『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
2 カトリック伝道
ポーロ一家がまだ中国にいた一二八九年、イタリアを出発して東方へむかった宣教師があった。
これこそローマ教皇(ニコラウス四世)の命令をうけたジュアン・ド・モンテ・コルビノの一行であった。
インドおよび中国(モンゴルを含む)にカトリックを伝道することが、その使命であった。
ヨーロッパからモンゴルに宣教師がおもむくことは、これが初めてではない。
すでに一二四六年、プラノ・カルピニはローマ教皇の使節として、モンゴルにおもむいた。
そして時の大汗グユクに謁見し、教皇からの書簡をわたした。
一二五四年には、フランク王(ルイ九世)の使節として、ギョーム・ド・ルブルクがつかわされ、大汗モンゲに謁見している。
これらの使節は、キリスト教を伝道するという目的もいだいてはいたが、それよりもモンゴル人を説得して、キリスト教世界への攻撃をやめさせることに、重点がおかれていた。いわば外交の使節であった。
しかもモンゴルの大汗たちの態度は、ヨーロッパ人が考えているよりも、はるかに尊大であった。
グユク大汗からの返書は、そのペルシア語の一通(ほかはモンゴル語とラテン語)が、バチカン図書館にのこっている。
それによれば、「永遠なる天の力による大なるすべての民の海のごとき」モンゴルの大汗は、キリスト教に帰依するどころではない。
「神の力により、日出づるところより、日没するところまで、すべての地を朕はうけたり。
神の命にあらずして、人は何ごとをなすを得ず。
汝よ、衷心(ちゅうしん)より。我らは臣隷(しんれい)なり、我らは我らの力をささぐ”と言え。
汝みずから王どもの先頭に立ち、うちそろってことごとく朕に奉仕せよ。
敬意を表せんがためにきたれ。されば朕は、汝の服従をみとめん。……」
つぎのモンゲ大汗の返書は、いっそう傲慢なものであった。宣数師たちの使命は、達せられなかったのである。
しかし、彼らの旅行記によって、ヨーロッパの人々のあいたにも、モンゴルおよびアジアの内情が知られるに至った。
イル汗国が成立すると、プラグの子孫たちは、キリスト教に理解をしめして、ローマ教皇やヨーロッパ諸国にも友好の態度をみせた。
イル汗国からの使節は、しばしば教皇のもとにおもむいた。
とくに一二八七年、アルグン・カンからつかわされた使節、バール・サウマは、かれ自身がネストリウス教(キリスト教の一派、いわゆる景教)の僧であった。
この遣使によって、ついに教皇は伝道の使節を東方につかねそうと、決意するに至ったのである。
こうしてえらばれたのが、モンテ・コルビノであった。
教皇はフビライあてに親書を、つぎのように書いた。
「朕の即位後、久しからずして朕は、モンゴルの君主アルグン大公よりの信頼すべき使臣を引見せり。
しかしてその使臣は、朕に明言していわく。
光威嚇嚇(かくかく)たる尊ぶべき陛下が朕に対し、またローマ教会に対し、さらにまたラテン民族に対して、偉大なる敬愛の念を有せられると。
かつ、その使臣は、その君主にかわりて、朕に熱心に懇請していわく。
ラテン教会の僧侶を、陛下の朝廷につかわすべしと。
朕は偉大にして壮厳なる陛下に関して、かくのごとき喜ぶべき佳報に接し、我らの教主に対して感激にたえず。
衷心より陛下のために聖寿の万歳を祈り、陛下の光栄のいよいよ隆昌ならんことを祈願す。……」
こうしてモンテ・コルビノは、まずイル汗国の都タブリズにおもむく。
とどまること一年あまり、一二九一年ホルムズを出航し、インドをへて中国の土をふんだ。
つまり、ポーロたちが西へむかって航行していたのと、ちょうど行きちがいに、モンテ・コルビノは中国へむかっていたのであった。
