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a lively time

ハラハラドキドキ、ワクワクソワソワの毎日。

存在(1)

2009年11月14日 | 生と死
・・・がんは、ひとりでになる病気ではありません。れっきとした「生活習慣病」です。
・・・自然治癒が起こるのは十万例に一例、という報告もありますが、これを食事療法によって確実に高めていくのが私の目標です。
・・・体ががんという病気をつくる方向にすでに向かっているのです。これを力強く逆方向へ方向転換させるには、「健康的な食事」という程度の改革では、もはや充分ではない。
(済陽高穂@『がん再発を防ぐ「完全食」』文春新書)
Amazonの押売りメールに引っ掛かって買っちゃったけど(笑)ぼくのような軟弱もんが読む本じゃなかったなぁ~。
でも今この機会に再びもう一度考えなくちゃいけないことが、やっぱあったね。
命がけ・・・で。。。
「生きたらいい」とケイの目がいった。正確には口がいったのだが、ケイがせまっていて、目だけしか見えない。
「下らない命を大事にしたらいい」
(山田太一@『異人たちとの夏』新潮文庫)
サルトルという外国人の本だって読んだことがある。たいそうなインテリだそうだが、秀吉にはちっともそうは思えなかった。その男の本の中に、こんなことが書いてあったのを覚えている。
『人間には存在する理由など何もない-』
こいつは馬鹿かと思った。高い教育を受けて、何十年も勉強して、ようやく気付いたのか?そんなこと、秀吉は小学校の頃から知っている。
(荻原浩@『誘拐ラプソディー』双葉文庫)

突然の死

2009年11月04日 | 生と死
多分・・・
いつもの朝だったのだろう・・・
「行ってきます」って・・・
いつものように職場に着き・・・
いつものように機械の前に立ち・・・

叔父の訃報
職場で倒れて、そのまま・・・

検死の結果
眉間の傷は倒れた時に機械に当たったのだろう・・・
死因は、心臓麻痺・・・だそうだ。

ぼくの母は長女で、下に5人の妹弟がいる。
その下から2番目の叔父。
一番下の叔父はすでに他界し、その奥さんも亡くなっている。
不吉な物言いになってしまうけれど、
3人とも、突然死だった・・・・・・

明日、通夜に赴く。

扉が、ない。

2009年06月23日 | 生と死
村上春樹の新作をじっくり時間をかけて読み終えた。
ぼくがこんなところに何を書こうが、ネタバレするほど安っぽいお話じゃないと思うし、今までちらほら目にした書評とは(もちろんそのすべてを読むことにそれほどの意味も感じないのだけれど)違う視点から多くの読者も語ることだろうから、ぼくもひとつ(笑)

感想は・・・「今までになくとても怖いお話しだ。」
ぼくが「怖い」と思うのは扉がないこと。
このお話には水の枯れた井戸とか、ホテルのエレベーターやマンホールの蓋みないな、あちらの世界につながるための扉がないこと。
人が、そこにつながる通路になっていることだ。

老婦人もタマルも小松も戎野先生もタクシー運転手も・・・1984年の人だ。
天吾と青豆も出会いから20年間かけてその時代まで普通に生きてきたというのに突然「1Q84年」という世界に足を踏み込んでしまう。しかも同じ時代でありながら戻り道がない世界。
従来の「僕」やカフカは戻りえたが、このお話には帰るための扉が用意されていない。
この世界に(あるいはその世界に)月が一個しかなくても、二個あっても、三個あっても、結局のところ天吾という人間はたったひとりしかいない。そこにどんな違いがあるだろう。どこにいたって天吾は天吾でしかない。固有の問題を抱え、固有の資質をもった、一人の同じ人間に過ぎない。そう、話のポイントは月にあるのではない。彼自身にあるのだ。
「1Q84年」では月は二個だ。なのにあえて「三個あっても」とまでいう。こうもいう。
人の表皮細胞は毎日四千個ずつ失われていくのだという事実を天吾はふと思い出した。それらは失われ、はがれ、目に見えない細かい塵となって空中に消えていく。我々はあるいはこの世界にとっての表皮細胞のようなものなのかもしれない。
そして同じ時代の中のその世界で
助かりたいと思っているのではない。死ぬのはとくに怖くない。そのときがくれば躊躇はしない。私は微笑を浮かべて死んでいける。しかし青豆は、ものごとの成り立ちを理解しないまま、無知な人間として死にたくはなかった。
この世界とその世界とが同居する怖さは、
ぼくにとっては、とても「現実的」だ。

