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真正の教会を認めるための印 2

2019-08-28 05:29:11 | 要理(カテキズム)
『公教要理教案』天主堂出版、1924年

(5)真正の教会を認めるためのしるし 2

一、聖、公、使徒継承の教会について

「聖」とは、教会の信者がみな聖人ばかりだという意味ではない。ただ、教会を御建てになったのが、聖の聖なるイエズス・キリスト様、その教会をお建てになった目的も、人を聖ならしめて、救霊を得させることにあります。

 その目的を達するための手段として、お授けになった教訓や、秘跡は、じゅうぶん人を聖ならしめるだけの力を備えている。また、実際教会内には、聖人が絶えず出なければなりません、という意味であります。ですから、そんなに聖と呼ばれるに耐えることができるのは、どの教会でしょうか。

△公教会、すなわち、カトリック教会です。

○もちろんそうです。
公教会の創立者がイエズス・キリスト様で、その目的が人を聖ならしめるにあったことは、申すまでもありません。この目的を達するがために、公教会は御主様の美しい、感心な御教訓をそのまま伝えている。ことに、イエズス・キリストのお授けになった7つの秘跡は、人を聖ならしめるに最も効果著しいものである。したがって、公教会には、絶えず聖人がでております。その聖徳を証するための奇蹟も、しじゅう行われます。
でも、プロテスタント教会ではどうでしょう。

△決して聖ではありません。

○プロテスタント教会の創立者は、随分品行の良くない、人に爪弾きされるような、ルーテルや、カルヴィンや、ヘンリー8世のような人々でした。その目的は、教会の厳格な戒めを平易にしようとか、自分が教会の頭に立とうとか、教会の財産を巻き上げようとかいうものであったのです。7つの秘跡も、廃止して、ただ、手数のかからない、洗礼と晩餐式とを残して居ります。それも、単に一個の儀式として行うので、精神上に何らの効果も及ぼし得ないのであります。

○ギリシア教会の創立者は、フォチウスとか、ミカエル・セルラリウスとかいうような人々で、義者でもなければ聖人でもない。むしろ、大きな野心家でした。その目的も、ローマ教会に背いて独立し、みずから東の教会の頭になろうというにありました。もっとも人を聖ならしめる手段として、秘跡やミサ聖祭なども、そのまま残っています。
 しかし、聖会の幹から切り離された枝だからでしょうか。一向に聖徳の実を結んでいません。奇蹟も格別行われません。


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