かつて超音速で有名なマッハは等速円運動を慣性系の一種と考えて重力理論を構築することを志し、それは半ばで挫折したというよりもまったく果たし得なかったのであるが、いくつかの条件を提示してマッハ原理と名づけておいた・・。
ここでは詳細は略させていただくとして、アインシュタインの一般相対性理論には内包されていない仮定としてマッハ原理の名を冠しておくことにすると、その具体的な内容とは「地球の自転のような運動は相対的に地球が止まっていて宇宙の他の物体がすべて逆方向に同じ角速度で回転していることと同義」というかなり大胆な物でした。地球と月のような関係を「互いが互いの周りをまわっている」とするプラグマティズム(実用主義哲学)で語るような話に似ているが、そして私としたらプラグマティズムと同じく物理学的には無内容だと思えるのだが、当時は人類史的にも万事まだ夢の中で模索しているような時代で、重力そのものの根源と深くかかわっている原理であるようにように思われ、言うなれば著しく過大評価されていたことです。
アインシュタインはアインシュタインでマッハ原理に夢中になりました!
バケツに水を入れて回転させると中央が凹んで周りが盛り上がります。マッハ原理が正しいならばバケツ以外の宇宙の物体がすべて逆方向に回転することによって力が働いた結果として水面を湾曲させたことになります。おそらくアインシュタインが影響を受けたことといえば「バケツ以外の宇宙の物体すべてが作用したとすれば重力である」ということと「水面が放物面上に湾曲する」ということを組み合わせた結果として「重力は時空を湾曲させる」という観念に到達したということができると思われます。つまり歴史に残る偉大な才能の結実というのは割りとと俗っぽく考えた結果であるという幾分なりとも皮肉な印象を与えますが、まず少なくともアインシュタインの場合はその通りだったに違いありません。世人がアインシュタインに関して驚くのは、その執念深いとも評され得る我慢強いばかりの持久力や根性に対してであると同時に、そのアッと驚くばかりの早とちりではないかと疑われていいような短絡思考に対してだと言えるでしょう。
ベッソーなどの物理仲間がハッキリとそう言っていたのですからそうであるに違いございませんw)
なお、ここまでの話における回転するバケツとは腕にぶら下げて豪快にグルグル振り回すのではございません、円卓の上にでもおいて水平にゆっくりと回しますと中央が凹んで周りが盛り上がります、この運動の素材を薄くて大きな水銀を入れた円盤状の容器にしますと大きな天体望遠鏡の反射板がが一丁上がりです。角度の関係から天頂しか見られませんが、鉛直真上に来た天体を精度よく見られるのは、その運動における水銀面が理想的な放物面になってくれる手はずだからです。
これで正しいイメージがあなたの大脳に形成されたと存じます・・。
このマッハ原理の持つ回転座標系の世界観は、じつはそのまま「重心周りの回転運動が本当は慣性系ではないのか?」という疑問命題にすり替えて考察す\していく必要があるでしょう。簡単のために数学的厳密に円である暑さの一定な均質な剛体板が円の中心を重心として回転していることにします。あるいはさらに地球や月のような球体が自転している様子を思い浮かべてもいいでしょう。いずれにせよ摩擦や空気抵抗など運動を阻害する要素を排除して考えてよければこのような等速円運動は決して止まらないでしょう。しかし、だからと言ってマッハ原理が検証されたわけではございませんし、等速直線運動以外に等速円運動も慣性運動だと論証されたわけでもさらさらございません、残念ですが。
アインシュタイン力学的自然観では剛体仮定を論証に用いることは禁則なのです!
剛体を仮定してよければ端から端まで瞬時に情報が伝達できで光速度一定原理を破ってしまう事態を想定しなければならなくなりますからw)
ひょっとしたらこのことはアインシュタインがボーアを相手どって一矢報いることのできる好例になりましょうか、ニールス・ボーアの提唱した対応原理にとって完全な反例となっております。対応原理とはニュートンによる古典力学的世界観と新しい相対性理論や量子力学による世界観とは数学的な極限過程を通して連続的につながっているとするものです。相対性原理的世界は光速度が無限大である極限を取ることによってニュートン力学の世界に戻るのであるし、量子論の世界はプランク定数が0である極限を取ることによって同じように古典的な世界となり、その間には一切の不連続的な質の違いということは見られないというのです。ああ、まさにその理由によってマッハが見出したようにニュートン力学は剛体過程から自己崩壊してしまうことが明らかになったのですよ、もし剛体を仮定してよければ等速直線運動だけでなく等速回転運動も慣性系になってしまう、となると慣性系の仲間として極座標表示の系を導入しなくてはならない、そしてそれは不合理である、という風にね。
(一般相対性理論そのものの考察については次回に)
ここでは詳細は略させていただくとして、アインシュタインの一般相対性理論には内包されていない仮定としてマッハ原理の名を冠しておくことにすると、その具体的な内容とは「地球の自転のような運動は相対的に地球が止まっていて宇宙の他の物体がすべて逆方向に同じ角速度で回転していることと同義」というかなり大胆な物でした。地球と月のような関係を「互いが互いの周りをまわっている」とするプラグマティズム(実用主義哲学)で語るような話に似ているが、そして私としたらプラグマティズムと同じく物理学的には無内容だと思えるのだが、当時は人類史的にも万事まだ夢の中で模索しているような時代で、重力そのものの根源と深くかかわっている原理であるようにように思われ、言うなれば著しく過大評価されていたことです。
アインシュタインはアインシュタインでマッハ原理に夢中になりました!
