カトリック情報 Catholics in Japan

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19歳で喫煙すると五輪出場辞退とか

2024-07-20 09:55:13 | 時事
 19歳の体操の日本代表がパリ五輪出場辞退に追い込まれたようです。喫煙が発覚し、その後、飲酒も発覚したからだとか。

 いくらなんでも、不寛容が過ぎるでしょう。大麻や麻薬を吸った、とかなら、わかるのですが、これは罪刑の均衡を著しく欠いています。厳重注意をして、反省文を提出させれば、済む話ではないでしょうか。

 処罰を求めるSNS上の大合唱にも驚きました。最近は、どこにおいても、日本人がかつてより遥かに不寛容に、せせこましくなってきたように感じます。原因は何でしょう? 殆どの日本人は信仰や道徳を教わる機会がないうえに、不遇な境遇に悩んでいるせいでしょうか。この罪刑のバランスを著しく欠いた過剰な処罰の要求の裏側には、そういう感情や成功者への嫉妬が潜在的にありそうに見えます。

 ここまで求めなくてもいい事案なのに・・・。みんなで赦し、はげませばいい事案なのに・・・。

 本当に日本も末期的だと感じる次第です。


 それにしても、発覚原因が内部通報とありますが、誰が何の目的で通報したのでしょうか?
 また、体調不良以外の理由では補欠との交代が認められず、日本の女子体操選手団は4人で戦わなければいけないようです。おそらく、最初からメダル取得は絶望的でしょう。少なくとも、他の4選手に全く罪はないはずですが、彼女らの為にも、処罰を先送りすることはできなかったのでしょうか。処罰の方法や程度が適正であったのか、幾重にも疑問を感じます。

 繰り返しますが、未成年の飲酒や喫煙を無問題だと言っているのではありません。罪刑の均衡を問題にしています。例えば、初犯で少額の窃盗に対して、死刑は行き過ぎでしょう。そのようなことを「罪刑の均衡」と呼びますが、この件はそれに大きく反しています。




9-7-6 ベーリングの後援者

2024-07-20 02:37:15 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
6 ベーリングの後援者

 ロシア人のシベリア進出は十六世紀から本格的に行なわれているが、またこの地は流刑地として有名である。
 まさしく「シベリア流刑史は、シベリアの発見とともにはじまる」のである。
 そして十七世紀にもシベリア経営は、主としてコサックにより原住民を征服しつつ行なわれ、その間にはオホーツク海岸や、いまのベーリング海にのぞむ地方も探検された。
 このシベリア開発のおもな目的は良質の毛皮をうることにあり、これをもとめて、多くのロシア商人が出かけた。
 彼らによって都市がつくられ、これに応じて、農民の強制植民もすすめられた。
 ヤクーツク市は、シベリア東部進出の拠点となった。しかし十七世紀中ごろ、ロシア人がアムール川(黒竜江)の流域に進出すると、当時の清朝勢力と衝突するにいたった。両者のあいだにたびたび戦いがまじえられたが、これを平和的に解決したのは、一六八九年に成立したネルチンスク条約である。   

 その後もピョートルは中国との交渉に意をもちい、死去する直前に派遣されたロシア使節団は、一七二七年、清国とのあいだにキャフタ条約をむすんだ。
 これは蒙古方面との国境や、通商、外交上などについて定め、二十世紀にいたるまでのロシアと清国との関係をきめるものであった。
 一方、十七世紀末、ウラジミール・アトラソフ(?~一七一七)によってカムチャッカが発見されていたが、晩年のピョートルは、極東方面への探検隊派遣を計画した。そして海軍大尉ベーリング(一六八〇~一七四一、デンマーク人)の一隊が、一七二五年二月、ピョートルの死の直後、ペテルブルクを出発してヤクーツクへ向かった。
 ここからオホーツクへぬけるあいだにさえ、一行は飢えきって、死んだ馬の肉はむろん、荷袋や衣服の皮革まで食糧とするありさま、十月末ころ、やっとオホーツクへ達した。
 そして、一七二八年三月、苦心のすえニジニ・カムチャッカにたどりつき、船をつくって七月中ごろ出航、のちにベーリング海峡と名づけられた海上を進んだが、陸影を見なかったのでひき返し、二大陸が離れていることを知った。               