マグマ

2009年06月21日 | 生と死
高校の恩師を招いて級友7人と昼食会をした。
83歳になる先生の送迎担当はぼく。
その車中での話し
「人生とか寿命ってのは“運”なのかなぁ~って、最近思うようになったよ」と先生。
「確かに・・・人との出会いとか巡り会わせで生き方とかに影響されるから、いわゆる寿命にも関係するかもしれないですね~」
「こいつは、俺に会わなかったら、もっといい人生なんじゃなかったろうか?って思うことがあるんだよ」実業系高校で23年に亘って就職担当だった先生の重い一言。
「でも先生。彼は、あるいは彼女は、自分の確固たる選択であったか流れの中でだったか解らないけれど、この学校に来た。その出会いの中に先生がいたわけだから、その人の人生に対する責は先生が負う必要はないし、そこまで考えたらシンドイでしょう!?」
「でもなぁ~、老い先短くなった今、ふとそんなことを考えるんだよなぁ~・・・」
私が 私と 思っている 私には
私の 胃と腸 心臓さえ 動かせない
私の 命の 維持存続 その大事に
知性も 理性も 関わるのは ほんの一部
意識の 制御の 及ばぬもの マグマの技
私の 知らない そのマグマも 私自身
欲望 情念 衝動など 胸底から
私を 突き動かす マグマの熱
マグマが動いて 人に 惹かれ始め
マグマの指令で 人に 逢おうとする
(小椋佳@「岩漿(マグマ)」)
マグマにはどんな言葉も当てはまる。
神でも仏でも運命でも自然でも・・・
そう思えば悟りも達観もわけなきこととは思えども
師83にしてもなお
悟りより 迷いを 背負う道の果て
(小椋佳@「未熟の晩鐘」)
なのである。
ましてやぼくなど、まだまだ・・・

考えてみる

2009年06月10日 | 生と死
 女主人は微笑んだ。「この世の中には、代わりの見つからない人というのはまずいません。もし世界が代わりの見つからない人で満ちていたとしたら、私たちはとても困ったことになってしまうでしょう。もちろんー」と彼女は付け加えた。そして強調するように右手の人差し指をまっすぐ宙に上げた。「あなたみたいな人の代わりはちょっとみつからないだろうけど」
「私の代わりはなかなかみつからないにしても、かわりの手段を見つけるのはそれほどむずかしくないでしょう」と青豆は指摘した。
 女主人は静かに青豆を見ていた。口もとに満足そうな笑みが浮かんだ。「あるいは」と彼女は言った。「でも仮にそうだとしても、私たち二人が今ここでこうして共有しているものは、そこにはおそらく見いだせないでしょう。あなたはあなたであって、あなたでしかない。とても感謝しています。言葉では表せないほど」
 女主人は前屈みになって手を伸ばし、青豆の手の甲に重ねた。(村上春樹@『1Q84』新潮社)
・・・このことについて考えてみる。

考えるヒント

2009年06月04日 | 生と死
老女とて人が死ぬことは当然と思っていたし、死神の来訪にも怯えることもなく「次は私の番だね」程度の感慨しかない。
でも、ふと死神に問う。
「人の死をどう思う?」
人の死にまったく関心がない死神が言う
「特別なことじゃない」
「たとえばさ、太陽が空にあるのは当たり前のことで、特別なものではないよね。でも、太陽は大事でしょ。死ぬことも同じじゃないかって思うんだよね。特別じゃないけど、まわりの人にとっては、悲しいし、大事なことなんだ」
(伊坂幸太郎@『死神の精度』文春文庫)
この会話はここで途切れ、先には進まないのだけれど・・・

考えること(3)

2009年05月17日 | 生と死
外部(他者・社会)のありようは自らの心(感情と精神)から生まれる「思い込み」であり、外部の価値観に自分の判断をゆだねることなく
外界を疑って、内界を見据えることだ。(池田晶子@『14歳からの哲学~考えるための教科書~』トランスビュー)
という自我中心主義唯心論的論考を検証するとき(確かに全能ではないかもしれないが)科学に学ぶことの意義は大きいのではないか?
哲学的な議論に科学がいかように有効なのかも知らないし、ぼく自身がその科学的根拠を実証したわけでもないのだけれど、「考える」ための「知」は、特にぼくのような凡夫にとっては欠かせない指針ではないかと思っている。

