トトラの馬

元々はエコロジーやスローライフについて書いていましたが、とりとめなくなってきた。

カラマーゾフの兄弟:ロシア人の名前

2006-11-22 01:00:59 | 読書
実家に戻ったときに本棚をあさって、昔読んだ「カラマーゾフの兄弟」上・中・下巻を持ち帰り、読み始めたところです。
高校、大学の頃に1度ずつ読んだので3度目の読書ですが、今回読みはじめて1ページ目で、これまでの2度の読書では気づかなかったことに気づいてしまいました。

第一章の一行目から、登場人物の説明が始まるのですが、
「アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフは、(中略)フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフの三男であった。」
と書かれています。

お父さんがフョードル。
で、その息子のミドルネームはフョードロウィチ。
・・・あれ、これってお父さんの名前が入ってる???

そう思って読み進めると、2ページ目で長男ドミートリイの母親の名前が出てきました。
「アデライーダ・イワノーヴナ・ミウーソワ」
そっか、きっとお父さんの名前はイワンさんだ。
ロシア人のミドルネームは、「誰々の息子」「誰々の娘」というのをつけるんだ!
「ウィチ」が息子で、「ヴナ」が娘につけられるに違いない!

2ページ読んだだけなのに、かなり興奮しました。
早速ネットで確かめたら、ミドルネームは「父称」というものであることがわかりました。
いや、常識なのかもしれないですけど、初めて知りました。
というより、自力で気づいたので感動です。
本は何度読んでも新しい発見があるといいますが、こんな単純な発見をするとは驚きました。

わたしの父親は今ロシアにいるから、もし訪ねる機会があったら出会った人に「ジュンコ・シンゴーヴナ・ヒロタです」と自己紹介することにしよう。


この「カラマーゾフの兄弟」、出てくる食事がとってもおいしそうなんですよね~。
以前、ロシア料理を食べに行ったときには、「あのカラマーゾフ兄弟が飲んでいたロシアのワインが飲める!」と、かなり浮き足立っていました。
父称のことで興奮してまだ上巻をちょっとしか読んでいませんが、読み終わったらまたロシア料理を食べに行こうかな。

フェルマーの鸚鵡はしゃべらない

2006-09-19 19:36:55 | 読書
苦手教科の克服計画 第二弾、数学編です。

『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』 ドゥニ ゲジ著 角川書店

数学は苦手とはいえ、正確にいうと授業の時間は結構楽しかったのです。
習った公式や方程式を使い、工夫をこらして正解を導き出すのはクイズ的な楽しさと達成感がありました。

ただ、次の単元に進むと前に習った事をきれいさっぱり忘れさってしまうのが問題。
たぶん、クイズを解くためのルールとして一時的に理解しているだけで、一体何の計算なのかよく分っていなかったんですね。
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『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』は、“数学ミステリ”です。
少年マックスが蚤の市で偶然手に入れた不思議なしゃべるオウムと、車椅子の古書店主リュシュ氏が受け取った古い友人からの手紙。
この二つに導かれて次々と起こる奇妙な事件や謎に巻き込まれ、すでに老境に差し掛かったリュシュ氏やマックスら子どもたちは数学史の世界に飛び込んでいくのです。

 “大きすぎて測れないピラミッドの高さを測るには?”
 “立方体の祭壇を2倍にしなければならないとの神託に、どうやってこたえる?”

彼らの数学の旅には、こんな魅力的な数学の問題がいくつも転がっています。
具体的な問題がイメージできると、その解法に対しても興味が持てますね。
この本を読んで、数式だけではイメージが湧きにくい問題こそ、文章題が良いのではないかなと思いました。小学校だけじゃなくて、中学や高校でも文章題を出せばいいのに。
この本一冊が、まるまる長い文章題の集まりのようなのです。

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少し前ですが、人力検索はてなで以下のような質問があり、寄せられた回答と質問者の返答を大変楽しく読みました。

よく「因数分解が何の役にたつんだよ」という子どもがいます(大人にもそういう人が稀にいます)。
これに対するスマートな反論をお願いします。


「“役に立つからする”“役に立たないからしない”というような考え方ではいけない!」という意見はごもっとも。
ですが、そんな事を言ってみても数学が楽しくなるわけでもないし、数学嫌いがこれを聞いて「そうか、わかった。じゃあ、がんばるよ!」と思えるはずもありません。

