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第11章 異端と宗教裁判

2018-07-20 00:29:27 | 教会史
「第11章 異端と宗教裁判」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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それから聖会は何をしましたか

聖会は外敵を打ち払うと共に、またまた内の敵である異端者とも戦わねばなりませんでした。暴力をもって未信者を改宗させ、異端者を圧迫するようなことは、カトリック教会の固く禁止するところであります。
「聖会は血を嫌う」と、教皇ニコラウス1世もいわれました。
聖マルチヌス、聖アンブロジウス、金口聖ヨハネなどは、異端者を殺すのは罪悪であることをしばしば繰り返しました。

しかし、紀元前1000年頃から異端者は、今日のいわゆる虚無主義、無政府主義といったような新しい誤謬説をまき散らし、聖会に対してのみならず、一般社会に対しても危険この上なしでしたから、これをふせぐには、どうしても新しい手段を用いねばならなくなりました。

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異端に対して、聖会はどんな手段を用いましたか

アルビ派に対して、十字軍を起こしました。
13世紀のカタル派(清き者)は、この種の異端者中最も恐るべきもので、主として南フランスのアルビ市を根拠地としていましたから、アルビ派と称するのでした。

彼らは自殺を奨励し、婚姻と家庭生活とを否認し、社会的関係の根底たる誓約を一個の罪として排斥し、戦争をも罪悪視し、侵略者に対しても武器を採るべからずと宣伝するのでした。彼らこそ実に虚無主義者、非国民でした。
もし、この異端が勝を制するに至ったならば、西欧の文明は全滅の外はなかったのです。

聖ベルナルドと聖ドミニコとは、最初彼等を改宗させるために、もっぱら温和と説伏をもってしました。
しかし、彼らはそれにこたえるに、虐殺をもってしたので、教皇インノセント3世は、余儀なくも十字軍を起こして彼らを討伐させました。
戦は、20年の久しきに及び、敵味方とも恐るべき残虐をたくましうしました。

しかし、聖会の敵はいつもながら事実を曲げています。
いわゆる「ベジエル城の殺戮」も、彼らが言い立てるほど残虐なものではありません。また、「皆、殺してしまえ、天主は異端者とそうでないものを見分け給うであろう」と教皇使節が言ったというのは、根も無い虚構(つくりごと)でしかありません。

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聖会は異端をどのように裁判しましたか

聖会は異端を防ぐが為に、新たに宗教裁判制を設けました。
当時、政府の裁判所では、被告に拷問を加えて白状を強いるのでしたが、宗教裁判では、証人の尋問、弁護士、陪審制などを採用しました。
近代の裁判制度はここから発生したのであります。

宗教裁判で加えられる処罰は宗教的で、巡礼、ロウソクの奉献、聖堂への寄付などでした。
処罰は復讐ではなく、罪人を改心させるのを目的としたもので、それらは、近代の刑務所などが到底能くすることができない所です。罪人が悔い改めると、決して、これを官吏に引き渡しません。頑として異端を棄てないものだけが、「俗権の腕」に引き渡され、罪状に従ってそれぞれに処分されたものです。
その最も重いのは、火刑でしたが、しかし、火刑の宣告は、ほとんど例外ともいうべきほどで、しかも、火刑を案出したのは聖会ではなく、ドイツ皇帝フレデリク2世でありました。

なお、この宗教裁判所の設けられたのは、主としてフランス、イタリア、イスパニアの3国でした。イスパニアの宗教裁判は、15世紀の末頃に随分暴虐なことをやったものですが、しかし、それは聖会の裁判所というよりは、むしろ政治上の理由により、国王の手に左右された政治の裁判所であったのです。

結び--
宗教裁判は、正義に対する長大足の進歩でした。近代の裁判制度に多く先じているのであります。

(左下は、カタリ派の儀式)


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