「生者必滅」という誰もが納得する常識があり、それを根源として「死とは」と問う。死は、この地球上に生きているすべての人間に自明でありながら誰一人として経験したこのない命題だ。
その「必滅」の人間を必滅たらしめているのは(物質である人間の)細胞の限界ある細胞分裂回数だという。
なぜ、細胞分裂の回数に限界があるのでしょうか。細胞分裂では、DNAをコピーして二つの細胞に振り分けます。私たちのDNAは、2メートルもある「ひも」のような線状の物質です。このDNAがコピーされるたび、DNAの両端が短くなります。実際、私たちのDNAの末端の長さは、年齢とともに短くなり、これ以上短くできない長さになるとDNAのコピーができなくなり、細胞分裂にピリオドが打たれるのです。分裂できなくなることは「死」を意味します。(「Dr.中川のがんから死生をみつめる」@『毎日新聞』コラム)
哲学的観念の死と科学的な死との議論は、倫理観も含めて脳死問題などにもみられるし、論理的な科学概念を眼前の「死」の基準とすることに確かな根拠を得るまでには至っていないかな?とは感じるけれど、そのメカニズムを知りつつ自らの死と生を考えるのは決して悪いことではないと思う。
そこから導き得た我ながらの観念が、結局「自然」であったとしても「納得」と「覚悟」のための精神的バックボーンとしての価値はあるのではないか・・・

・・・と言いながらもぼくは
がん細胞の特徴は、バクテリアと同じように無限に分裂を繰り返し、「死なない」ことなのです。がんの研究などで使われる「ヒーラ細胞」は、米国の黒人女性の子宮頸(けい)がんから採取したがん細胞です。この女性は、1951年にがんで亡くなりましたが、彼女が生み出したヒーラ細胞は、60年近くたった今も世界中の実験室で生きています。そして、十分な栄養さえ与え続ければ、永遠に生きていくはずです。まさに、がん細胞は「不老不死」なのです。
「生者必滅」の常識が通用しないがん細胞は、それを生み出した患者の体と共倒れするまで際限なく分裂を繰り返すという「事実」を知り、またも考え続けることになるのである。。。

考えること(1)

2009年05月10日 | 生と死
考えて、考えて、考え続けて、答えなど得られるはずがないというのが答えなのか・・・
肉体的な死(ない)にもかかわらず、今だ生(ある)のまま「存在」を問い続ける哲学エッセイストの“「最後の」新刊3冊”のうち、毎日新聞社刊の1冊を手にした。

聞きっかじりの唯物論的弁証法なるものに若いころから肩入れしていたぼくにとっては、形而上学と聞いただけでも食わず嫌いの感が否めないのだけれど、タイトルに惹かれて初めて読んだ。
世に当たり前のことより不思議なことはない。
(池田晶子@『死とは何か
~さて死んだのは誰なのか~』毎日新聞社)
その「不思議」へのアプローチに論敵がいない。
「存在」を空間的にも時間的にも他者と自己のかかわりのなかで検証しようというものではなく、その「自己」さえも「不思議」の対象とするが故に思考はあくまでも「孤独」であり、存在の根拠と示す「言葉」さえも超越した境地での論考が語られる。
「存在論」これぞ純粋な形而上学というものなのか?
彼女の言わんとする「謎」。その謎解きはまるで難解なミステリーだ。・・・で、どうなの?・・・だから、どうなの?と思いつつ・・・結局、一気に読んでしまった(笑)
・・・よりよい目的とは何か。決まっている。よい人生を生きることである。人生の意味と無意味を、自ら納得して生きる人生のことである。
・・・「考える」目的がそうであるとするならば、そんなことなら、ぼくはずっと前から「考えて」いたことになる。
なんてったってこのブログを始めたきっかけはそう「思った」からだし、同じようなことを何度も書いてきた。
でもどうも、そう短絡的なことではなそうだ。

特に関心ある「生と死」。
著書サブタイトル(彼女の墓碑銘)のとおり、私はなぜ私なのか?から発した問いが、私の死は存在しないに至るのだ。
二人称・三人称の死。その「死体」のどこを切り取っても「死」は存在しない。ましてや自分の「死体」(死)は自己認識できないのだから「存在」していないのだという。
・・・ということは当然ながら、死が存在しないのならば生は?と思い悩んでしまう・・・
もうこうなってくるとお手上げである。