「何の役に立つのか?」という問いは、「自分にどんな利益をもたらすか?」という意味で発せられているのではない、と思うのです。
「○○の職業に就きやすい」「良い大学に受かるため」「教養になる」などというような現世利益的な答えは必ずしも必要ではなく、自分との接点を見つけ、イメージを持つための取っ掛かりとしての質問ではないでしょうか。

中学・高校で習う教科の中でも、数学は特に自分との関わりがイメージしにくい教科だと思います。
 “「ああ、この計算でこれが分った」と実感できるのはどんなシーンか?”
 “この計算ができるようになると、どんな事ができるのか?”
 “なんのためにこんな計算方法が生まれたのか?”
というように、背景なり未来なりにイメージを持てれば、より身近なものとして興味を持ちやすくなるのでは、と思うわけです。

●この本を読んでびっくりしたこと
 「+」「-」の計算記号は1489年にできたけど、「=」は1557年までなかった!

●この本を読んでなおよくわからないこと
 虚数i。存在しない数を計算に使わないと計算できない計算ってなに??
 ・・・と、なにが分らないかも分らない混乱状態。

●この本を読んで思ったこと
 何歳であっても情熱があれば新しいことを学ぶ事ができる。

●この本を読んで調べてみようと思ったこと
 オウムはなぜ人真似をしてしゃべるのか?

家系図から読みとる日本史

2006-09-09 22:43:07 | 読書
数学と歴史、授業で習ってもちっとも面白くなかった二大教科です。

いや、正確に言うと日本史なんか、ほとんど習ってません。
日本史を習うはずの中学2年生のとき、社会担当の先生がなんの理由だったか忘れましたが休職し、代理の先生が受け持つ事になったのです。
で、その代理の先生が大仏マニア。
ずーっと、大仏の変遷やら顔の見分け方やらの話ばかりを聞き続けた末、集大成のテストでは大仏の顔写真がずらりと印刷されたテスト用紙が配られて、「さて、これは何寺の何という大仏でしょう?」というクイズみたいな問題が出されました。
今になって考えると代理先生のパーソナリティは興味深いものがありますが、すくなくとも日本史に興味深さを感じられませんでした。

授業とは離れても、特に戦国時代なんかはなんとかの乱とかどこどこの戦いとか天下統一とか、味方と思いきや寝返ったり、血縁も入り乱れて誰が何のメリットで動いてるのかよくわからないし、初登場なのに第一位、みたいな人ばかり出てくるし・・・
登場人物が多すぎる小説のような感じで、正直に言ってちんぷんかんぷん。

ただ、授業で校庭を走らされたジョギングは嫌悪の対象でしかなかったのに、大人になってから河原をジョギングしてみたら楽しかった!ってこともありますので、なんとなく読んでみたのがこの本。

『家系図から読みとる日本史』 須藤公博著 駿台曜曜社

こちらの本は歴史を順に追ってカバーするような書き方ではないのですが、個人的な好みとして領土取りや勢力争いを指標にして時代を追うよりも、血脈という流れの中で起きたことを捉える方が取り付きやすいと思って選びました。

本の始まりは500年代、継体天皇の辺りからです。
戦国時代まではまだ随分ありますが、皇室典範改正論の報道が再燃する中、興味深く読むことができました。

皇室典範見直し「しばらく静かに見守るのがよい」と首相

9/6には、小泉首相による改正見送りのコメントが出されていますが、世論は「女性天皇」「女系天皇」ともに賛成が過半数を超えているそうで、賛成理由としての1番が「男性でも女性でも性差はない」、以降「女帝も存在していた」「男女平等」などが続くようです。

男女の性差や平等性の問題は別として、この本を読んでいて分かったのは、過去の女帝の存在を根拠にするのは無理がありそう、ということです。
125代天皇のうち8人10代存在する女性天皇は、いずれも息子や甥など、男子継承者に皇位を譲るまでの中継ぎ的存在です。
皇位継承順位自体が変わる「女系天皇」の過去の事例としては適切でなく、女性・女系を混同したままの世論をとっても意味あるのかなあ、と思います。

いずれにしても、過去の歴史を見ると自分の血脈から天皇もしくは皇太子を出すことが、大きな権力に結びついていたことがわかります。
だからこそ、蘇我氏や藤原氏もこぞって娘を皇族と結婚させようと血道をあげてたわけですけど、今はこんなハングリーさはまず期待できないでしょう。
その上、もし「女性OK」「女系NO」とでもいうことになったら、女性天皇の夫は天皇でも皇太子でもないし、その父親でもないただの人になってしまい、随分ビミョーな立場ですね。女性天皇や女性皇太子の結婚問題は、ずいぶんと難しくなりそう。
さらに女系天皇を認めると、未婚の女性天皇の場合は、天皇としての公務をこなしながら、結婚・出産のハードルを越えなくてはいけない。
女性・女系を認めればたしかに一時的に皇位継承者は増えますが、一世代たって見渡してみるとやっぱり皇位継承者がいない・・・なんてことにはならないのかな?


