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3-5-4 伍子胥憤死

2018-08-06 01:39:01 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

5 呉越の抗争

4 伍子胥(ごししょ)憤死

 越の思わくどおり、すでに呉は北方に兵を進め、斉と戦っていたのである。
 このときも伍子胥は反対した。越こそが、呉にとって大敵である、というのであった。
 しかし呉王夫差は聞きいれなかった。斉を撃って大いに破り、さらに魯をも討った。
 会楷から九年の後、また斉を討った。
 その翌年、また斉に兵をだすと、越王句践は手兵をひきいて呉に入朝し、てあつい貢物(みつぎもの)を献上した。
 伯嚭(はくひ)にも、たくさんの宝物をおくった。
 呉王と伯嚭はよろこんだが、ひとり伍子胥はおそれていった。
 「越は、わが国にとって腹心の病でございます。どうか斉を捨ておいて、越を先になされませ」。
 しかし呉王は聞きいれず、子胥を使者として斉におもむかせた。
 子胥は、わが子を斉にともなってゆき、
 「わしが呉のほろびるのを見るのは、やむをえない。しかし、お前まで呉に殉(じゅん)ずるのは、むだなことだ」
 といって、斉の国にあずけて帰った。
 いっぽう伯嚭は、たびたび越から贈りものを受けて、すっかり越を信愛していた。
 しかも、かねてから伍子胥とは仲がわるい。王に対して、子胥のことを悪しざまに訴えた。
 「子胥は剛情で乱暴で、人情にとぼしく、猜疑心(さいぎしん)のつよい男であります。
 このところ、自分のはかりごとが用いられなかったことから、王をうらんでおります。ご用心なさらねばなりません。
 それに斉へおもむきました時は、わが子を斉の重臣にあずけてきております。
 内に意を得ず、外は諸侯に通ずる、また先王の謀臣をもって自任していながら、いま用いられぬからといって、つねに楽しまず、王をうらむとは何ごとでございますか」。

 そこで夫差はいった、「その忠言がなくとも、わしもまた疑っていたのだ」。
 王は使者を立てて、伍子胥に属鏤(しょくる)という名剣をたまわった。これで自決せよ、というのであった。
 伍子胥は天を仰いで嘆息した。そして死にのぞんでは、使者に告げていった。
 「わが墓の側に、かならず梓(あずさ=棺材になる木)を植えよ。それで呉王の棺が作れるようにしよう。
 また、わが眼をえぐって、呉の東門の上にかけよ。越賊が攻め入ってきて、呉をほろぼすのを見とどけよう」。

 かくて伍子胥は、みずから首はねて死んだ。
 その言を聞いて呉王は大いに怒り、子胥の屍体を鴟夷(しい=革のふくろ)にいれて、長江に投げしてた。
 呉の国人はあわれんで、江のほとりに祠(ほこら)を建て、子胥の霊をまつった。名づけて胥山(しょうざん)とよんだ。

(写真は越から送り込まれ夫差を堕落させた傾国の美女西施(のイメージ))


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