「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
原爆
原爆投下にまつわる「俗説」を検証する【広島原爆から76年】
古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
2021/8/6(金) 10:29
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4.広島原爆投下時に空襲警報が解除されていた→正
1945年8月6日の米軍による核攻撃の際、一旦空襲警報が出たがそのあと解除された、という証言が被爆者からある。これは正しい。なぜこういう事になったのかというと、まず原爆投下に当たっては、原爆を搭載するB-29に先行して、気象観測機が先発していた。これで広島市上空の天候を測り、原爆投下に妥当かどうかを判定し後続機にその情報を伝えることを任されていた。当時米軍機は、たとえ爆撃目標が雲で覆われていても空襲が可能なレーダー技術を持っていたが、原爆投下は特殊任務のため、雲のない晴れ間に於いての目視投下を厳命されていた。よって先発の気象観測機が広島上空に到達した際、日本側がそれを探知して空襲警報を出したのである。
●東京帝国大学伝染病研究所
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
宮川米次
4、ウィルスに関する研究
特に馬に於けるそれは蚊によって媒介せられると、米人は言っている。或種の腫瘍はウィルスによって惹起せられることも疑いを容れる余地がない様にさえ思われるに至った(この点については別項に聊か記載する積りである)。人類の病原体として、ウィルスはリケッチャ類と共に極めて重要なるものとなって来ていて、決して細菌類のそれに劣るものではないが。今後特殊の考案を案出しなければ、現在の方法によってのみでは余り長足の進歩は見られない。この時に当たって、超弩級の顕微鏡がドイツに報告せられた由を昨年科学知識誌上によって報ぜられた。その他にも新たなる考案が近く報ぜられるのであろうと思う。以下2,3の新知見を摘録する。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
Ⅱ
したがって、当然のこととして、天皇は 「ファッショに近きもの」の選択も認めなかったが、これは暗に(増田知子が指摘するように)枢密院副議長の平沼騏一郎を指していた。反民主主義的で右翼の圧力団体でありながら政治の主流にいる国本社の総裁、平沼は明治憲法は改正されるべきだと主張していた。平沼はみずから組閣することを望み、そしてこれについては森恪の支持を受けていた。民間の右翼活動家たちは、早くから平沼に宮中官僚になるよう働きかけていた。そして、平沼は枢密院、軍部、民間の右翼結社に多くの支持者がいた。老練な元老西園寺は言うまでもなく、天皇とその側近にとっても、平沼に反対する理由は十分にあったのである。
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