考えて、考えて、考え続けて、答えなど得られるはずがないというのが答えなのか・・・
肉体的な死(ない)にもかかわらず、今だ生(ある)のまま「存在」を問い続ける哲学エッセイストの“「最後の」新刊3冊”のうち、毎日新聞社刊の1冊を手にした。
聞きっかじりの唯物論的弁証法なるものに若いころから肩入れしていたぼくにとっては、形而上学と聞いただけでも食わず嫌いの感が否めないのだけれど、タイトルに惹かれて初めて読んだ。
世に当たり前のことより不思議なことはない。
(池田晶子@『死とは何か
~さて死んだのは誰なのか~』毎日新聞社)
その「不思議」へのアプローチに論敵がいない。
「存在」を空間的にも時間的にも他者と自己のかかわりのなかで検証しようというものではなく、その「自己」さえも「不思議」の対象とするが故に思考はあくまでも「孤独」であり、存在の根拠と示す「言葉」さえも超越した境地での論考が語られる。
「存在論」これぞ純粋な形而上学というものなのか?
彼女の言わんとする「謎」。その謎解きはまるで難解なミステリーだ。・・・で、どうなの?・・・だから、どうなの?と思いつつ・・・結局、一気に読んでしまった(笑)
・・・よりよい目的とは何か。決まっている。よい人生を生きることである。人生の意味と無意味を、自ら納得して生きる人生のことである。
・・・「考える」目的がそうであるとするならば、そんなことなら、ぼくはずっと前から「考えて」いたことになる。
なんてったってこのブログを始めたきっかけはそう「思った」からだし、同じようなことを何度も書いてきた。
でもどうも、そう短絡的なことではなそうだ。
特に関心ある「生と死」。
著書サブタイトル(彼女の墓碑銘)のとおり、私はなぜ私なのか?から発した問いが、私の死は存在しないに至るのだ。
二人称・三人称の死。その「死体」のどこを切り取っても「死」は存在しない。ましてや自分の「死体」(死)は自己認識できないのだから「存在」していないのだという。
・・・ということは当然ながら、死が存在しないのならば生は?と思い悩んでしまう・・・
もうこうなってくるとお手上げである。
前々から彼女の著作に親しんでいる方ならいざ知らず、初心者のぼくは、生前のエッセーをテーマ別に切り揃えただけの内容に消化不良をおこしてしまった。
だからと言って
「酔生夢死」とは愚か者の謂かもしれないが、人間の、ひとつの、ぎりぎりの真実の姿でもあるのだ。
に、納得して、考えることを放棄するのも納得できない想いが残る。
仕方なく生前のベストセラーといわれる一冊を副読本に選んだ。
考えるというのは、それがどういうことなのかを考えることであって、それをどうすればいいのかを悩むってことじゃない。(池田晶子@『14歳からの哲学~考えるための教科書~』トランスビュー)
・・・ねぇねぇ、君!と言われながら(笑)、四十数年前には考えもしなかった世界に入ってみようと思う。