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第10章 イスラム教と十字軍(12-13世紀)

2018-07-07 08:36:59 | 教会史
「第10章 イスラム教と十字軍(12-13世紀)」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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聖会は外敵に対してヨーロッパをどのように護りましたか

第7世紀以来、ヨーロッパはイスラム教徒の脅威をこうむり、その馬蹄に踏みつぶされそうな危険にさらされたものでした。この危険よりヨーロッパを救ったのは、実にカトリック教会でした。

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イスラム教徒の危険とは、どのようなものでしたか。

イスラム教というのは、第7世紀にアラビアに出たマホメットが唱えた宗教です。中国では、ゴビの砂漠の北に住んでいた回(糸へんに乞)族(ウーゲルズ族)がこれを信奉していたところから、回教と称するのです。

さて、マホメットは世界をイスラム教に帰服させ、アラビアの支配下に属させるために、神から遣わされたものだと称し、右手に剣を提げ、左手にコーラン--イスラム教の法典--を持ち、武力をもってその教えを広めようとはかりました。
100年足らずでエジプト、シリア、小アジアを取り、進んでアフリカの沿岸及びイスパニアを奪い、フランスを侵しました。もし、フランスの宮宰シャル マルテルの為め、ポアチエの野に爆破(732年)されなかったならば、全ヨーロッパを馬の蹄にけちらしたに相違ありません。

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カトリック教会は、どのようにしてイスラム教徒を防ぎましたか。

同じイスラム教を拝するトルコ人が1076年、エルサレムを占領するに及んで、聖地巡礼のキリスト教徒を虐待し、とてもひどい乱暴を働きました。
それを聞いたキリスト教諸国民は、皆歯を食いしばり、腕をまくりあげ、何とかして聖地をトルコ人の手より奪い返そうと、日夜念願して止まないのでした。

よって、教皇ウルバヌス2世は、フランスのクレルモンという所に赴き、聖職者、諸侯、信者たちを招集し、救い主の御血に染まった聖地が異教徒に汚されている悲しむべき有様を述べ立てました。また、エルサレム巡礼から帰って来たアミアンのペトロは、巡礼者の苦しい悩ましい状況を物語って、一同の旨を悲憤の情にみなぎらせました。群衆は一斉にたちあがって、「天主の聖意だ、天主の聖意だ」と叫び、必ずエルサレムを奪還しようと誓いました。

教皇は出征軍人の右肩に、赤布の十字架を縫い付けさせましたので、十字軍と称するに至りました。(1095年)
十字軍は500年の間も継続しました。その戦役は、第12世紀と第13世紀には10回、それ以後には4回、併せて14回を数えるのであります。

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主な十字軍をお話ください

第1回十字軍は、フランスのブイヨン侯ゴドフロアの指揮に属し、1099年7月15日、エルサレムを攻め落としてラテン王国を建てました。

第7回と第8回十字軍は、フランスの聖ルイ王が率いたものでしたが、2回とも失敗に終わり、王は終にアフリカのチュニスを攻囲中、ペストにかかって世を去りました。(1270年)

その後の十字軍は、オーストリア及びイスパニアからイスラム教徒を撃退するのが目的であったのです。

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十字軍は、どのような結果を生みましたか

十字軍は、その第一目的である聖地の奪還にこそ成功しなかったが、しかし、ヨーロッパに与えた影響は大したものでした。一時、トルコの勢力をくじき、彼らをして、東ローマ帝国をふみにじる機会を失わせました。従軍武士が戦士するか、その所領を売却するかした為に、封建制度は衰え、王権は拡大されました。東国の産物や工芸品が西欧にもたらされて、農、商工や航海術などが大に発達しました。

結び--
「十字軍は世界を新蛮族の洪水より救い、ヨーロッパの面目を一新しました」
(シャトウブリアンの旅行記)


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