彼が大都(北京)へはいったのは、一二九四年のことである。
ところが、その年の正月に、世祖フビライは死去していた。
よってモンテ・コルビノは、あとをついだ成宗チムールに謁し、教皇からの書簡をささげる。
彼はローマ教皇の特使としてみとめられ、それに相当した待遇をうけて、宣教にしたがうことをゆるされた。
モンゴルの王候のなかには、熱心なネストリウス教徒が少なくなかった。
とくに南モンゴルのオッグート部では、ネストリウス教がさかんであって、王みずから信者であった。
モンテ・コルビノは、さっそくオングート王に会った。そしてその年のうちに、王をカトリックに改宗させた。
オングート王は、カトリックの教えのため、また聖なる三位一体のため、さらにローマ教皇のため、王者にふさわしい会堂を建て、これを「ローマ教会」と名づけた。
こうしてカトリックは、東アジアにおいて、まずモンゴルのオングートに伝道せられるに至ったのである。
しかし大都における伝道は、困難をきわめた。
ネストリウス教徒の憎しみを一身にあっめ、その妨害をうけたからである。
しかし大汗テムールは、彼を見すてなかった。
その許可によって一二九九年、大都の城内にカトリックの教会堂を完成させることができた。
こうして伝道につとめた結果、数年の間に五~六千人の信者を得たのであった。
一三〇五年一月、モンテ・コルビノは大都から、その布教の情況を発信する。
それまでの成果も、かれ独力できずきあげたものであった。
さらに「余を補佐し、援助すべき二~三の同志があったならば、大汗陛下すら現在までに洗礼をうけられたに相違ない。
されば余は衷心より、同志がよろこんで余のもとに来援されることを切望する。」
この書簡はキプチャク汗国をへて、イル汗国のタブリズにとどけられ、大きな衝動をあたえた。
ついで一三〇六年に発せられた第二信は、タブリズからローマ教皇(クレモンス五世)のもとに達せられた。
モンテ・コルビノのあげた成果に、教皇もいたく感激した。
ただちに教皇は、彼を「大都(およびアジアの全土)の大司教)に任じ、そのもとで働くべき七名の司教をも任命した。
一三〇七年七月二十三日のことである。
東アジアにおける最初のカトリック大司教がここに生まれ、ローマ教会の最初の教区が設置されたのである。
その間、モンテ・コルビノは、大都における第二の教会堂を、大汗の宮城の前に建築している。
本堂の上には赤い十字架が高くかかげられ、そのかたわらには礼拝の小堂や、僧舎や事務所が立ちならんだ。
建物が異彩をはなったばかりではない。
定刻にひびく鐘の音、たえなる楽の音と讃美歌の声は、モンゴル人や中国人の耳をそばだたせた。
やがてローマから三名の司教が到着する。
大都には第三の教会が建てられ、さらに江南の泉州にも、あらたに司教区が設けられるとともに、壮麗な会堂が建てられた。
こうして泉州も、カトリック布教のひとつの中心となった。
元朝のもとにおいて、カトリックは日ましに隆盛におもむいた。
そのなかで一三二八年、モンテ・コルビノは安らかに昇天した。八十一歳の高齢であった。
ところでモンテ・コルビノの伝道による最初の教会堂は、オングートの地に建てられたのである。
そのオングートの王城はどこにあったのか。
これが久しくわがらなかった。それを内モンゴルの百霊廟をへだたること五〇キロ、オロン・スムの地と推定し、それから「ローマ教会」の遺跡を発見したのが、わが江上波夫氏であった(一九四一)。
オロン・スムの教会堂は、屋根を白磁の瓦でふき、煉瓦の壁にはゴシック風の意匠がほどこされていた。
建物の跡からは、教会の聖人像てあったかと思われる塑像(そぞう)も発見された。
