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第17章 日本カトリック教会

2018-07-27 00:42:30 | 教会史
「第17章 日本カトリック教会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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 日本にカトリック教会が設けられたのはいつからでしたか。

 聖フランシスコ・ザベリオが1549年8月15日に初めて鹿児島に上陸されたときからです。みおしえは、一時、非常な勢いで全国に広まりましたが、その後、はげしい迫害が起こり、そのためにほとんど全滅の不幸を見ました。
しかし、19世紀の後半に至って、めでたく復活いたしました。

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 聖フランシスコ・ザベリオはどうして日本に布教を試みる気になられたのですか

 聖フランシスコがマラッカに布教しておられた1547年に、弥次郎という日本人が、その従者2人とポルトガル商人の案内で面会に参りました。
 聖人は、この日本人を、ゴアの聖信学院に送って教理を勉強させました。
そして、主従3人は、1548年、聖霊降臨の祝日に、ゴアの大司教の手によって洗礼を受けました。

 聖フランシスコは、弥次郎が利発で、よく道理をわきまえ、信心も堅固であるのを見て、日本への布教が有望であると思い、コスモ・デ・トレス師、フェルナンデス教弟、及び弥次郎主従と、別に中国人(支那)や、マラッカ人一名ずつを伴い、1549年6月24日、マラッカを出帆し、同年8月15日鹿児島に安着しました。

 約一年のあいだ、鹿児島にとどまり、それから長崎の平戸に赴き、平戸から山口を経て京都に上がりましたが、当時京都は戦乱のさなかであって、宗教の話などに耳を傾ける者などいませんでした。
ですから、山口に取って返し、領主、大内義隆の免許を得て布教に従事し、2ヶ月を経過しないうちに、500名の信者を得ました。

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 聖フランシスコは長く日本に布教しましたか

 聖フランシスコは、1551年11月20日、日本を出帆し、インドに帰られました。しかし、コスモ・デ・トレス神父様と フェルナンデス教弟とがとどまって布教を続けました。増援の宣教師もだんだんと参りまして、布教は順調に進み、九州では大村、有馬、大友などの諸大名、近畿地方では、高山右近、内藤如安、小西行長、黒田孝高のような、有力な武将が信仰に入り、信者の数も、慶長の初め頃には、30万人に達しました。

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 迫害はいつごろから始まりましたか

 織田信長は、仏僧等の横暴を憎んでいましたので、それだけ、宣教師たちに好意を寄せて、これを保護しました。

その後を継いだ豊臣秀吉も、初めは好意を持っていましたが、後で、キリシタンが盛んになったら、比叡山や石山本願寺のような勢力を得て、手におえなくなるのではあるまいかと気遣い、天正15年、宣教師追放令を発しました。
 しかし、このときは、宣教師たちが制服を脱いで俗服に着替え、聖堂の門を閉ざして、公の集会を開かず、ひたすら秀吉の命に服したかのような観を呈しましたので、秀吉も見て見ぬふりをして、全く追求しなかったものですから、布教の上に大した害はありませんでした。

 でも、天正18年(1592年)、フランシスコ会の宣教師がフィリピンから来て、秀吉の免許を得たと称して京都に乗り込み、聖堂を建て病院を設け、公然と布教を試み、イエズス会の宣教師や京都所司代から注意されても、すこしも意にかけないのでありました。
そのために、とうとう秀吉の怒りにふれ、フランシスコ会の修道士6名、イエズス会の日本人修道士3名、フランシスコ会の聖堂に出入りしていた信者17名、合計26名が京都、大阪で捕えられ、1597年2月5日、長崎の入り口にある西坂というところで十字架にはりつけられて、あっぱれな殉教を遂げました。

 終に、徳川家康は1614年に全国的禁教令を発し、2代将軍秀忠は父の志を継ぎ、3代将軍家光に至ると、前代未聞の大迫害を断行して、キリシタンを根こそぎにしようと働きました。

