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国家犯罪!731から熊本大震災まで!!

2016-04-29 09:14:25 | Weblog

●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。



細菌戦被害の人々


(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)


暴かれる毒ガス戦の真実


(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦





細菌戦部隊731 


石井隊長の戦後1



細菌戦部隊員の戦後より
次は戦争中細菌戦部隊及び組織に属していて、
戦後、国立予防衛生研究所をはじめとした国の機関に関係した人です。
注:国立予防衛生研究所は、現在国立伝染病研究所~国立感染症研究所)
「 大学、研究機関、企業関係 」
*田中英雄   (当時)731部隊第2部実施研究の昆虫班班長 ペストノミの研究
約70人以上を人体実験した。ネズミの習性に関する研究やネズミを使ったノミ繁殖研究
(戦後)大阪市立医科大学長  私立兵庫医科大学で教鞭
*笠原四郎   (当時)北里研究所から731部隊第1部第8課長 リケッチア・ウイルスの研究
(戦後)戦後都立豊島病院
北里研究所病理部長
*石川太刀雄丸 (当時)731部隊第1部石川班で病理研究
金沢大学医学部病理学教授
アメリカのヒル&ヴィクタ-調査報告書によれば「・・・・岡本耕造博士によれば、金沢大学にあった病理データは1943年に石川博士によってハルビンから持ち帰られたものである。
それはおよそ500人の標本からなっていた」と書かれています。
1943年石川は金沢大学医学部教授となる。
特に流行性出血熱(孫呉熱)の研究で有名。
北野政次の「防疫秘話」の記述では「・・・・流行性出血熱の研究では・・・・昭和11年11月初旬、トゲダニを朝比奈技師が集め、金沢博士が11月6日実験し、笠原博士が引継ぎ、11月14日石川博士の病理報告で実験成功を知り、その後笠原博士の努力で病原体がウイルスである事が決定・・・・病理研究は所博士が引継いだ」とあります。
また同調査に対して「ペストは自然の流行の際に集められたものばかりでなく、人工的にペストに感染させ解剖した人から採った標本の数として、総数は180」と答えています。
論文「炎症(殊にペスト)に関する研究」では満州国農安地区ペスト流行に際して、ペスト屍57体解剖を行った。之は体数に於いて世界記録であると自慢しています。
(戦後)1949年 日本細胞化学会を創設
1954年 オランダの国際細胞学会に日本代表
1962年 第6期日本学術会議第7部会員に選ばれる
1967年 金大医学部付属神経情報研究施設長
1968年 金大がん研究所長

「ミドリ十字」という会社


以下、ウィキペディアより
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。




●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗



アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)







自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回 
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!





※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!



日本は現在も毒ガスを製造している!!









●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
<特定秘密>新たに61件 記録文書27万2020件に

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造

4 自衛隊の機密事
正体不明の「機密」


ここで、防衛庁の文書体系について述べておかなければならないだろう。防衛庁がその所掌事務について発する文書には、告示、訓令、達、行動命令、一般命令、個別命令、日日命令、指示、通達、承認、許可、上申、申請、報告、進達、通知、協議、照会、依頼、回答、諮問、答申などがある。それぞれの形式、内容、相互関係の基本は「防衛庁における文書の形式に関する訓令」に定められている。これについての一覧表を別に掲げておく (参考資料8)。