などということを考えながら読み終え、はっと気づきました。
苦手意識を持ってた戦国時代の歴史、やっぱりあんまり身に染みてこなかったみたい・・・。
司馬遼太郎を読もうかな。

念願の一冊 「鼻行類」

2006-09-02 03:26:03 | 読書
以前から欲しい欲しいと思っていた一冊を入手、一気に読み終えました。

「鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活」
ハラルト・シュテュンプケ著 平凡社

南海のハイアイアイ群島で見つかったという、独自の進化を遂げた哺乳類に関する論文形式の本です。
わたしが鼻行類を初めて知ったのはいつだったかすでに記憶にありませんが、絶版で入手できませんでした。
昨年5月に出版社を変えて発売されていたのも、まったく知りませんでした。
ところが、先日ぶらりと本屋に入ってたまたま通りかかった「手元に置いておきたい名作」というコーナーに、芥川龍之介やらヘミングウェイやらに混じって並んでいるのを見つけ、大喜びで持ち帰ったのでした。

さて、この鼻行類。和名はハナアルキ。
鼻行類という名が表すとおり、鼻が複雑な機能を担うまでに進化し、鼻で歩いたり跳んだり捕食に用いたりする奇妙な生物たちが生物学的に分類され、学名、生態、行動パターン、身体構造、組成構造などが図と共に詳細に記載されています。
さらには、観察にとどまらず系統進化にも触れており、地中にトンネルを掘って暮らすコビトハナアルキに関する記述には、プラナリアなどの仲間がこの種を祖先とするという学説も紹介されており、生物の進化についての想像を掻き立てられます。

バリエーションに富むさまざまな鼻を持つハナアルキの中には、鼻汁を水面にたらして引っかかった獲物を食べるものや、耳で羽ばたき後ろ向きに空を飛ぶもの、鼻で身体を支えて花に擬態し一生その場を動かないものまでいるんです。
多鼻類に分類される仲間は、複数の鼻を持つのが特徴。
一番有名な鼻行類は、きっと長く強く発達した4本の足で逆さま立ちになって歩くナゾベームたちでしょう。

1941年まで発見されていなかった南の島々に、こうしたハナアルキたちが暮らすさまを思い浮かべると、ついつい笑みがこぼれます。
しかし残念ながら、ハイアイアイ群島は1957年に核実験によって水没し、今ではその研究の成果はこの本しか残されていないのです。

1961年にドイツで発売されて以来、フランス、日本でもさまざまな検討や議論を巻き起こしたというこの書。
学術的な正誤は、検索すれば答えはすぐに見つかると思います。
でも、幻想的な詩から始まり、鼻行類の発見と研究によって明かされる豊かな生命の営み、そして島々の消滅で終わる一連の物語を楽しむことこそ、この本の最高の味わい方かなと思います。

鼻行類のフィギュアや模型を作っている方たちのサイトを見つけました。
なにせ、研究半ばで絶滅した動物達ですから、標本も写真も残ってないですからね!

ときわたけしの@鼻行類(ハラルトの歩く鼻♪)

作ったものの記録


句集 『海の蝶』

2006-08-28 22:30:55 | 読書
祖母が句集を出しました。
『海の蝶』です。

今年、89歳の祖母、2冊目の句集です。

はじめは
「(1冊目はすべて自分で選んだけど、今回は)他の人に選んでもらって、
納得のいかない句が載っているから・・・」
と、あまり満足いかない様子だったそうですが、
朝日新聞の書評(ローカル版?)に紹介されたとのことで問い合わせが入るようになり、
今は良かった、と思っているようです。

しかし。
実はわたしも読んだのですが、俳句の世界はまるきり分からないため
せっかくの句集もなにやら難解です。

季節ごとに章が分かれており、冬の章に「寒卵」という言葉が何度か出てくる
ことに気づきました。
土曜日に訪ねた夫の家族も読んでくれていて、土曜日は俳句の分からないもの同士、「寒卵」とはなんだろうか?という話で盛り上がりました。