前々から彼女の著作に親しんでいる方ならいざ知らず、初心者のぼくは、生前のエッセーをテーマ別に切り揃えただけの内容に消化不良をおこしてしまった。
だからと言って
「酔生夢死」とは愚か者の謂かもしれないが、人間の、ひとつの、ぎりぎりの真実の姿でもあるのだ。
に、納得して、考えることを放棄するのも納得できない想いが残る。
仕方なく生前のベストセラーといわれる一冊を副読本に選んだ。
考えるというのは、それがどういうことなのかを考えることであって、それをどうすればいいのかを悩むってことじゃない。(池田晶子@『14歳からの哲学~考えるための教科書~』トランスビュー)
・・・ねぇねぇ、君!と言われながら(笑)、四十数年前には考えもしなかった世界に入ってみようと思う。

The Creator

2008年04月19日 | 生と死
人が生まれる。その時から人は、死に向かって歩みはじめる。
ブッティスト・五木寛之氏の説得力あるロジックはなかなか否定できないしシンパシーも感じる。
が、生まれる・・・生まれた、という原始的な現象過程の説明はない、ように思う。
なぜ人が生まれたのか、なぜ人が存在するのか?
・・・そんなことに言及してどーなる。現世の生をまっとうできれば‘御’の字で、つまりは、今を生きる人たちを安らかな死にいざなう為の手引きが仏教なのだ、というこになるのか。

で、ヒトのその根源を究めたい人たちの拠り所になるのが神教、なのだろう。
ヒトのこの姿かたち・・・これほど重い脳ミソを抱えながらも二足歩行しているということ・・・は生物学的にも「奇跡」と言われている。
当たり前のように習った‘進化論’でも、その根拠は未だ示されていない。
だから、その奇跡を奇跡たらしめるのは‘神’以外にない、ということになる訳だ。
ただし、神教でも、体制を維持する必要性から生まれた民俗信仰(例えば、天照大神)や倫理的神教(例えば「ひとのみち教団」を祖とするPL。あるいは天理など)の教義は「人の存在」という根源には触れていないと思う。

と、なると、これしかない。
The Creator=つくりぬし=創造者=「神」。
落ち着いた先の「神」はひとつ(ひとり?)しか有り得ないという思想だ。
地上に生きとし生けるもの全て(花も木も虫けらも獣も、人間も)。更に、この地球も宇宙も唯一絶対な「神」によって創造されたという結論なのだ。
「わたしは自分がなるところのものになる」(出エジプト記3:14)
モーセに語られた「神」の言葉だ。
この哲学的文言の意するところはないか?
多分、「余は全能なり」ということなのだろう。

一神教=ユダヤ・キリスト・イスラム=の、まさに根源的な強さをココにも窺い知ることができる。

踊る心

2008年03月28日 | 生と死
僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝え合うことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。村上春樹(著)『神の子どもたちはみな踊る』より「神の子どもたちはみな踊る」(新潮文庫)

「パターン」や「ヴァリエーション」や「即興性」や「見えないリズム」の「絡み合い」を「見渡し」ながら踊り続ける。踊りをやめたとき、足元はまるで「底なしの穴」のような闇・・・

ヤバイですねぇ~。まっすますシンパシーを感じちゃいますよ。(笑)

永遠の命のパラドクス(2)

2008年03月27日 | 生と死
暗闇にうごめく邪悪なものの中でのたうちまわる。
すぐそばに居る人もそんなことにはまったく気付かない。
なんという不公正。
そして「私」はこの不条理きわまりないワンダーランドから
「永遠の命」の世界に入っていくのだ。
そこは・・・世界の終わり。。。

村上春樹(著)
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社刊)


直接的に父なる神は登場しないのに、黙示的な意味合いが濃い。
つまり「ハードボイルド・ワンダーランド」は現の人の世であり、
終末観の後の「世界の終わり」はまさに神の世ではないのか!?
いたって短絡的であることを認めながらも、
(何故ぼくは永遠の命を欲しないのか)というぼくの疑問を解く
大きなヒントを発見した気がして悦に入っている。

(ヒト以外の動物に心はあるのだろうか?)と以前から思っていて(心を持つ人間が動物たちを支配するために動物の心をでっちあげているのではないのか?)などと考えていたわけだけれど・・・
まぁそんなことはどっちでもいいこで、
確かなのは、間違いなく人には心があるという事実を、
ここで念を押されたのだ。

「戦争も憎悪も欲望も」ない
「完全」な世界での
「公正」とは何なのだろうか?