●南京大虐殺
・証言
私は抗日戦争前には馬車を駆っていて、日本兵が入って来てからは働けなくなってしまいました。家の近くに崇善堂がありましたが、それは慈善団体で、満清時代からあって、小さい時から知っていました。崇善堂は抗戦前には、冬は綿入れを施したりお粥をやったりし、夏には湯茶を配っていました。日本兵が入って来てから、崇善堂が死体を集めて埋める人を探したので、それまでにお棺を担いでいた人や私のような暇で生活の資の無い人たちが行って、1日やって1円ぐらいでした。私が行ったのはもうかなり暖かい時で、3月が4月くらいのことでした。初めの日は水西門外二道○子の金華醤油廠に行き、その工場の醤油のかめから屍を掬い上げたのですが、それはどれも日本兵が中国人を抛り込んだもので、それに別の所から集めて来た屍もありました。暖かくなったので、屍は臭くてもう嗅ぐことができず、1日やって、やりたくなくなってしまいました。私と一緒に行ったのでもう1人私が前に馬車を駆っていた時の助手だった王小洋がいましたが、彼は同じチームになりませんでした。(明日に続く:戦国利と楊正元が記録)※○は日本の漢字に変換できない字
明くる日は行かずに、小さな商売をしようと思ってもできないで、何日かしてから又屍を埋めに行ったのです。前後して1週間ほどやったのでした。屍を埋める時は、みんなにチョッキが1つずつ配られ、それには前にも後ろにも字が、白地に黒で、崇善堂と書かれていて、それに長方形の官印が押してあったと覚えていますが、それと前を歩くのが旗を持っていました。あの時はまだかなり乱れていたからで、そうしなかったら日本兵がむやみに捕まえたり殺したりしたかもしれません。屍を埋めるのは近くに穴を掘って埋めたり、旧からあった壕や溝に引っ張って行って抛ったりして、土を詰めるのですが、埋めた屍は、ちゃんと整っていたのはほとんど無く、道具は鉄で引っ掻く鈎でした。
あの醤油廠は、今の第2製薬廠の前進です。屍を埋める時、埋めた人数は数えないで、日数でお金を数えていましたが、崇善堂には付いていて専ら数を数えているのがいました。一緒に屍を埋めるのに加わった王小洋は、5年前に世からいなくなりました。1週間くらいやった後もうやりませんでしたが、他の人はまだやっていました。小さな商売をしていた時に、下関に行ったら草鞋峡の所に屍が一番たくさんあって、それはみんな波に砂浜まで押し寄せられたのでした。それに魚雷営にも死んだ人がたくさんいました。(戦国利と楊正元が記録)



しゃべってから死ぬ!南京大虐殺









●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より



・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第3部
燃える死体の山


手袋が配られたところもあったが、私達のところは素手のままである。死体の手触りというものは、何か血の循環を妨げるような、ひやりとする感触がある。確かに息絶えているに違いないのだが、病死者と違って丸々と肥った屈強の囚人は、手をかけると今にも、嚙み付きそうに思える。いかに追い詰められた心情にあるとはいえ、その悶死の表情には、やはりたじろがないではいられなかった。しかし、不気味だといって躊躇は許されない。
中庭に引きずり出して、火のそばに持ってゆくと、他の者がそれを受け取って穴に投げ込む。するとまた他の者が石油をかける。あっという間に、表面が黒焦げになり、重ねられた数十人の死体は、ぶつぶつと異臭を放ちながらやけだたれてゆく。



厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)

医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)

※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。



真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
黒い太陽 731 安達(アンダー)実験場





●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏

天皇と木戸が当初から東郷の立場に立ち、4条件派の軍指導層に反対していたかどうかは疑わしい。両者はともに、即時に無条件降伏するよりは自滅的な戦争の継続を望む軍人や文民の徹底抗戦派に、いまだに同調していると思われる節があったからである。8月9日、近衛が細川護貞を軍令部に出向かせ、ポツダム宣言受諾を天皇に説得するよう弟の高松宮に(木戸を通じて)働きかけたり、さらにその午後遅く、4条件派に立つ木戸を説得しようと近衛は外交官重光葵の助けを借りたりしているからである。実際、木戸は、高松宮や重光に説得されて東郷の見解に立場を変えたのである.
戦争終結の功績は、宮廷の指導者たちを補佐した若い世代の官僚にも与えられるべきである。それは内大臣秘書官長松平康昌、内閣書記官長迫水久常、東郷と重光の秘書官加瀬俊一、米内海軍大臣の側近高木少将である。彼らは天皇の側近上層にポツダム宣言受諾を求めるよう働きかけただけではなく、降伏後、敗戦によって生じる事態から天皇を守るために舞台裏で重要な役割を果たした。のちに、彼らは天皇を守るために降伏の過程全体に関する情報を制限し、歪めた。松平は、天皇が戦中に果たした役割について、虚偽の説明を「マッカーサー・レポート」に公式な説明として掲載させることに成功さえした。






●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その2)

序曲

裕仁は、憲法を神聖な文書と考えていた。何年にもわたり、彼は思いのままにそれを用い、解釈してきたが、それを改正しようとは考えたこともなかった。その憲法は、彼の神格化された明治天皇によって発布されたもので、かってローマの元老院がネロやシーザー・アウグストゥス皇帝に与えたものより、もっと絶対的な力をその皇位に与えていた。それは、こまごまとした押し付けられた義務と、授与された巧妙な制限付きの権利を列挙していた――「法の制限内の」表現の自由、「秩序に害せず、臣民の義務に反しない」信教の自由。そしてその総体的な傾向は、たとえば、請願における絶妙な日本的条項に実例が見られた――「日本臣民は、望ましい形の敬意が認められ、そのために特別に用意された規定に従うことにより、請願することが許される」。


続きは「ノブのノート」

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