バケツに水を入れて回転させると中央が凹んで周りが盛り上がります。マッハ原理が正しいならばバケツ以外の宇宙の物体がすべて逆方向に回転することによって力が働いた結果として水面を湾曲させたことになります。おそらくアインシュタインが影響を受けたことといえば「バケツ以外の宇宙の物体すべてが作用したとすれば重力である」ということと「水面が放物面上に湾曲する」ということを組み合わせた結果として「重力は時空を湾曲させる」という観念に到達したということができると思われます。つまり歴史に残る偉大な才能の結実というのは割りとと俗っぽく考えた結果であるという幾分なりとも皮肉な印象を与えますが、まず少なくともアインシュタインの場合はその通りだったに違いありません。世人がアインシュタインに関して驚くのは、その執念深いとも評され得る我慢強いばかりの持久力や根性に対してであると同時に、そのアッと驚くばかりの早とちりではないかと疑われていいような短絡思考に対してだと言えるでしょう。
ベッソーなどの物理仲間がハッキリとそう言っていたのですからそうであるに違いございませんw)
なお、ここまでの話における回転するバケツとは腕にぶら下げて豪快にグルグル振り回すのではございません、円卓の上にでもおいて水平にゆっくりと回しますと中央が凹んで周りが盛り上がります、この運動の素材を薄くて大きな水銀を入れた円盤状の容器にしますと大きな天体望遠鏡の反射板がが一丁上がりです。角度の関係から天頂しか見られませんが、鉛直真上に来た天体を精度よく見られるのは、その運動における水銀面が理想的な放物面になってくれる手はずだからです。
これで正しいイメージがあなたの大脳に形成されたと存じます・・。
このマッハ原理の持つ回転座標系の世界観は、じつはそのまま「重心周りの回転運動が本当は慣性系ではないのか?」という疑問命題にすり替えて考察す\していく必要があるでしょう。簡単のために数学的厳密に円である暑さの一定な均質な剛体板が円の中心を重心として回転していることにします。あるいはさらに地球や月のような球体が自転している様子を思い浮かべてもいいでしょう。いずれにせよ摩擦や空気抵抗など運動を阻害する要素を排除して考えてよければこのような等速円運動は決して止まらないでしょう。しかし、だからと言ってマッハ原理が検証されたわけではございませんし、等速直線運動以外に等速円運動も慣性運動だと論証されたわけでもさらさらございません、残念ですが。
アインシュタイン力学的自然観では剛体仮定を論証に用いることは禁則なのです!
剛体を仮定してよければ端から端まで瞬時に情報が伝達できで光速度一定原理を破ってしまう事態を想定しなければならなくなりますからw)
ひょっとしたらこのことはアインシュタインがボーアを相手どって一矢報いることのできる好例になりましょうか、ニールス・ボーアの提唱した対応原理にとって完全な反例となっております。対応原理とはニュートンによる古典力学的世界観と新しい相対性理論や量子力学による世界観とは数学的な極限過程を通して連続的につながっているとするものです。相対性原理的世界は光速度が無限大である極限を取ることによってニュートン力学の世界に戻るのであるし、量子論の世界はプランク定数が0である極限を取ることによって同じように古典的な世界となり、その間には一切の不連続的な質の違いということは見られないというのです。ああ、まさにその理由によってマッハが見出したようにニュートン力学は剛体過程から自己崩壊してしまうことが明らかになったのですよ、もし剛体を仮定してよければ等速直線運動だけでなく等速回転運動も慣性系になってしまう、となると慣性系の仲間として極座標表示の系を導入しなくてはならない、そしてそれは不合理である、という風にね。
(一般相対性理論そのものの考察については次回に)