「釈迦といふいたづらものが世にいでておほくの人をまよはすかな」と、詠まれたのは一休禅師でございますとか。
あれやこれやの「教え」と称する説を弄して「悟り」とは縁遠い今の葬式仏教にたどりついた仏教が、二言目にはお釈迦さまを引き合いに出しますし、葬式が釈迦入滅のしきたりに沿っているとまで言われる僧侶さえおられるのですから、まぁ確かに・・・と思う節もないこともございませんなぁ~。
「恐れとかは、ないですか?」
緩和ケアの先生に、わたくしの思い描く死に際の在り様を淡々と語りましたところ、そう訊ねられたのですよ。
これには一瞬、言葉につまりましたですね。
・・・そのご質問の意味がわからなかったのですよ、わたくし。
で、わたくし「べっつにぃ~」って、いやいや決してエリカ様風ではないですよ!(笑)
何が、死への恐怖心を引き起こすのか?
ずっと考えていたんですよ、わたくしなりに。
ひとつには、死に際の苦しみに対する恐怖が大きいですかね?
意識があって、痛みとかあったらつらいんでございましょうね、きっと。
でもやがて意識は薄らぎ昏睡状態に陥ることは必定でございましょう。昏睡に入ってもなお苦しみの表情は消えない、かも、知れませんが、それは単に身体反応だけではないのか?と思うのでございますよ。
ひゃっくりみたいに、自分の意志では止めることができない身体反応のようなもの、と言ったらよろしいんでしょうか・・・その時、ご本人は、意外に、というか、ほぼほとんど、苦しみは感じていないと思うのですよ。
昏睡という死を迎える準備ができ、いよいよその時が訪れた途端にエンドルフィンとかいうモルヒネ様物質が脳内に分泌されて苦しみを消し去ってくれるだろう、と思うのですよ。少なくともわたくしはその説を信じておるのですよ。
ですから、連れ合いにも言っておりますし、改めてリビングウィルにも認めるつもりでございますが「一切の延命措置はしないでね」
大丈夫!下手な延命治療はしない方が、かえってランナーズ・ハイみたいな(?)陶酔のうちに死ねるはずだからね、って。
来世への恐怖心ってのもございますよね?
あの世の地獄は何とも恐ろしいところで、血の池、針の山・・・いかに恐ろしい世界なのかを強調して、何としても極楽浄土に往生したいという気持ちを人々に刷り込んだのは、浄土宗や日蓮宗などのルーツでもあります比叡山天台の恵心僧都源信だそうでして、その後、親鸞も「地獄は一定」死すれば必ずや地獄に堕ちる、めいたことを仰るものですから、たまったものではありません。あの世の地獄は「当たり前」のこととして、その恐ろしさが衆生に印象づけられたのでございますね~
三途の川やお花畑を見た!という「臨死体験」をそのまま、さもありなん死後の世界のとば口だ、と信じる方はよもやいらっしゃいませんですよねぇ?
臨死体験は、生きてる方が語ることですから・・・外国人の臨死体験に、三途の川はないですから!
現世の人間が勝手にこさえて信仰している宗教による死生観はさまざまですから、その刷り込まれ方によって死後の世界は違って当然なはずですが、死後の地獄も天国も宗教宗派別、な~んて考えている方は・・・マジでおりますかね~?
死という事実に宗教宗派は関係ない、のでございますよ。
そもそも「死」という事実を確認することが出来るのは、生きている人間、しかおりません。
屍を目の当たりにして、その人の死を知るわけですね。
それが古典的な死に方にせよ、脳死のような法律的な死でも、そこに死体があって死を確認できるのです。
ですから不幸にも戦争や災害などで亡くなられて、目の前にご遺体がない場合は、時にはいつまでも生き続けておられることもあるわけでございますね・・・
ですからつまり、死んだ本人は自分の死を確認できない、ということです。
自分が死んだかどうかなんて、死にそうだな~という意識まではあったとしても、死んでも死んだとはわからない。
自分の死体を自分で見るなどということは古典落語の世界でしか起こらない(笑)。それほど滑稽で有り得ないことだということででございますよ~。
川柳ですら「人は皆自分が死んだこと知らず」(諏訪弘史@万能川柳)と詠まれておりますよ~(笑)
ありゃりゃ、緩和ケアの先生の問いからこんなとこまできてしまいました。
閑話休題。
これも一休さんが詠まれたそうですが、
「ゆく水の数書くよりもはかなきは仏をたのむ人ののちの世」
まぁ、流れ行く水に数々書きつらねたところで意味もないじゃぁございませんか、それよりも更にむなしいのは死んだ後のことを仏様に頼むことだよ、ってなことでございましょうが、これはまさに、死後のことになど言及していない釈迦の悟りそのものだと思うのでございますよ!
悟りを求めるはずの仏教が、逆に衆生の迷いを生むに至ってしまったという矛盾が、いまの葬式仏教の矛盾そのものなのだと強く感じざるを得ないのでございますよね~、わたくしは。
葬式仏教の在り方に信心もなく「のちの世」を仏に頼むつもりは毛頭ないわたくしではありますが・・・戒名を授かってしまった!(笑)
理由は、ふたつ。
わたくし自身の祖霊信仰を拭えないのが、ひとつ。
ご先祖を護ってくれているお寺への感謝の気持ちは、ただ単に墓守としてのわたくしの立ち位置だけでなく義務感にも近いものが、わたくしの中にどうしようもなく存在していることを、葬式というものを考える中で気付いたのでございますよ。
もうひとつは、遺る者たちへの想いでございますね。これは結構キツイです。
死んだ本人は死んだのも分からないんだからいいとしても、わたくしの死を目の当たりにする人たちの気持ちを思うと、死んでも死に切れないかも?(笑)と考えたのでありますよ。
残された人たちは、宗教が何であろうが happiness in the other world と逝く者をおくる。
星になれ、風になれ、土に還れ、と菩提を弔う。
祈ることでしか、悲しみを遠ざける術をもたないのですから…
わたくしが愛し、わたくしを愛してくれた人たちのためにも・・・
そして、わたくしの葬式無用論へ向かおうとする論考を引っ込めた決定打は、
連れ合いの「お葬式はするからね!」のひと言。
わたくし、負けながら、うれし涙を流してしまったのであります。。。
【お葬式を考えるにあたって参考となった文献】
五木寛之『大河の一滴』
池田晶子『死とは何か』
入川保則『自主葬のすすめ』
内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』
梅津時比古『フェルメールの楽器』
エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』(内田樹・訳)
笠置さおり 『「いいお葬式だったね」といわれるために』
島田裕巳 『葬式は、要らない』
島田裕巳 『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』
菅純和 『葬式のはなし』
田中治郎『折れない心をつくる名僧の言葉』
土岐佳子 『悲しみの中の静かな笑い』
中川恵一『死を忘れた日本人』
中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな』
村越英裕 『ほんとうは大事な「お葬式」』
柳田邦男 『僕は9歳のときから 死と向き合ってきた』
レイチェル・ナオミ・リーメン『失われた物語を求めて』(藤本和子・訳)