オングートの「ローマ教会」は、東アジアにおける最初のヨーロッパ風建築でもあったわけである。
12 元朝の支配
2 カトリック伝道
ポーロ一家がまだ中国にいた一二八九年、イタリアを出発して東方へむかった宣教師があった。
これこそローマ教皇(ニコラウス四世)の命令をうけたジュアン・ド・モンテ・コルビノの一行であった。
インドおよび中国(モンゴルを含む)にカトリックを伝道することが、その使命であった。
ヨーロッパからモンゴルに宣教師がおもむくことは、これが初めてではない。
すでに一二四六年、プラノ・カルピニはローマ教皇の使節として、モンゴルにおもむいた。
そして時の大汗グユクに謁見し、教皇からの書簡をわたした。
一二五四年には、フランク王(ルイ九世)の使節として、ギョーム・ド・ルブルクがつかわされ、大汗モンゲに謁見している。
これらの使節は、キリスト教を伝道するという目的もいだいてはいたが、それよりもモンゴル人を説得して、キリスト教世界への攻撃をやめさせることに、重点がおかれていた。いわば外交の使節であった。
しかもモンゴルの大汗たちの態度は、ヨーロッパ人が考えているよりも、はるかに尊大であった。
グユク大汗からの返書は、そのペルシア語の一通(ほかはモンゴル語とラテン語)が、バチカン図書館にのこっている。
それによれば、「永遠なる天の力による大なるすべての民の海のごとき」モンゴルの大汗は、キリスト教に帰依するどころではない。
「神の力により、日出づるところより、日没するところまで、すべての地を朕はうけたり。
神の命にあらずして、人は何ごとをなすを得ず。
汝よ、衷心(ちゅうしん)より。我らは臣隷(しんれい)なり、我らは我らの力をささぐ”と言え。
汝みずから王どもの先頭に立ち、うちそろってことごとく朕に奉仕せよ。
敬意を表せんがためにきたれ。されば朕は、汝の服従をみとめん。……」
つぎのモンゲ大汗の返書は、いっそう傲慢なものであった。宣数師たちの使命は、達せられなかったのである。
しかし、彼らの旅行記によって、ヨーロッパの人々のあいたにも、モンゴルおよびアジアの内情が知られるに至った。
イル汗国が成立すると、プラグの子孫たちは、キリスト教に理解をしめして、ローマ教皇やヨーロッパ諸国にも友好の態度をみせた。
イル汗国からの使節は、しばしば教皇のもとにおもむいた。
とくに一二八七年、アルグン・カンからつかわされた使節、バール・サウマは、かれ自身がネストリウス教(キリスト教の一派、いわゆる景教)の僧であった。
この遣使によって、ついに教皇は伝道の使節を東方につかねそうと、決意するに至ったのである。
こうしてえらばれたのが、モンテ・コルビノであった。
教皇はフビライあてに親書を、つぎのように書いた。
「朕の即位後、久しからずして朕は、モンゴルの君主アルグン大公よりの信頼すべき使臣を引見せり。
しかしてその使臣は、朕に明言していわく。
光威嚇嚇(かくかく)たる尊ぶべき陛下が朕に対し、またローマ教会に対し、さらにまたラテン民族に対して、偉大なる敬愛の念を有せられると。
かつ、その使臣は、その君主にかわりて、朕に熱心に懇請していわく。
ラテン教会の僧侶を、陛下の朝廷につかわすべしと。
朕は偉大にして壮厳なる陛下に関して、かくのごとき喜ぶべき佳報に接し、我らの教主に対して感激にたえず。
衷心より陛下のために聖寿の万歳を祈り、陛下の光栄のいよいよ隆昌ならんことを祈願す。……」
こうしてモンテ・コルビノは、まずイル汗国の都タブリズにおもむく。
とどまること一年あまり、一二九一年ホルムズを出航し、インドをへて中国の土をふんだ。
つまり、ポーロたちが西へむかって航行していたのと、ちょうど行きちがいに、モンテ・コルビノは中国へむかっていたのであった。
彼が大都(北京)へはいったのは、一二九四年のことである。