神に祈ることも、人の心が為せる業なのだから、と思う・・・

ラブとフェイスとネグレクト

2008年03月01日 | 生と死
ストーカーだらけの古いメロドラマ (2/29万能川柳・しばてんさん)
だが今や愛しくて愛しくての〝一途の恋〟の行いは罰せられてしまう。
ITの進歩とともに〝一途の恋〟も昔みたいに画一的(?)ではなくなったし個々の感性の多様化が社会通念である現状を思えば、ま、しゃ~ないだろうね。
でも、思いを伝えようと粘る若者って、減ってない?
ぼくみたいな意気地なしはちゅーちょしちゃうぜ。
世間を騒がす「冤罪」ってのもあるし・・・ね。

もうひとつ世間を騒がせている「虐待」。
これまたいろんな虐待がある中に「医療ネグレクト」というのがある。
最近、エホバの証人の輸血拒否に関して、15歳未満の患者には例え親が拒否しても輸血をおこなうという指針が出たらしい旨の記事を読んだ。
宗教上の理由であれ子に必要な医療を行わないのは「医療ネグレクト」であるという見解のようだ。
この問題に関しては以前も親権停止の判例があるようだから医療側としてはそれに沿ったマニュアルをこさえておけばいちいちガタガタ言わずに「こー決まってます」の一言で決められる訳だ。

エホバの証人でもないぼくがとやかく言うのも何だし、その子どもの信仰の有無にも関わると思うから二者択一はできないけど、人と宗教・信条を考えるのに一石なのは確かだろう。
患者が信仰や親の意思に反して輸血を受けたことで苦しむ恐れがあるとして、退院後も児童心理の専門家らによるカウンセリングを行うよう医療機関に求めている。(読売新聞)
う~ん、心理学と宗教は土俵が違うと思うんだけど・・・
指針に対しエホバの証人は「年齢により、一律に輸血するのではなく、我々の考えを踏まえた治療をしてほしい。指針は法的拘束力がないので、医療機関に理解を求めたい」としている。(毎日新聞)
患者の宗教的信条を理解して最善の努力をする医師も現にいてその努力が医療技術を向上させているという話しも聞く。

例えばぼくが老いて病の床。安楽死を望み生命維持装置を拒否すると常日頃言っていたとする。そしてその段になる。子はそれを医師に告げる。すると医師はどうするのか?「医療ネグレクト」と言うか?
もう助からない状態とエホバの輸血問題とは違うようだが・・・どうだろう。
医療に絶対はないのだ。輸血したら絶対に助かると誰が断言できるだろう。
生も死を見据える医療において人の尊厳をマニュアル化する難しさを改めて提起したニュースのように感じる。

触らぬ神に・・・

2008年02月26日 | 生と死
高校時代「ルーテルアワー」・・・暗いと不平を言うよりも進んで灯りをつけましょう、とか言う・・・ルーテル教会のラジオ番組を聞いていた。
とても「為」になる内容で「神を教え」を毎回読み切りで伝えていた。
青年期のややもすると倒錯しそうになる思考の中に「真理」的な塊が錨のように投げ込まれる気がしたものだ。
が、しかし、だ。その「真理」はこの世の中の「真理」ではないのだ。ない気がした。
だって、ぼくを取り巻く世間は、まったくと言っていいほど、その逆だもん。だからこそ「真理」としてそーあるべきだというだけの話しにすぎないのだと・・・
もちろん聖書もかじった様な気がするけど、どこかに放り投げた。

でも、そー言ったことがぼくの中に潜在にしていたこともあるのだろうけど、40年の年月が流れた今、再び聖書にも目を通している。
別に信じるものを求めるが故の話しではない。
宗教のひとつ、としての興味からだ。

なんてったって、世界の52.8%という過半数の人たちが神(創造主)は唯一である、とする一神教=ユダヤ教・キリスト教・イスラム教なのだ。
しかも、創世記に始まる聖書こそが、この世界三大宗教の原典だというのだから面白い。
テロにも民族紛争にも絡む一神教の実態とは、これいかに?ってとこ。(笑)