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日本教会はどのようにして没落したか

 徳川幕府が日本教会を撲滅するが為に用いた残酷極まる方法は挙げて数えられぬ程です。
 最初は打ち首、十字架にはりつけ、火あぶりなどを用いましたが、後ではそれを手ぬるいとして、首以下を土の中に埋めて、竹ノコギリでその首を挽くとか、裸体にして熱湯を注ぐとか、寒中池の中に入れて凍死させるとか、穴の中に逆さ吊りにして幾日も幾日も棄て置いてもだえ死にさせるとか、血あり涙あるもの到底忍び得ないことを断行しました。
しかし、刑罰が酷烈であっただけ、宣教師や信者たちの殉教的精神は、いよいよ美しく発揮せられました。

 幕府がキリシタンを滅ぼすために用いた方法は、刑罰ばかりではありません。
 また、5人組の制度を設け、組中からキリシタンが発見されたら、組全体を処罰することにし、キリシタン訴えの高札を立てて、彼らを告発させ、踏み絵の制を定め、棄教者に聖像を踏ませて、その棄教の偽りないことを証明させ、寛永18年頃から、キリシタンを発見するが為にこれを利用しました。

 寛永14年10月(1637年)、島原と天草とに、容易ならぬ騒ぎが起こりました。
 それは、島原の領主、松倉重次、天草の領主、寺沢堅高の無理な取り立てに人民がたまりかねて起こした一揆であったのです。
そして、当時、彼らは信仰を棄てて仏教徒になっていたのですけれども、いよいよ命がけとなりましたので、再びもとの信仰に立ち帰り、そのために「キリシタン一揆」と言われるようになりました。
しかし、彼らはキリシタンであるがゆえに一揆を起こしたのではなく、一揆を起こした彼らがキリシタンであったに過ぎないのです。

 宣教師は自国政府の手先で、宗教を説いて人民をなづけ、機の熟するを待って軍兵を送り、これを占領するのだ、その証拠は島原の乱にあり、と知識階級の人が言い立てるのですが、しかし、島原の乱徒は決して外国政府と何らのわたりをもつけず、また、外国側の助けをも期待してはいません。
 かえって、幕府側こそ、オランダの助けを懇請して乱徒を攻撃したのであります。

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 日本カトリック教会はいつ復活しましたか

 幕府は鎖国令を敷き、支那人とオランダ人とを除き、そのほかの外国人は一人も日本に入れないことをして、ついに日本教会を絶滅させました。
しかし、安政5年、アメリカにせまられて国を開き、居留地にはキリスト教の礼拝堂を建設することを許しましたので、フランス パリの外国宣教会所属プチジャン神父様は、慶応元年長崎に26聖殉教者聖堂を建立いたしました。
 すると、同年3月17日、北隣の浦上から14、5人の見物人が参りまして、
「私どもは貴師様と同じ心でございます」
と打ち明け、
「サンタ マリアの御像はどこ?」
と問いました。
それにつづいて、200年来あの地方に隠れていた幾万のキリシタンが次から次へと名乗りでました。

 しかし、まだ、迫害令は撤去されていません。
慶応3年(1869年)7月、浦上の戸主、114名は、萩、津和野、福山に遠流され、越えて明治2年12月、遺族家族及びその他全村の信者3400人以上が全国22藩に追放され、3ケ年半にわたって餓え、渇きに苦しみ、虐待に泣き、あらゆる辛酸をなめ、明治6年(1873年)に至って漸く放免となり、帰郷を赦されました。

 浦上のキリシタンの他に、平戸、五島、大村、肥前藩等のキリシタンは、いずれもその藩、その藩において過酷、残虐な迫害を浴びせられたものであります。

結び--

 長崎県のキリシタンが一切をなげうって信仰を固守し、いかなる弾圧にも屈しなかった結果、明治6年からキリスト教は黙許となり、正教会でも、プロテスタント教会でも、その余恵にうるおうことができました。
終に、明治22年2月11日に発布された明治憲法によって、不完全ながらも信教の自由が赦されることになり、明治24年日本教会には階級制度がしかれ、東京大司教区、及び大阪、長崎、函館司教区が新設されました。

 1945年、終戦後、完全なる信教の自由が保証され、求道者は教会の門にあふれ、教会の面目も一新されつつあります。1949年の今日、信徒数は11万人にのぼっています。


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