 その後、一行がいろいろな情報や物資をえて、ペテルブルグへ帰ったのは、一七三〇年三月であった。
 さらにこの事業を完成させるため十分に準備をととのえ、一七四○年、ベーリングは二度目の探検に出発した。
 そして一行はアラスカに達し、アリューシャン群島を発見したりした。
 しかし帰途、ベーリングは難船して無人島(いまのベーリング島)にうちあげられ、そこで生涯をとじた……。
 この晩年のピョートルは家庭生活において、めぐまれなかった。
 最初の妻エウドーキアとの不和については前述したが、彼女は修道院にはいり、やがて正式に離婚する。
 皇太子アレクセイも成人すると、この母に味方し、父を敵とするようになった。
 彼は「改革」に反対する大貴族の陰謀にくみし、
 「親父が死ねば、わたしがツァーリになる。
 そのときにはペテルブルグは荒野となり、首都はふたたびモスクワになるだろう。
 海軍も廃されるし、スエーデンとの戦争もやめる」

と公言したが、ついに「反逆罪」にとわれ、一七一七年死んだ。
 この死因については、さまざまなうわさが流されていた。
 ビョートルははじめ、アレクセイを廃嫡して修道院にいれる考えであったが、この息子は父にそむいてウィーンに逃亡し、ついで本国に送還されると、軍法会議にかけられた。
 そこで死刑が宣告され、二日後に執行されたというが、一説によると、この日の朝、父と九名の将官のまえで取り調べをうけ、拷問中に死んだともいう。
 ピョートルの二度目の妃がエカテリナで、一七〇二年夏、北方戦争中、敵の捕虜のなかから見つけられたという女性である。

 その後五年間ほどを、彼女がどのように暮らしたかはわかっていない。
 一説によると、彼女は本名をマルタとよび、リトワの農奴の娘であったというが、ロシア軍に捕われてからは、おそらく「遠征妻」「兵士妻」など、いわゆる陣中のなぐさみものとなったのではなかろうか。
 記録ではっきりしてくるのは、シェレメーチェフ元帥家にいるときからで、やがてメンシコフ公爵邸にうつっているが、これはかこいものであったらしい。
 たまたまピョートルがここを訪れたとき、一目見て好きになり、むかえて皇妃とした。
 このようにいかがわしい素姓の女性であったから、エカテリナは学問も、教養もなく、文字さえも読めなかったという。
 ただ持ちまえの美貌のうえに、よく気がきき、客扱いが巧みであったのが、ピョートルの気にいったらしい。
 しかしさすがのピョートルも、この皇妃を外国の王室の前にだすのは気がひけたとみえて、フランス訪問のさいにも同伴はしなかった。
 彼女の好みは派手であったが、あるドイツ王女の評によると化粧は「道化役者」のようで、衣裳は「流行おくれ」で、「一目でおさとが知れる」と。
 ところでピョートルの最期は、偶然がきっかけとなった。
 一七二四年十一月のある日、国内視察中に、たくさんの兵士たちを乗せたボートが、浅瀬に乗りあげているのに出くわした。
 ピョートルはみずから水中にとびこんで腰までつかり、大男の強い腕力をもって、これを救った。その水がたいへん冷たかったためか、彼は急に発熱し、視察をあきらめてペテルブルグに帰ったのち、翌二五年一月末、世を去った。
 五十二歳。ロシア絶対主義国家の原型があとに残された。
 一七二二年、ピョートルは皇帝自身が後継者を指名する帝位継承法を制定していた。
 しかし彼はこれを行使せず、死にのぞんで何か書こうとしたが、読みとれたのは、「すべてを………あたえよ」という言葉だけであったという。



私たちの導き手 聖モンフォール

2024-07-20 02:26:19 | 格言・みことば
天国へ続く道から外れてしまったのですか。マリアの名は「海の星、現世の航海中に私たちの魂の船を導く北極星」を意味し、彼女はあなたを永遠の救いの港に導いてくれるでしょう。

聖ルイ・ド・モンフォール『ロザリオの神秘』





聖マルガリタおとめ殉教者    St. Margarita V. M.  