「きっと、霜柱とか氷柱とか、そんなものがある時期丸く凍ることがあるのでは?」
「いや、きっと寒いから卵みたいに丸くなることに違いない!」
「ねえねえ、冬ってミカンを凍らせて食べるじゃない?丸いミカンが真っ白に凍って卵みたいに見えるんじゃないかな?」
と好き勝手に想像し、なんとなく納得して帰宅したのですが、
早速調べてみると「寒卵」とは、寒いときに産んだ卵は他の季節に比べて
滋養があることから、「ふだんよりあり難いもの」「価値のあるもの」を
表す季語なんだそうです。

わたしたちの盛り上がりはあさっての方向に全力疾走していたみたい・・・

ちなみに、寒卵を季語に使った句はこんなもの。

「寂しさはひとりがよろし寒卵」

おばあちゃん、冬は寂しがっていたものなあ・・・
と思う一方、「ひとりがよろし」ってことはその寂しさも楽しんでいたのかな?
と、肉親ながら甚だ心許ない。

俳句の分からないわたしが、すごいと思ったのはこの句です。

「青梅雨の書院ネガティヴとして父」

いや、89歳にして、「ネガティブ」を「ウ」に点々で書くなんて
カッコイイな・・・ってくらいなんですけど・・・。
青梅雨を、「あおつゆ」と読むのか「おうめあめ」と読むのかも分からないでけど・・・。

もう少し、祖母の気持ちに近づくには地道に俳句のことを勉強したほうが
いいでしょうね。

でも、分からないながらもこの句集にこんな素敵な装丁が付いていたり、
膨大な句の中から、この一冊に纏め上げる選句をしていただいたり、
帯に暖かい帯文を頂戴していたり、書評にお問い合わせをしてくれる方が
たくさんいたり・・・ということだけでも、祖母がどんな人間関係を築き、
どんな方々に心温かく見守っていただいてるのか伝わってきて、
ありがたいことだなあと胸が一杯になります。

そして、早くに夫を亡くして長いこと独りで暮らしながら、多くのことに
チャレンジし、たくさんの人と交流して、こんな素敵な仲間達に囲まれている
祖母にも頭が下がる思いです。
孫バカかも知れませんけどね・・・。

「宇宙エレベーター」読了

2006-08-20 23:11:47 | 読書
トルコ人初の宇宙飛行士候補であるアニリール・セルカン氏の著作、「宇宙エレベーター」(大和書房)を読みました。
「友達の元カレが書いた本なんだけど・・・」といって貸してもらった本なので、さほどの期待なく・・・というより、「ちょっと怪しい?」などと思いながら読み始めたのですが、良いほうに期待を裏切ってくれる一冊で、一気に読了。

本の帯に、分かりやすく著者と本の内容がまとめられていますので紹介します。

ATA宇宙エレベーターの考案者としてNASAをはじめ各国の宇宙開発に参加する、トルコ人初の宇宙飛行士候補アニリール・セルカン。ケンブリッジ大学物理賞、アメリカ名誉勲章など数々の栄誉に輝く著者が贈る、21世紀のガリバー旅行記。

本書の中では、宇宙、次元、原子などの科学的な問題に触れながらも難しい内容ではなく、興味を呼び起こすような例えや自身の子どものころの体験談を紹介していきます。
自然エネルギーだけを利用するサッカースタジアムの模型を、たった一人で作って科学コンテストに臨んだ9歳のときのチャレンジ。
仲間達とともに、タイムマシン作成に挑んだ15歳のときの試行錯誤。
そして、科学の発展と神話や聖書の世界にまで想像力の羽を伸ばし、なんとシュメール語の石盤までご自身で調べ、訳しています。

想像すること、創造すること、自由な発想を持ち、行動に移すこと、そして可能性を信じることの大きな力を教えてもらえる、すばらしい本でした。
帯に「21世紀のガリバー旅行記」とあるように、この人の人生は創造の旅です。
そして、ガリバー旅行記と同じく、こどもにも大人にも大きな夢と冒険心を与える本として、お勧めしたい一冊。
多分、この本は将来のセルカンたちへの贈り物として書かれたような気がします。

