの結論だった。
また「肝がんに対するペプチドワクチンの臨床研究は他の病院にも強く依頼しているのですがまだ始まっておらず、現時点ではココと熊本大学だけしかありませんが、研究方法の違いはあると思います」とのこと。
・・・一応、熊本大学にも訊いてみようと思う。

いずれにしても見えてきたのは、
局所療法が出来なくなった肝がん患者への治療ガイドラインは、現時点でエビデンスがとれているのはソラフェニブだけであり、原則的にはその薬を処方するにも不適な患者に対する療法としてがんワクチンの臨床研究が行われているのかな?ということ。
と、研究は研究成果を確認できる症例でないとならない訳だから当然ながら誰でもということではないということだ。

それに、生存率という延命効果の検証となると、ペプチドワクチンではキラーT細胞の活性数によって生存期間中間値で8.4ヶ月が12.2ヶ月になるという。
ソラフェニブ服用でのデータではどうかというと、7.9ヶ月から10.7ヶ月で率にして44%生存期間の改善ができたという。
いずれにしてもこの程度・・・なのだけれど、
まずはぼくの場合、エビデンスに則った療法を受けらる現状に感謝して、ソレフェニブ、頑張るっきゃない!な!(^^)!

お葬式について考える(1)

2012年02月05日 | 生と死
まぁナンでございますね。
「死ぬ死ぬ」と騒いでた人が案外長生きしたり「死ぬもんか!」と言い張りながらポックリ逝っちゃう方もおりますですね。どちらにいたしましても、また、その死にかたの幸不幸と申しますか、不本意な突然の事故死から大往生まで様々ではありますが、人が死ぬということに関しましては“絶対”という言葉が堂々と使えるほどに確かなことでございますですよね。

人が死ねば当然のこと常識的に葬式が執り行われてきた訳でござますが、今日日の、ナンと申しましょうか、価値観の多様化とも経済の梗塞的不景気のせいとも言われておりますが、お葬式を見直そうなんて輩の話題が取り沙汰されておりますですね。
葬儀屋さんなんぞも家族葬やらなんやら小さなお葬式の新企画を盛りだくさん売り出しておられますから、まぁ時代の趨勢なのでございましょうね。

確かに、かく申すわたくしめもこれまで数知れずの葬儀に出向き、あるいは喪主なども務めた経験から、お葬式とはナンだろべか?と考えさせられることが多々ございましたでございますよ。でもってですね、ここで改めましてお葬式について考えてみたいなどと考えたのでございますよ。

その切り口なのでございますが、これが結構難しいのでありまして、フツー亡くなった親族を送るために遺族がどーゆーふーなお葬式をしようか?という、あるいはどーするのが妥当なのかとのお話しになると思われるのでございますが、わたくしめはナント、わたくし自身の葬式を如何せん?という下心ゆえ、長丁場の論考も覚悟の上で思いをめぐらせてみたいと思うのでございます。はい。
では、そろそろ始めさせていただきますです。

まずはお葬式の意味づけから参りますか。

古来、人間は対象喪失のショックと
悲しみをくぐりぬける方法として、
みごとな宗教的儀式を慣習化してきた。
仏教で言えば、通夜、葬式、埋葬(納骨)、初七日、三十五日、
四十九日、一周忌、三回忌・・・等々である。
そうした「喪の作業」を一つひとつ経るにつれて、
愛する人の死という現実を受け入れ、
悲しみを胸の奥に秘めつつも、
日常を生きる心の平静を取り戻していく。
(柳田邦男『僕は9歳のときから 死と向き合ってきた』)

宗教行事が日常的だった大家族の形態が維持されていた頃はでございますね、こうしてグリーフ・ワーク(悲嘆を癒やす仕事)は葬式によって充足されていたのでございましょうし、送る側の根っこを想えば今もそうなのかもしれないなぁ~とは感じられますですね。

「正しい葬送儀礼を行わないと死者が祟る」という論もございます。

正しい喪の儀礼とは、
「死者があたかもそこに臨在しているかのように
生者たちがふるまう」ことなのである。
手を伸ばせば触れることができるように、
語りかければ言葉が届くかのようにふるまうことによって、
はじめて死者は
「触れることも言葉が届くこともない境地」に立ち去る。
死者に向かって
「私たちはいつでもあなたとコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」と誓約することによって、
死者は生者たちの世界から心安らかに立ち去るのである。
(内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』)


死んじゃうちょっと前の昏睡の中でも耳は聞こえているのではないかと言われておりますですし、わたくしめもそのように思うのではございますが、息をひきとった後は分からないでございますよね。
でも逝くときに、言葉が届いているという安心感?は何となく分からないでもない気がしますですね~。

祟りとといえば、葬式無用論者の白洲次郎は

死の五年前に残した遺書が、
一、葬式無用
一、戒名不用
であった。
これが彼の遺言のすべてで、生前の白洲は、
知りもしない人間が義理で葬式に来るのを嫌い、正子夫人に
「葬式をしたら化けて出るぞ」と脅かしていたという。
(島田裕巳『葬式は、要らない』)


何も告げずに逝く人よりも我が身の死後の段取りまで語る御仁のなんと怖ろしいことか!(笑)
白洲の葬儀は遺族の酒盛りだけで、さらに正子夫人が亡くなったときも葬式や告別式は行われなかったそうでございますですよ。

死んだら遺族にお任せすりゃぁよござんしょ、という気持ちもなきにしもなのではございますが、死ぬ時ぐらい、しかも死が予想できる境遇にある身の上を考えますれば、人生のフィナーレのプランを練ることを楽しむってのもアリではございませんか。
もちろん、そうならなかったからといって「化けてでる」という罰当たりなことをするつもりは更々ございませんが!はい(笑)