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a lively time

ハラハラドキドキ、ワクワクソワソワの毎日。

信仰の発見

2007年11月14日 | 生と死
初対面の人には政治と宗教と野球の話しはタブーだよ、というようなことを聞いたことがある。確かにのっけからケンカは御免だ。

まずは“仲良きことは美しき哉”のスタンス。そしていったん仲良しになってしまうと、自民がどうの民主がどうの、ジャイアンツがどうのタイガースがどうのとやりあう。
が、それらは議論ができる素地のある話題であり、互いのアンデンティティーのいかんに関係なく動いている事象であるから、口角泡を飛ばしたところでチョイト白熱した世間話という程度で仲良しさ加減にさほどの影響はない。

ところが、残されたもうひとつタブー、宗教はどうだろうか?
キリスト教が当たり前の欧米の国と違って、何でもありの日本人には、自らの心に張られた信仰という琴線に触れたくない傾向が歴然としているように思う。
ぼく自身は葬式仏教のみの檀家で、特定教団にはとんと無縁だし、祈るよりも浅くても広く知を得ることに心の平安を求める人種だけれど、友人・知人にはいろんな神仏の熱心な信仰者がいる。
が、彼らからも信仰の話しはめったに聞かない。

「俺流」に言えば、宗教をタブーにしてしまったらヤバイんじゃないか?ってこと。
自らの信仰を熱く語れというのではない。
せめて知識としてでも、もっと宗教を知るべきじゃないかということ。
・・・生まれて神社に初参り、結婚式は教会で、死ねばお寺でお葬式・・・
この当たり前で平和な生活を維持する為にも(笑)
宗教と信仰の根源を学ぶことは必要じゃないだろうか。

今の国際社会の民族問題も含めあらゆる紛争も経済問題まで、あるいは、この日本の政治や国そのものの成り立ちだって宗教と信仰マインドのプロセスの中で語った方がより鮮明に見えてくるという事実があるのだから・・・

(語り手)瀬戸内寂聴、立松和平、山折哲雄、加賀乙彦、石川好、井沢元彦、羽仁進、篠田正浩、森本哲郎、山口昌男、久保田展弘、ひろさちや、山崎哲、和田秀樹、養老孟司
(インタビュー)石川 眞
『信仰の発見―日本人はなぜ手を合わせるのかー』
(水曜社刊)

備忘録・・・『愛』

2007年10月20日 | 生と死
仏教の慈悲=愛=ラブ?
もともと、インドでは慈&悲=慈の愛・悲の愛。
(慈悲という言葉は中国人が作り上げたらしい。)
慈の愛はヒューマニズム。では悲の愛とは・・・

非は「羽」で、下の「心」が引き裂かれている人を憐れむ愛。
「憐れむ」のヘブライ語の語源は「腸」=断腸の思い。
救いようのない状態で内側から溢れ出る慟哭。無力さの呻き。
そして、その「悲」を原点に、神が動く。
神の愛は憐れみ?

目の前の人との関わりの中でのヘブライ語の愛。
通りすがりの一度限りの愛=ヘン
信頼感に基づいた持続的な誠実な愛=ヘセド
誓いに基づく自己放棄の愛=セダケー

アレキサンダー大王の影響でギリシャ語に訳されてからの変質。
ギリシャの愛は「エロス」
エロスの本質は自己の幸せを求める所有欲。。。ではマズイ(笑)
で、その対極にある愛が「アガベー」
自分の幸せより相手の幸せを求め働きかける愛。
こうして、説く愛に「与える」というニュアンスが強くなる。
が、結論的には
「憐れみ」「愛」という言葉では伝わってこない「神の愛」とは、自ら誓いを立て人間を救おうとする神の姿そのもの とか・・・

他に、元来のヘブライ語源での「言(ことば)」とか・・・
今のぼくたちが持つ語彙での直訳的思考との違いは数限りなくあるようだけれど、それは神のみでなく仏にも有り得る訳で、文言より本質を見極めようとする難しさ(と、言うか)面白さを発見した。

ブッディスト・五木寛之(対話者)カトリック司教・森一弘
『神の発見』(平凡社刊)

旧と新とのパラドクス

2007年10月07日 | 生と死
ありゃりゃ、気づいたら、Testament.なるカテゴリーをこさえてしまった(笑)。
思わず書いちゃったけど、事情説明。エヘッ

ウチダ(内田樹)さんの『ユダヤ論』の影響、大。
でもその前に、娘が図書館から借りてきて「ダメだ、コレ」って放っぽりだした本がある。
それを読んだ。題名は・・・忘れた。内容もおぼろ。。。
でも、コレって何よ。教え、って何よ。ユダヤって?キリストって?・・・
そんな疑問、と言うより、摩訶不思議な人の行動パターンを作ってしまう信仰や民族(日本に生きていてピンとこない領域・・・ちなみに、民族問題は柳原和子さん『さよなら、日本』のメインテーマ・・・)への無知を自覚したところに、たまたまウチダさんの同著が出た。で、読んでから、更なる深みを(そうしたい、なりたい、とかとは別の次元で)知りたくなったのがキッカケ。

旧約はユダヤの教えそのものだと言う。
神が処女・マリアの胎内にイエスを遣わせ、その後が新約。
そして、分かれる。
イエス自体を神とする教えと、イエスを神の代弁者として崇める教え。
更に複雑なのは、旧約の祖、ユダヤがイエスを殺したにも関わらず、旧約も聖書なのだ。
と、いう訳で・・・(つづく)

ん、ここでも一句かな(笑)
“おしゃかさまアラーとイエスにおさとしを”
(万能川柳・富山/江守正さん)
ちなみにコノ句。宗教が生まれた順として、歴史的に正しいそうです。
(さすが、正さん!)

永遠の命のパラドクス

2007年10月07日 | 生と死
SF映画のネタに多く使われる不老不死。
・・・神は人に永遠の命を与えた。それはまさに、神の目的であり、その楽園は神の約束なのだ・・・
聖書とは縁遠いところで生きてきたぼくにとっては、まったく逆の発想だった。

あえて、不謹慎に同列化して言わせてもらえば、落語の「死神」が蝋燭の灯に寿命を託すのと同じように、神も人に寿命を与えて、天に召す。
だから、今の医学は神への冒とくではないのか?
天に召されるべき人の足を引っ張っているんだから・・・

そのまた逆論もあり。
神の目的である永遠の命が、なんらかの事情で全うできそうにない人がいる。それを近代西洋医学で救おうとしてる。なのに何故、血の教えを守って死を覚悟するの?
・・・(つづく)

ん、ここで一句かな(笑)
“不老不死こんなものかと見る造花”(万能川柳・久喜/宮本佳則さん)