2024-07-20 00:00:05 | 聖人伝
聖マルガリタおとめ殉教者    St. Margarita V. M.          記念日 7月 20日


 聖会にはマルガリタと呼ばれる聖女が幾人かあるがその最も古くして他の人々に宗家と仰がれているのは、本日祝う聖マルガリタ童貞である。ギリシャ正教会ではこの聖女を大殉教女と敬称し、またわがローマ公教会ではこれを14人の救難聖人中に加え、アグネス、セシリア、カタリナ等と共に最も有名な聖殉教女として尊んでいる。

 聖女の生涯は聖会初代の他の聖人聖女同様、歴史記録には詳しく伝えられていない。しかし伝説によれば小アジアのアンチオキアがその生まれ故郷であったという。父エデシオは偶像教の祭司で、母は早く死去したから、マルガリタは幼年から乳母の手に育てられた。彼女がやがてキリスト教に入ったのは、実に同教を信ずるこの敬虔な乳母の感化によったのである。
 父は彼女の殊勝な態度の変化からその改宗を察し、ある日それを確かめる為に詰問した。マルガリタは今こそ主の御名を隠してはならぬ時と、悪びれた様もなく率直に信仰を告白した。父は普段その美徳の故にこよなく愛した我が子ながら、かねての疑いが事実とわかると、愛の深かっただけに裏切られたという怒りも激しく、ついに娘を勘当してしまった。マルガリタは行き所のないままに、乳母の家に同居する事とし、身分の高い生まれを女中の如く、賤しい仕事も厭わずよく働き、乳母もろとも聖教を守りつつ平和な日々を送った。
 その中にローマから同地方の新知事としてオリブリオという者が着任すると、頑固一徹な憎悪に親子の情愛も忘れはてた父は、自ら娘マルガリタのキリスト信者であることを訴え出たから、すぐさま彼女は法廷に召し出された。
 ところがマルガリタは艶麗花を欺く美貌の持ち主であったので、オリブリオは一目見るより心を奪われ、之を助けてわが妻にしたいものと「その方は自由の身か奴隷の身か?奴隷ならば自由を与え、自由ならば余の妻にしよう」と甘言を以てその心を得ようとしたが、マルガリタが「自由の身ですがキリスト信者でございます」と断固として答えるのを聞くと、「そのキリスト教を棄てよ、棄てねば恐るべき責め苦に逢わせるであろう」と威嚇した。けれどももとよりそんな言葉に動かされるマルガリタではない。即座にこれを拒絶したから、知事は侮辱された如く怒り、彼女を散々鞭打たせた挙げ句暗い牢内に投げ込んだ。
 すると常々彼女の聖徳を憎んでいた悪魔は、恐ろしい巨龍となって姿を現し、彼女に襲いかかろうとした。しかしマルガリタは少しも恐れず、天主を念じつつ十字架の印をして之を撃退してその害を免れた。今もマルガリタの聖絵といえば、龍を足下に踏まえ、十字架のついた杖で突き伏せている様を描くのが常であるが、これは即ち先の伝説によったものに他ならない。
 数日後彼女は再び白州に引き出され、またも数々の責め苦を蒙ったが、よく耐え忍び、ついに剣で首を刎ねられてその穢れない命を天主に献げた。時は定かにそれと知られぬが、多分はディオクレチアノ皇帝の御世、307年頃であったろうと推察される。迫害の嵐にあわれ殉教の花と散った篤信のマルガリタは、後その壮烈な最期を多くの詩人文人に讃美され、その記念に建てられた聖堂も少なからず、数多の婦人に保護者と仰がれて千載までもその美名を謳われている。

教訓

 子たる者は親を天主の代理者として之に絶対に服従せねばならぬ。けれどもそれは親が天主の思し召しに添う正しい命令を下す限りに於いてである。不正な要求をなす時は親自ら天主の代理者たる資格を擲つのであるから、之を容れる必要はない。聖女マルガリタが父のキリスト教を捨てよという命令を拒んだのもこの理由からであった。しかし彼女は父が無理な難題を持ちかけたからと言って、決して之を怨んだり復讐を企てたりはしなかった。我等もこの限界をよく心得ておかねばならぬ。即ち親の不正を拒む権利はあるが、之に憎悪をかけたり害を加えたりする権利はないのである。却ってその為に祈り改心を願うこそ子として踏むべき道であろう。