井沢元彦(著) 『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』 徳間文庫

井沢元彦氏がユダヤ・キリスト・イスラム、それぞれの歴史を説き、それぞれを代表(?)するお偉いさん3人に、それぞれにある「真理」をインタビューしている。
イエスを救世主(キリスト)と認めないユダヤ。
ユダヤがイスラエルに戻ることによってイエスが再臨すると信じるキリスト=主に米国プロテスタント。
イエスを認めながらもマホメットを唯一偉大な預言者とするイスラム。

そもそも「真理」は唯一であると思い込むに至るプロセスが理解できないぼくにとっては、やっぱ、不毛の感。。。
歴史的にも現実的にも、互いに何を語ろうと「信」の一字にゃ勝てやせぬ、としか言いようが無い。
ただ、だからと言って彼らを理解せずして世界の動きを理解することは決して出来ないだろう、と思う。
日本も彼らの宗教的理念に基づく国際政治への対応と無縁ではない。
それどころか、聖書に手を置いて就任する米国大統領の政治手法にもろ影響されているのだから・・・
日本の政治家(もしかしたら)‘触らぬ神に祟りなし’って思ってる?
いま米国は大統領選。宗教の色なくして勝敗を語れない選挙であることを、日本のマスコミまでも‘触らぬ神に祟りなし’(なのか)な?

ささやかなれど、命。

2007年12月27日 | 生と死
地獄に射す一条の光・・・それが極楽である。
地獄とは、この、現世。
地獄も極楽も、つまりは現世にあり。
地獄も極楽もない・・・それを浄土という。。。

そうか、地獄なのか!
どおりで生きづらいと思ってた。(笑)

でも、この世も
まんざらではないと思うよ。
そりゃぁ確かにスゴイ世の中になっちまったなぁ~
みたいな感慨は、
昨今のニュースを見ていると否めないけど、
自らを正義として生きることの愚かさに気付かせてくれたのも
この世であり、
生かし生かされ合っている実感を味わうことが出来たのも、
この世なのだから。。。

この世の、このスゴイ現世に対する決定的な処方箋は、ない。
がんという病気に患う人たちを救うべき医療の分野でも、
その治療対応に医師間での論争があるのと同じように、
いや、それ以上に
民族・宗教・政治・経済・・・
それに絡んで法律・教育・地域・家庭・・・
イデオロギーを云々するな!というイデオロギーも含めて
“人間”であることの全てが
複雑怪奇に取っ組み合っているのだから。。。

人の命
人はなぜ生きているのか
人はどう生きるべきなのか
我の命
我はなぜ生きているのか
我はどう生きるべきなのか
そして、人と我。

♪砂にこぼれた雨のしずくが
  川と流れ海に向かうように
   ・・・こんなちいさな命だけど
     (Southern All Stars「からっぽのブルース」)

『大河の一滴』(幻冬舎刊)五木 寛之 (著)

健康問答

2007年11月19日 | 生と死
・・・酒の効用を考えると休刊日など必要ない。
・・・悦びと楽しみをもたらすのなら禁煙にこだわることはない。
・・・ストレスを伴うような健診を受けて一喜一憂することはない。
みたいなことを、ホリスティック医療の外科医・帯津氏が述べる。
そしてほぼ一致した結論が、
・・・あるがままに生きて、死んでゆけばよい・・・

“あるがままに生きる”というのは、ぼくには修行ほどに困難だ。
第一に、このような類の本を読もうとすること自体、あるがままではない証拠だろう。(笑)
つまりは、直感(観)力の乏しさか?
あまたの欲の出処を突き止めるられず、煩悩のるつぼの中で忸怩たる想いに見えなくなってしまった出口を探そうとしての所作とも思えるからだ。
さらには、今日、市の成人健診を受けているのだ。
健診で「なにか」が見つかった経験がある者としては、無意識にもプレッシャーがあるようで、2日前に検便容器を手にした頃から不機嫌になっている自分に気付く。そして今は、バリウムが下りきらない不快を感じながらも・・・(笑)

“あるがままに死んでゆく”ために「わが計らい」は何の役にも立たないのではないか・・・自然法爾(じねんほうに)・・・五木氏の発した言葉の意味を考えることを優先して、とりあえずこの本は「医療について」のカテゴリーに入れないことにした。

五木 寛之 (著), 帯津 良一 (著)
『健康問答 ー本当のところはどうなのか? 本音で語る現代の「養生訓」ー 』(平凡社刊)