ところが、その年の正月に、世祖フビライは死去していた。
よってモンテ・コルビノは、あとをついだ成宗チムールに謁し、教皇からの書簡をささげる。
彼はローマ教皇の特使としてみとめられ、それに相当した待遇をうけて、宣教にしたがうことをゆるされた。
モンゴルの王候のなかには、熱心なネストリウス教徒が少なくなかった。
とくに南モンゴルのオッグート部では、ネストリウス教がさかんであって、王みずから信者であった。
モンテ・コルビノは、さっそくオングート王に会った。そしてその年のうちに、王をカトリックに改宗させた。
オングート王は、カトリックの教えのため、また聖なる三位一体のため、さらにローマ教皇のため、王者にふさわしい会堂を建て、これを「ローマ教会」と名づけた。
こうしてカトリックは、東アジアにおいて、まずモンゴルのオングートに伝道せられるに至ったのである。
しかし大都における伝道は、困難をきわめた。
ネストリウス教徒の憎しみを一身にあっめ、その妨害をうけたからである。
しかし大汗テムールは、彼を見すてなかった。
その許可によって一二九九年、大都の城内にカトリックの教会堂を完成させることができた。
こうして伝道につとめた結果、数年の間に五~六千人の信者を得たのであった。
一三〇五年一月、モンテ・コルビノは大都から、その布教の情況を発信する。
それまでの成果も、かれ独力できずきあげたものであった。
さらに「余を補佐し、援助すべき二~三の同志があったならば、大汗陛下すら現在までに洗礼をうけられたに相違ない。
されば余は衷心より、同志がよろこんで余のもとに来援されることを切望する。」
この書簡はキプチャク汗国をへて、イル汗国のタブリズにとどけられ、大きな衝動をあたえた。
ついで一三〇六年に発せられた第二信は、タブリズからローマ教皇(クレモンス五世)のもとに達せられた。
モンテ・コルビノのあげた成果に、教皇もいたく感激した。
ただちに教皇は、彼を「大都(およびアジアの全土)の大司教)に任じ、そのもとで働くべき七名の司教をも任命した。
一三〇七年七月二十三日のことである。
東アジアにおける最初のカトリック大司教がここに生まれ、ローマ教会の最初の教区が設置されたのである。
その間、モンテ・コルビノは、大都における第二の教会堂を、大汗の宮城の前に建築している。
本堂の上には赤い十字架が高くかかげられ、そのかたわらには礼拝の小堂や、僧舎や事務所が立ちならんだ。
建物が異彩をはなったばかりではない。
定刻にひびく鐘の音、たえなる楽の音と讃美歌の声は、モンゴル人や中国人の耳をそばだたせた。
やがてローマから三名の司教が到着する。
大都には第三の教会が建てられ、さらに江南の泉州にも、あらたに司教区が設けられるとともに、壮麗な会堂が建てられた。
こうして泉州も、カトリック布教のひとつの中心となった。
元朝のもとにおいて、カトリックは日ましに隆盛におもむいた。
そのなかで一三二八年、モンテ・コルビノは安らかに昇天した。八十一歳の高齢であった。
ところでモンテ・コルビノの伝道による最初の教会堂は、オングートの地に建てられたのである。
そのオングートの王城はどこにあったのか。
これが久しくわがらなかった。それを内モンゴルの百霊廟をへだたること五〇キロ、オロン・スムの地と推定し、それから「ローマ教会」の遺跡を発見したのが、わが江上波夫氏であった(一九四一)。
オロン・スムの教会堂は、屋根を白磁の瓦でふき、煉瓦の壁にはゴシック風の意匠がほどこされていた。
建物の跡からは、教会の聖人像てあったかと思われる塑像(そぞう)も発見された。
オングートの「ローマ教会」は、東アジアにおける最初のヨーロッパ風建築でもあったわけである。