書店で手に取っている人を見かけたら、「ぜひ読んでみて!」と声をかけてしまいそう。
お借りした本ですが、身近に置いておきたい一冊として購入しようと思っています。

ルイス・セプルベダ 「ラブ・ストーリーを読む老人」

2005-03-04 21:29:20 | 読書
図書館の本には帯もなければ説明書きもないので、この本を手に取ったのは、以前読んだこの著者の別の物語、「カモメに飛ぶことを教えた猫」が面白かったことを思い出したからでした。

先日のブログ飲み会のとき、ちょうど、アマゾンの開発と環境運動家の暗殺の話などをしていたので、借りて帰った本の献辞に、アマゾンを守るための環境活動家で暗殺された「シーコ・メンデスへ捧ぐ」とあるのを見たときは、その偶然に驚きました。

思うに本というものは、こうした悪戯をよく行うようです。
何かの話をしていると、後から関係した本がぽっと手に入る。
何かの本を読むと、それに関係した話題が転がり込んでくる。
巡り会わせとでもいうのでしょうか。

さて、物語はアマゾンの奥地に入植し、厳しく豊かな自然との共存の仕方を先住民から学んだ老人が、オセロット(山猫)と戦う話です。
市長によって山猫退治を余儀なくされた老人ですが、彼は山猫と戦いながらも、その意識は常に山猫の側、自然と暮らすものの側にあるように思えます。
山猫は、外国からやってきた白人に、小さな毛皮のために子どもたちを殺され、つがいの雄を傷つけられて怒り狂って人を襲っているのでした。

一番古い入植者である老人が村にたどり着いたとき、そこは密林の真っ只中でした。
人々は自然の力に負けて死んでいき、老人は先住民に教えられることで生き抜いてきたのです。
しかし、この村にも開発の波が押し寄せ、外国からも人がやってきて、自然の掟に反した振る舞いをするようになったことが、自然を遠ざけ動物達をおかしくさせた原因だと、老人には分かっているのです。


途上国の開発という問題を考えると、わたしはいつもなもやもやっとした割り切れない思いを抱えます。
わたしたちは、彼らより一足先に燃料を使い、大量消費を謳歌し、二酸化炭素を大量に放出して、いま、電気やガスが通って必要なものは一切が揃った暮らしをしています。
その快適な部屋から、単純に「反対」と叫ぶことは難しいと思うのです。
わたしの前には、ペルーに留学中に見た貧しい人々が目に浮かびます。
暮らしのために山岳地帯やアマゾンを捨て、町に出てくる人もたくさんいます。
手付かずの自然を前にした人々が、今よりもう少し良い暮らしをしたいと望み、そのために開発に夢を託すことを単純に非難することはできません。

一方で、こうした人々が密林や山を切り開き、新しい開発を進めたところで、受け取るものはほんのわずか。彼らの暮らしを劇的に裕福にするわけではありません。
利益はもっと大きいところに吸い取られていくのですから。
一部の人たちが、多くの人の幻想を利用して開発を進めている。
この現状に対して、反対運動だけではきっと解決にならないだろうと感じます。
大きな幻想にとって代わることのできる別の夢、実現可能な夢が必要なんだと思います。
フェアトレードを知ったとき、これこそが新しい夢となりえるものかもしれないと思いました。
そう言い切るには、もっとトレードする双方の側で普及が必要なのでしょうけれど。

少し話は変わりますが、観光地の外国人料金というものへの認識も、ペルーに行ったときに新たにしたのでした。
ペルーでは、ナスカをはじめとして、外国人料金が一般よりかなり高く設定されている観光地があります。
同じものを同じように見るのに、なぜ料金がこれほど違うのかと納得できない思いをしたこともあったのですが、こうした料金の徴収の仕方は実は理にかなったものだと思うようになりました。
自国のことを学ぶために訪れた人々にはできる限り安い値段で、そして海外から観光で訪れる余裕のあるものには外国人料金として高いお金を取ることで、観光地を維持しているのです。

いよいよ本格的にタイトルから話がずれてきましたが、この本にはわたしが書いたような環境問題云々が声高に描かれているわけではありません。
濃い密林に飲み込まれているかのような気持ちにさせる生き生きとした描写で、アマゾンの村の生活と一人の老人の生き方が描かれています。
章が進むにつれ老人と気持ちが寄り添っていき、そしておかしなことに山猫にも感情移入していきます。読み終わった後、長い夢から覚めたような気持ちになりました。
旦敬介氏の訳も素晴らしく、久しぶりに美しい文章を読んだと感じました。
読んでいない方にはおすすめです。